生まれ育った場所(糸満)へ還りたいという、僕の気持ちの表れなのかもしれません
―映画を監督するのは初めてだったということですが、脚本制作から、撮影・編集、全国各地での上映を通してどのように感じられましたか?
大城:実は『琉球カウボーイフィルムス』という映画のプロジェクトに関わるのにあたって、監督という立場にこだわっていたわけではありません。普段はCMの企画・演出の仕事をしていますが、映画を作るにあたり、脚本でもいいし、製作でもいいし、車両部でもエキストラでもなんでもいい。とにかくこのプロジェクトを商品(僕らは沖縄県産品と呼んでいます。)にして、できるだけ多くの人々に観てもらいたいと考えました。結果、脚本を採用してもらい自分で監督することになるのですが、脚本作業が七転八倒の日々で、グタグタと書けない辛さ、泣き言をずいぶん妻に聞いてもらっていました。
監督という立場での上映中の感想は、沖縄も含め、東京、大阪、韓国で観てもらったのですが、一言『この場から逃げ出したい!』でした。たくさんの人に観てもらいたいというプロデューサー的な思いと、『方言だらけのこんな地方映画を、わかってくれるのだろうか?』という感情が交錯した記憶があります。ただ、2007年に韓国のプチョン国際ファッタステック映画祭に招待された上映の際、自分の作品で一番うけて欲しいシーンで韓国の人が大笑いしている顔を見た時、今まで味わったこのない感動を味わいました。
―糸満の伝説の空手家「マサー文徳」を作品の題材に選んだ理由を教えてください。
大城:マサーおじいの話は、父親から昔話のように何回も聞かされていて、僕の生まれた糸満では伝説の人です。今回の映画をつくるにあたってとにかくこだわったのは、自分が映画にして観たいものにすること。自分が観客の一人として、お金を出しても大丈夫だぞ! と思える映画にすることを強く意識しました。あたりまえのようですがとても難しい作業でした、何本ものシナリオがボツになりました。実は最終的に『マサーおじいの傘』以外にもう一本脚本があり、自分はその作品を撮りたいと思っていたのですが、スタッフからは実現するのには技術的な問題や、予算の問題がありすぎるとの意見が続出し、泣く泣くあきらめた後に生まれたのが『マサーおじいの傘』でした。
伝説の空手家という人物ですが、武勇伝がないという不思議さ。戦わない強さ。父親との関係。いじめの問題。いろんなキーワードが生まれてきて、かなり早いペースでシナリオを書き上げました。たぶん自分の中で『マサーおじいの話』が熟成していて、なにかに背中を押されるようにできた作品なのかもしれません。それは生まれ育った場所(糸満)へ還りたいという、僕の気持ちの表れなのかもしれません。
―「マサーおじいの傘」では、少年の心の機微がとても美しい映像で描かれています。全編を通して、日向と影のコントラストや水面の反射、雨の滴など、光がとても綺麗でした。映像的な部分でこだわったところ、また、特に想い入れのあるシーンはありますか?
大城:普段CMの仕事でやっているので、映像トーンというか、光、アングル、などにはこだわりはあるつもりなのですが、今回映像で特に意識したのは「湿度」とか「匂い」なのかもしれません。舞台が1975年ということもあって、僕が記憶する当時の糸満の色と匂いを再現したいと思いました。匂いというイメージに関しては、あまり美しい意味合いではなく、たぶん言いようのない湿気臭というか、建物や路地を支配する、いわば霊気のようなものかもしれません。ちなみに僕が一番好きなシーンは冒頭で、マサーおじいが犬の鳴き声の後に、走り去るシーンです。このシーンにはある意味が隠されていて、一人でいつも笑い転げています。
ベタな沖縄の魅力をどれくらいエンターテイメントとして映画に出来るか
―私が特に感動したのは、ねぇねぇから「手(てぃー)ぬ出(い)じらー、意地引き」という言葉を教えられる水際のシーンです。まるで、大切な思い出を振り返った時のような恍惚感があります。もしかして、監督自身にもそうした美しい思い出があるのかなと想像したのですが、ご自身の少年時代が作品に影響している部分はありますか?
大城:このシーンがもし僕の思い出だとしたら、きっともっと素直にすくすくと真っ直ぐな、いい子に育ったのかもしれないですが、残念ながらそんなきれいなおねえさんもいませんでしたし、あくまでも想像のシーンです。
ただ映画では説明していませんが、このおねえさんは僕のおばあちゃんの生まれ変わりが少年の前に現れるという設定なのです。だから、幼い頃おばあちゃんと遊んだ夕暮れ時の思い出が、色濃く反映されたシーンかもしれません。このシーンは少年がなぜ父親を恨んでいるのかが明かされる重要な役割を持つシーンなので、とくに力を入れました。また裏を返せば、台詞が多く説明的になるシーンなので水辺や花びらのゆらぎなどの演出で、女性の心理状態を表現したいと考えました。
―主役の少年が、とても生き生きとしていたのが印象に残っています。それから、距離を置き少年を見守る同級生がいますよね。物語の中では決して目立つ存在ではありませんが、独特の佇まいがあり印象的でした。他の登場人物に対してもそれぞれの物語り(個性)を感じるのですが、子ども達をはじめ役者の方々にはどのような演出をされたのでしょう? 人物を描く上で、特に心がけたことはありますか?
大城:主役の海斗は、オーディションでは見つからず、途方に暮れていた頃にある役者さんに紹介してもらいました。演技の経験もない、まったくの素人の少年でしたが、僕の一目惚れでした。少年の瞳の強さもそうですが、一番感動したのは、撮影のメインのシーンを予定しているロケーションの近くで生まれ育った子だったからです。運命的な出会いを感じました。
海斗とは役の決定後、撮影までの半年間週に一回は会い、サッカーをしたり、食事をしたりしてコミュニケーションを取り、本読みに入るまで学校の先生のような立場でつきあっていました。同級生役の子は、僕のCMによく出てくれる子で劇団に所属する実力派です。出演者の中ではある意味、一番役者的な人なのかもしれません。演出的には、出演者がミュージシャンを始め個性的な人が多かったので、なるべく撮影前に話し合いを持ったことでしょうか。その人を選んだ意味、その人でなければ役が成立しないということをなるべく時間をとってもらいお会いし、理解してもらいました。
―劇中で、監督がつい感情移入してしまう人物はいますか? あるいは、身の周りの人物を思い浮かべながら作り上げた登場人物はいますか?
大城:すべての配役に思い入れはあります。たとえ台詞がない役でもです。とくマサーおじいの孫・満仁が経営する貸し漫画屋にやって来ては、いたずらをして帰る(万引きですけど)不思議な男の役は、思い入れたっぷりで役者さんと盛り上がって作り上げていきました。僕の少年時代に近所にいたあぶないおじさんがイメージです。今こんな人がいたらたぶんすぐ、どこかの施設に連れてかれるだろうなーと思いながら撮影した記憶があります。
―撮影中の出来事で特に記憶に残っているエピソードがあれば教えてください。
大城:僕の現場は主人公マサーおじい役の、かっちゃんに始まり、かっちゃんに終わったと言っていいぐらい彼のペースで進んだ現場でした。ロックミュージシャンであるかっちゃんは、お笑い芸人のように常に周りを笑わせ、必要以上な台詞と演技を監督に要求する、という演技をスタッフに余興で披露し、現場朝5時集合に一度も遅刻せず、10月のどしゃぶり雨の撮影(2日間)を泡盛で乗り切りました。最後の撮影でかっちゃんが見せた淋しそうな目を僕は忘れない。
―とぼけてるけど、誰よりも強く優しいマサーおじい役がとてもはまっていましたよね。『琉球カウボーイ~』のお話になりますが、なぜ全国で上映しようと考えたのでしょうか? また、上映までの道のりで苦労されたのはどのようなことでしょう?
大城:この質問はプロデューサーが答えた方がリアリティーがあっていいかとは思うのですが。『琉球カウボーイフィルムス』という映画のプロジェクトは単なる映画製作の団体ではなく、自らPR・上映、版権管理することを目的としています。苦労しているのは流通の問題です。つまり映画という商品を作っても、なかなか置いてもらえるお店(映画館)がないこと。映画界全体の配給の問題もあるのですが、日本映画の作品数が多く、上映するスクリーンが足りないという現状もあるようです。とにかく上映は今後も続くのでまだまだ問題山積なのですが、自分達の上映スタイルを確立する日までは試行錯誤が続くのでしょう。
―シネコンが主流の時代、沖縄からこうしたプロジェクトが発信されること自体にとても意味があるのではないかと思います。この作品を新宿で観た時、観客の半数は沖縄の方のようでした。沖縄の方=沖縄好きという印象を持っているのですが、それを裏付けられて微笑ましく感じたのを覚えています。上映会場を巡って印象に残っている観客の反応やエピソードはありますか?
大城:とにかく僕らは今回「沖縄好き」の人をかなり意識して映画を作ったので、笑わせどころ、泣かせどころも含めたつかみどころが、自分達の意図したシーンで反応しているかをずいぶん気にしています。つまりここが僕らの映画の生命線だと考えるからです。あきらかに沖縄の人しか理解し得ないネタがどれくらい伝わるか? ということです。僕らは沖縄を題材に、難解な映画を作るつもりはありません。むしろベタな沖縄の魅力をどれくらいエンターテイメントとして映画に出来るかが、今後の僕らの課題になるのでしょう。会場で印象的なのはやはりお年寄り達の、屈託がない笑いでしょうか。その反応にずいぶん救われています。
自分の中の大事なもののすべてが沖縄にあることを、沖縄を離れてから知った
―去年の夏に本島北部のあまり観光地化されていない所で過ごす機会があって、テレビや映画で観る“常夏のオキナワ”とは違う「沖縄」にほんの少しですが触れることが出来ました。そこで実感したのは、「ここは違う国だ」ということです。確かに、言葉も通じるし生活に使っているものや情報は内地と同じものです。
けれど、そこで暮らす人びとの考え方の根本、そして、時間軸が違う。だから、お互いに意識していなくてもどこかが違うと感じるのです。それは言葉では表せない、肌で感じるものです。私は、その違いが面白かったし彼らをとても魅力的に感じました。 監督にとって沖縄は、どのような所でしょうか? また、他の地方や東京について何か思うことはありますか?
大城:今年4月に長女が進学で東京に暮らすことになりました。僕が同じように上京した年から25年が経過しました。僕はいつも娘に将来について質問されると、考え込むふりをしてこう答えます。「自分が一番好きなことを仕事にしなさい。その仕事場がブラジルでもアフリカでもかまわない」。それから最後に一言「そして、最後には沖縄に帰ってきてその仕事を一生続けてほしい」と、付け加えます。
僕は自分が作る作品の本質はおそらく一生変わらないと思います。「自分の生まれ育った土地で、映画を作り続ける」。これが今の自分のすべてです。僕は18歳の頃東京にいたのですが、東京には、どこにいても海の匂いがしない所、人の目を見ずに生活する人ばかりの所だと感じた記憶と、好きな女の子にぎこちない日本語で話しかけては苦笑された思い出があります。
でも、娘に沖縄に帰って来いと言うのはそんな経験からではなくて、自分の中の大事なもののすべてが沖縄にあることを、沖縄を離れてから知ったからです。血とかアイデンティティのせいもあるのかもしれませんが、当時自分が東京という場所にいて沢山の人との関わりの中から、何者であるのかを知るきっかけが掴めたことは確かなのです。僕は、自分の中の大事なものを、映画を通して伝えられたら最高に幸せだと思います。そして故郷に対するそんな思いは、沖縄以外の人の中にもあるのではないでしょうか。
―なるほど、自分の本質に気付くには一度は生まれ育った場所を出てみると良いですね(笑)。ところで、内地の人が“常夏のオキナワ”しかイメージ出来ないのはつまらないことです。また、ウチナーンチュ自身が“常夏のオキナワ”に感化されてしまうのは残念なことです。沖縄に限ったことではありませんが、土地(くに)に根ざした作品が増えたら日本映画はもっと面白くなるはずです。琉球カウボーイフィルムスが沖縄の等身大を伝え、「常夏のオキナワ」とは違う沖縄をみせてくれることを私は期待しているのですが、監督自身はどのような映画を作っていきたいですか?
大城:やはり「自分が一番観たい作品を作る」に尽きると思います。そして沖縄のあらゆる世代の人々をまず最優先に楽しませたい。韓国映画、イラン、インド映画のようにまずその土地の物語にこだわる。そしてその土地の人にこだわる、言葉にこだわる。映画の陰影や読後感などと言われるものは、これらの要素にこだわることから始まるのだと僕は確信します。生まれ育った土地に向き合い描いていくことは楽しくもあり、苦痛もあります。僕にしか描けないものがあるとしたら、土地にこだわることから始めるのが自然な流れなのかもしれません。
―最後に、今後の予定を教えてください。
大城:今年中に新作を撮りたいです。構想はいくつかあり進行中です。また今回の映画を是非「世界のウチナーンチュ」にも観てもらいたい。世界中には何十万という沖縄出身の移民の人々やその家族がいます。沖縄を遠く離れて暮らす人達にこの映画を、僕らが足を運んで上映したいです。
- 作品情報
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- 『琉球カウボーイ、よろしくゴザイマス。』
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沖縄県内外で絶賛上映中
- プロフィール
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- 大城直也
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1965年、沖縄県糸満市生まれ。東京スクールオブビジネスマスコミ広報学科卒業後、CMディレクターとして数多くのCMを手がける。2005年、(株)シュガートレイン共同設立。沖縄県産オムニバスムービー『琉球カウボーイ、よろしくゴザイマス。』にて、『マサーおじいの傘』の監督・脚本を担当する。同作は2007年韓国プチョン国際ファンタスティスック映画祭に正式招待された。
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