会田誠・会田家の作品をめぐる作品撤去・改変騒動
東京都現代美術館の『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』展で起こった、会田誠一家の作品に対して美術館と東京都が撤去・改変を要請した事件は、会田が所属するミヅマアートギャラリーの三潴末雄がTwitterで遺憾を示した7月24日夜から始まり、Tumblr上での会田誠本人の経緯説明、SNSでの多数の美術関係者の抗議などを経て、7月31日現在、いちおう美術館の要請撤回へと決着したようだ。事態の推移に不透明なところの多い事件だったが、昨年から相次いだ「表現の自由」「公共施設である美術館の制度」を巡る出来事(政治的なメッセージを含むとして作品の一部を撤去された、東京都美術館における中垣克久の作品や、わいせつであるとして作品の一部を布で覆われた、愛知県美術館における鷹野隆大の作品など)のアーティスト側の敗色が濃い決着に対して、ポジティブな成果が得られたことが素直に嬉しい。時間を遡れば、昭和天皇の図像を引用した大浦信行の版画『遠近を抱えて』が、県会議員と右翼団体の抗議によって非公開、売却、同作が掲載された展覧会図録の焼却へと発展した、いわゆる「富山県立近代美術館事件」(1986〜2001年)など、思想と表現と検閲の衝突は、これまでに何度も繰り返されてきた。芸術表現に限らず、間違いなく今後も起こるはずの問題を考えるための1つの尺度として、今回の「東京都現代美術館作品撤去改変事件」も記録・記憶に残るだろう。
美術館ってそもそも、誰の場所?
しかし、そもそも『おとなもこどもも考える ここは誰の場所?』展は、会田誠が安倍晋三首相を思わせる姿で、世界各国の「鎖国」をたどたどしい英語で提案する『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』や、会田家による文部科学省への『檄』(檄文の形式を換骨奪胎した、どんな家庭でも発せられうる父・母・子の愚痴)に限らず、刺激的な問いかけの多くある展覧会だった。
会田誠 Courtesy Mizuma Art Gallery
展示タイトルにある「ここはだれの場所?」という問いは、18世紀のフランス革命を経て、すべての市民・国民のための公共財として生まれ変わった美術館・博物館の存在意義、それ自体に向けられている。日本の博物館法第1条に「国民の教育、学術及び文化の発展に寄与することを目的とする」という条項があるように、「国民」に「寄与」することが美術館には求められているが、時代によって美術館の社会的な役割、位置づけは大きく変わる。いくら文化的に価値の高い美術品を所蔵し、それらを活用した学術的に意義のある展覧会を企画し、研究成果を残したとしても、入場者数が少なければ「それって意味あるの?」と言われてしまうのが現在である。
その結果、最大公約数的な「国民」総体の需要に応えるべく、美術館はリゾート施設や遊園地と競合することになる。都市のランドマークになりうるユニークな建築、おしゃれなデザインストア、有名シェフプロデュースのレストラン・カフェを併設し、夏にはアニメやマンガを題材にした体験性の強い展覧会が企画される。それ自体を否定しないし、美術館が社会において果たすことのできる役割の拡張を考えれば、むしろ肯定したいというのが筆者の心情である。だが、そのような拡大成長路線では、美術館本来の目的や理念が薄まり、鋭さを失ってしまうことがしばしばある。美術館は「だれの場所?」だけでなく「なんのために?」「いかにして?」を常に再考し、自らに問うことが、美術に限らず社会全体を含めたあらゆる人間の営為に必要なのだ。
美術館の中に「子どもしか入れない場所」を作って、大人を遠ざけた現代美術家・おかざき乾じろ
『おとなもこどもも考える ここは誰の場所?』展において、この問いの姿勢がもっとも鮮明に現れている作品は、おかざき乾じろ(現代美術家の岡﨑乾二郎)の『はじまるよ、びじゅつかん』だろう。
同作を要約すれば、美術館の中に「子どもにしか入ることのできない美術館」を作ってしまうというもので、入れるのは小中学生、条件付きで高校生だけだ。10代前半を中心とする子どもたちは、1人きりで、あるいは友人同士で、能動的に選択して中に入ることになる。
おかざきが記したステートメントによると「芸術はひとりで感じるところからはじまる」「じぶん(だけ)が感じていることは何なのか、それをつきとめようとすることが 芸術のおもしろさ」とある。強制的に親子が峻別され、子どもたちに1人で作品と向き合うことを要求する空間は「自立のための場」とも解釈できる。夏休みによく行われる子ども向け展覧会の多くは、暗に「大人も子どもも一緒に楽しめる」という含意を前提としている。安全性を懸念してのことでもあるのだが、子どもの体験を逐一大人が把握し、「これは安全 or 危険」「これは子どもにふさわしい or ふさわしくない」とジャッジして、子どもが触れうる事物を管理・検閲し、遠ざけるシステムを、企画者も来場者も当たり前のものとして盲目的に受け入れているのだ。近代的な教育制度や家族制度は、そもそもそのような啓蒙的な思想によって成り立っているのだが、今日われわれがしばしば直面する政治や社会の矛盾を思い出すとき、果たしてそれは絶対的に正しいと断言できるだろうか。
「子どもにふさわしくない」というジャッジの尺度は、会田誠一家の作品撤去要請の際にも、チーフキュレーターの長谷川祐子ら美術館上層部から会田に示されたとされる疑義に酷似している。おかざきが示した「近代的なるもの」への指摘は、東京都現代美術館自身にも向けられているだろう。すなわちそれは、会田誠一家作品の撤去改変要請によって、偶然に現れたのではなく、美術館という空間で当然起こりうる事態として予言されていたのだ。一連の事件によって大きな注目を集めることになった今展覧会は、そもそもの企画意図からして議論を孕んでいたと考えるべきである。
チェルフィッチュ・岡田利規による、「子ども向け」演劇
いったん美術館の話から離れて、今夏に開催された、ある子ども向けの演劇作品について少し書いておきたい。
KAAT神奈川芸術劇場で上演された岡田利規演出の『わかったさんのクッキー』は、人気の同名絵本を舞台化した作品だ。クリーニング屋で働くわかったさんが不思議な鍵を手にしたことで始まる物語は、デヴィッド・リンチ的な不条理劇の様相を呈し、あるシーンでは鍵の持ち主を探すサスペンス、あるシーンではクッキーの作り方を伝える料理講座に変化する。
絵本らしい筋の奇想天外さは、決められた時間・場所・人で表現をやりくりしないといけない演劇にとってハードルの高い題材だが、岡田は、美術家の金氏徹平、音楽家の前野健太らの力を借りて、見事にリアライズした。会場内にばらばらに散らばった、無数のスポーツ用品や日用品の組み合わせを変え、都市の風景、ワゴン自動車、巨大なオーブンなどに見立て、物語をダイナミックに進めていった。
この「見立て」は、わかりやすいものばかりではない。俳優たちの発話の微妙なニュアンス、動作や音楽の時間的な推移を複合的に組み合わせることで、観客の脳内に「車」や「オーブン」のイメージを移植していく。これは岡田が提唱してきた「コンセプション(受胎)」という手法を発展させたもので、むしろこういった演出は、大人よりも子どもこそが受け入れていると感じる瞬間も少なくなかった。本作の成功で、大人だけでなく子どもにも十分に伝わる手法であることが証明されたと言えるだろう。
しかし思い返してみれば、子どもが「こと」の本質を感覚的に見抜き、鋭い指摘を返してくるのは珍しいことではない。そこに「可能性の宝庫」としての子ども像を反映してみるのはいささかロマンティックすぎるが、少なくとも大多数の大人にとっての理解や認識とは異なる精神の経路を子どもたちは持っていて、そこで生じる跳躍的な発想の接続やイメージの転換、あるいは一切の理屈を一気に突き抜ける直裁さが、凝り固まった「大人=社会」の間隙を突くことは多くある。アンデルセンの童話『裸の王様』で、王の権威を揺るがしたのが子どもの「王様は裸だ」の一言だったように、大人でないものは、革命の火種すら生み出しうる。
おかざきの『はじまるよ、びじゅつかん』解説文にある「お母さんも先生も入れない、こどもたちがそれぞれの言葉を語り始めるための、革命の舞台が出現します」という言葉は、夢みがちで大仰なシュプレヒコールではない。
「自意識と戦う、思春期を迎えた子どもたちのための子ども展でもありたい」(薮前知子 / 東京都現代美術館学芸員)
さて、結論であるが「大人は子どもをなめてはいけない」と言いたいわけではない。大人も子どもも千差万別で、周囲の空気や期待を読んで最適解に向かう器用さは持ち合わせていても、柔軟な想像力に欠ける人間は大勢いるし、その逆も然りである。重要なのは、自分たちが持ち合わせた常識や価値観を、金科玉条の不文律として盲信しないことだ。
おかざき(岡﨑)が『はじまるよ、びじゅつかん』で選んだ作品は、正直、難解でマニアックな作品ばかりだ。しばしば深遠に過ぎる岡﨑乾二郎の作品や論考がそうであるように、これらの作品群を作家の思惑通りに理解するためには、既存の美術史や作品評価を大胆に読み替える必要がある。しかし、それよりも大切なのは、多くの作品がドローイングなど習作・イメージスケッチに近いものであることだと思う。これらはアーティストが迷ったり悩んだりした痕跡であるかもしれず、親から離れ、自意識と格闘しはじめた子どもたち(格闘の渦中にある中高生を含む)の実感とも距離を近くするものだろう。
それは会田誠、岡田裕子、会田寅次郎の親子三人によって構成された会田家のインスタレーションへもつながる。「アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てやってないと言われた」という『檄』の最後の一文には、「一般的な親子関係の中で親は子を育て、子は社会を構成する一員として成長するべき」とする家族像に疑問を示す、アーティスト三名の真摯な声が響いている。父である会田誠と、母である岡田裕子がいて、息子の会田寅次郎が生まれたのは生物学的事実として明らかだ。だが、あえて極端なことを言えば、それを反転させ「三人のアーティストの血がたまたまつながっていて、家族と呼ばれる形態になった」という、逆転した想像力を持ってみたっていいのではないか。それは、「家族」を読み替えてみることでもあり、「ここはだれの場所?」を問うことでもあるはずだ。
展覧会開催に先立って行われた報道向けのツアーで、本展企画者の藪前知子は「自意識と戦う、思春期を迎えた子どもたちのための子ども展でもありたい」と述べている。大人である私たちが洞察や自己批判なしに受け入れているありふれた子ども像、そして家族のかたちをあらためて問い直そうとする美術展企画者の心意気が感じられる言葉だと思う。
- リリース情報
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- 『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』
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2015年7月18日(土)~10月12日(月・祝)
会場:東京都 清澄白河 東京都現代美術館 企画展示室1F
時間:10:00~18:00(7月~9月の金曜は21:00まで、入場は閉館の30分前まで)
参加作家:
ヨーガン レール
はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策)
会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)
アルフレド&イザベル・アキリザン
休館日:月曜(9月21日、10月12日は開館)、9月24日
料金:一般1,000円 大学生・専門学校生・65歳以上800円 中高生600円
※小学生以下無料(保護者の同伴が必要)
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添者2名までは無料
- プロフィール
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- 会田家 (あいだけ)
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現代美術家の父・会田誠と、母・岡田裕子、中学2年生の長男・会田寅次郎の三人からなるアートユニット。
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