バットマンの宿敵が誕生するまでを、独自のストーリーで描いた映画『ジョーカー』が、予想を超える反響を呼んでいる。世界興行収入が923億円を突破し、R指定映画として史上最高の記録を更新、アメコミ映画が比較的苦戦するといわれている日本の週末興行ランキングでも、4週連続で1位を獲得する快挙を達成し、まだまだ数字を伸ばしている状況だ。
そんな『ジョーカー』は、同時にいろいろな意味で波紋を広げてもいる。『ヴェネチア国際映画祭』最高賞受賞という異例の快挙にはじまり、アメリカでの公開に際しては、警察や陸軍が警戒態勢を強化するという事態……。社会的責任をめぐる内容への賛否の声、製作サイドや巨匠監督の発言が物議を醸し、使用楽曲に対する問題提起が生まれるなどなど、大ヒットを成し遂げるなかで、あらゆる角度から騒動が発生しているのだ。
『ジョーカー』は、なぜこんなにも人々の心をざわつかせ、娯楽作品の枠をはみ出して社会を騒がすまでの存在になり得たのか。ここでは、いままでの騒動の中身を詳しく見ていきながら、その理由について徹底的に考察し、本質部分に迫っていきたい。
娯楽大作として異例の『ヴェネチア』金獅子賞。『ジョーカー』の持つアートフィルムとしての性質
本作の公開前に『ヴェネチア国際映画祭』で金獅子賞を獲得したニュースは、多くの映画ファンを驚かせた。アメリカの娯楽大作が受賞することすら稀な世界三大映画祭において、ましてやアメコミヒーロー作品が最高賞を受賞するというのは、史上初の出来事である。
そうなった大きな理由は、本作が娯楽映画であること以上にアートフィルムとしての性質を多く備えていたからだろう。本作は積極的に、『タクシードライバー』(1976年)をはじめとする、ニューヨークを舞台にした、かつてのマーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演映画の表現を模倣し、作家性の強い過去のアメリカ犯罪映画を現代に甦らせようとする。当初、製作にスコセッシが参加するはずだったことや、デ・ニーロ本人が本作に出演しているところからも、その志向は容易に読み取れる。
このアプローチは、例えばクエンティン・タランティーノ監督の諸作や、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ドライヴ』(2011年)などにも近い。犯罪映画を中心とする既存の作品の要素を解体して抽出し、新たなものを構築する「ポストモダン」的な取り組みが、そこに存在するのである。本作に対して批評家たちが無視できないというのは、このようなアート作品としての文脈を読み取っているからであろう。
「カリスマ的な悪」ではなく、「一人の人間」として描かれたジョーカー
さらに本作のジョーカーは、従来のような突き抜けたカリスマ性を持った悪のキャラクターとしてではなく、複雑な心理を持ち、善良な存在にもなり得る、一人の「人間」として描かれているのが特徴的だ。主人公の心理の揺らぎが主軸となるのは、シェイクスピアなどより始まる「近代文学」的な価値観でもある。そこでは、やはり文学的な要素が強く、残酷な描写のある名作映画『嘆きの天使』(1930年)や『 西鶴一代女』(1952年)、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)といった作品を思い出すような、ひとりの人間が転落していく姿と、同時に悲劇から逆説的に生まれる一種の高揚感や神聖さすらも映し出しているのだ。
くわえてそこに、大量生産のための機械的労働によって人間性を喪失し狂気に走るという内容のチャップリンの喜劇映画『モダン・タイムス』(1936年)のイメージを投影させるとともに、社会保障の打ち切りによる精神的な病の治療の中止という事情を描くことで、ジョーカーという悪が、貧富の差や、弱者に対して酷薄である環境が生んでしまった副産物であるという見方も用意されており、物語は社会派作品としての存在意義まで主張している。
あくまでヒーロー作品の文脈から逸脱することはなかった『ダークナイト』との違い
これらの要素は、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008年)にも存在していた。アメリカの同時多発テロからイラク戦争までの社会背景を象徴的に物語に盛り込み、正義を信じる人々がジョーカーのたくらみによって悪に転じたり、倫理観を見失ってしまうという内容である。だが『ダークナイト』は、最後には理性がジョーカーの仕組んだ計画に打ち勝つという描写をしっかりと入れることで、あくまでヒーロー作品の文脈から逸脱することはなかった。
対する『ジョーカー』は、『タクシードライバー』の結末がそうであったように、ヒーローと悪の違いを無効化してしまうような価値観を持つことで、ジョーカーという存在を、映画『バットマン』のシリーズが持っていた従来の制約から解放してしまったのだ。
正義と悪の対立構造が無効化した本作。銃乱射事件の被害者遺族は劇場公開に懸念も
このように、正義と悪の対立構造が崩れたヒーロー映画というのは、近年ではジェームズ・ガン監督の『スーパー!』(2010年)や、M・ナイト・シャマラン監督の『ミスター・ガラス』(2019年)くらいだったのではないだろうか。『ジョーカー』監督のトッド・フィリップスは、ワーナーに企画を持ちかけたとき、「狂ったアイデア」だとされ、当初は相手にされなかったと振り返っている。
そのような冷ややかな反応の背景には、ワーナーが『ダークナイト ライジング』(2012年)を公開したとき、コロラド州の映画館の劇場内で無差別乱射事件が発生し、死者12人、負傷者多数という大惨事が起きたという経緯が大きく影響しているはずである。一説では、この事件の犯人は『ダークナイト』に登場したジョーカーに影響を受けたのではないかといわれている。犯人自身が、取り調べ時に自分はジョーカーだと主張したという話が伝わっているのだ。
当時警察は、そのような事実はないと否定しているものの、今回の『ジョーカー』公開に際して警戒態勢をとったことから、実際には警察も事件への関連を深刻にとらえていたことが分かる。そして銃撃事件の被害者遺族ら5人が、ワーナーに『ジョーカー』公開への懸念を示す書簡を送ったという報道も話題となった。
映画の「危険性」を認識したうえで物議を醸す方向に「自ら突っ込んだ」トッド・フィリップス監督
何にせよ、このような無差別的な殺人事件が絶えずアメリカで起こっているのは周知の事実であり、その上で、「貧困にあえぐ平凡な市民が銃撃事件を起こす」という本作の内容は、挑発的なまでに不謹慎だといえよう。さらに本作は、ジョーカーに影響されて、虐げられた市民たちがピエロ姿になったり暴力行為に及んだりする内容を描いている。つまり、フィリップス監督は本作の危険性を十分認識していて、それをあえて利用しながら、物議を醸す方向に自ら突っ込んでいっているのである。それは劇中の印象的なシーンにおいて、小児性愛者で児童虐待の罪を犯したことで服役しているゲイリー・グリッターの楽曲をわざわざ使用するという姿勢からも分かる。
とはいえ、本作はこのような危険性が内在するからこそ、善悪を超えたところで社会問題を描くことを可能にしたということもたしかではある。ここまでの不穏な描写は、やはり現代の問題を扱ってきた、『アベンジャーズ』シリーズを中心にしたマーベル・スタジオ作品にも、また近年のDC映画にも存在しなかったものだ。マーティン・スコセッシ監督やフランシス・フォード・コッポラ監督が、ヒーロー映画について苦言を呈したことが話題になったが、それは現在最も成功しているジャンルに、このような踏み込みや奥行きが足りなかったということを述べたかったのではないだろうか。だからこそ、『ジョーカー』は強い意志がなければ作ることができない映画だったともいえる。その意志は、蛮勇とも狂気ともいえるだろう。
『ジョーカー』は不謹慎すぎて笑えないコメディー? 「現実の社会問題の反映になっていない」という指摘も
いままで『ハングオーバー!』シリーズなどの不謹慎なコメディー映画を手がけてきたフィリップス監督は、インタビューのなかで「ウォークカルチャー(差別など社会問題に対して意識的であろうという風潮)」が活発になっている状況下でコメディーを作ることの容易でなさを述べ、『ジョーカー』ではコメディーであることを放棄したと語っている。裏を返すと、それはコメディーの代替的な表現であったといえないだろうか。つまり、あらゆる危険な要素や、リアルな社会情勢を盛り込みながら、不謹慎過ぎて笑えないコメディーを作ったということだ。
もちろん、そういった不謹慎さをストレートに批判する声もある。さらにもっと踏み込んだ批判として、本作が「現実の社会問題の反映になっていない」という指摘もある。近年報道されている無差別的な銃乱射事件の犯人は白人男性ばかりであり、一連の事件は「白人テロ」とも呼ばれている。その思想的背景には、ナショナリズムや白人至上主義による人種差別があるケースも多く、このような思想を煽ったとされるドナルド・トランプ大統領の差別的発言が批判されることも少なくない。現状に不満を持つ白人が、その原因を他者に求め、差別意識を強めることによって暴力行為に及ぶという流れだ。そして、このような犯人像には、アーサーや彼に影響を受けた暴徒たちは、あてはまらないのだ。
「脚光を浴びる存在になりたい」と願う主人公。自己実現は思い込みや狂気の中にしか存在し得ず、「暴力」によって社会と関係を持つ
では、本作が描こうとしているのは何なのか。
それは、何の実績もないアーサーが、テレビのコメディー番組で脚光を浴びるという、甘い夢想に溺れる癖があるところから分かってくる。特別な人物になりたい、何かを成し遂げて脚光を浴びる存在になりたい……そしていつか、自分を理解してくれる理想の伴侶とめぐり逢いたい。そのような願望こそが、過酷な日常を耐えるアーサーの精神的な最後の砦となっていたのだ。
翻って、アメリカという国が、万人が憧れる夢を叶えてくれるかというと、もちろんそんなことはない。メディアにはきらびやかな人物たちが次々に登場するが、人より圧倒的に優れた何かを持った人物でない限り、その門戸は針の穴よりも小さいのだ。ならば、テレビドラマや映画が提供するような「普通の幸せ」やイメージを手に入れられるかというと、貧富の差が拡大する社会のなかで、まともな医療にもかかれない貧困層には、それすらも縁遠い。ただ生き抜くことですら、ほとんど苦行に近いものになっているのが現状だ。自己実現は、思い込みや狂気の中にしか存在しない。
くわえて、持病によって周囲に気味悪がられ、対人関係にも大きな問題を抱えているアーサーは、他人に親切にしてもらうことが極度に少ない。だから、他人を幸福にすることで生き甲斐を感じる生き方を選ぶことすら困難になっているのだ。その先にあるのが、「暴力」によって社会と関係を持つという、倒錯した考えである。
「自分の存在は世界にとって何の意味もないのではないか」という絶望的な問い
これは、ある種の人々にとって、カリカチュアライズされた現実そのものだともいえる。だから、ホアキン・フェニックスが役のパーソナリティそのものになりきってリアルに演じる、どうにもならない現実の象徴であるアーサーが狂気に陥り、悪事に快感を見出す様子を、本能的に「やばい」と感じるのではないだろうか。つまり、凶悪な犯罪を行うまでに至る彼の狂気と、観客の感情が部分的に接続されてしまうのである。
『タクシードライバー』の主人公トラヴィスもまた、彼にとって不本意なタクシードライバーとしての自分に、苛立ちや焦燥感を覚え、何か大きなことを成し遂げたいという使命感のようなものに突き動かされ、銃を持ち出し、不穏な行動を始める。ポール・シュレイダーによる『タクシードライバー』の脚本は、フランスの哲学者サルトルによる小説『嘔吐』からインスピレーションを受けていたといわれる。これは、自分という存在そのものに「吐き気」をもよおす嫌悪感を抱き、狂気のなかで苦悩する、ある研究者の物語だった。
社会のなかで何も成し遂げられなかったアーサーは、自分の隠されていたルーツを追うことで、自分という存在に価値があるはずだという一点に望みをつなぐようになる。その裏にあるのは、「自分の存在は世界にとって何の意味もないのではないか」という、絶望的な問いだ。これは、哲学の分野では「実存的恐怖」と呼ばれる。社会の状態が悪化し、何の幸せも生き甲斐も得られず、居場所のない人々が困窮とともに襲われるのは、このような人間としての根源的な恐怖ではないのか。そして、旧弊な価値観と同化することに救いを見出した過激なナショナリストや差別主義者も、大きな意味では、同じ恐怖から逃れようとしているのではないかと思える。
個人の抱える問題と、殺伐とした社会が共鳴し合い、狂気が肥大化する
本作は、そのような人々が暴動を起こし悪事を働くようになる事態を、ヒーローによって解決しようとはしない。そして、その地獄のような情景を作ったのは、そのように人々を追い込んだ、一つひとつの現実の裏切りが要因にあるということを、一連の描写によって説明していたのである。
アーサーは、「自分が狂っているのか、世界が狂っているのか」とつぶやくが、それはおそらく相互的なものなのだろう。アーサー個人の問題と、問題のある社会環境が共鳴し合うことで、狂気が肥大化していったのだ。それは、狂気にわざわざ突っ込んでいったように見える本作もまた同様なのではないだろうか。
先日、日本が台風の被害に見舞われたとき、ある自治体が避難所にたどり着いたホームレスの受け入れを拒否するという出来事があり、問題になった。のみならず、それを追認するような言葉も、メディアやSNSで飛び出したということで、さらに物議が醸されている。『ジョーカー』という映画は、例えばこのような殺伐として険悪になっていく、アメリカにも共通する、近年の社会に帯びた狂気の反映なのではないか。本作『ジョーカー』をこのような作品にしたのは、この社会を形成しているわれわれ自身の狂気だったのかもしれないのである。
- 作品情報
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- 『ジョーカー』
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2019年10月4日(金)から全国公開
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルバー
出演:
ホアキン・フェニックス
ロバート・デ・ニーロ
ほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
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