気候変動や環境破壊によって人間の暮らしや生態系は危機に直面している。化石燃料を原動力にした社会の発展は、温暖化を進行させた。
慣れ切った「便利なくらし」は皆が簡単に手放せるものではないかもしれないが、それでもこのままでは世界のさまざまな場所で深刻なダメージが生じつづける。温暖化を食い止め、自然と調和しながら、誰もが尊厳ある暮らしを送ることのできる未来をつくるために、いまなにができるのだろうか。
経済成長と温暖化対策の両立を目指そうとする国や企業の戦略に対し、経済成長を追い求める資本主義というシステムそのものに疑問を投げかける声が若者を中心に支持を集めている。日本の温室効果ガス排出量は、2018年時点で世界5位だ。われわれの生活と切り離せない「経済」と、社会のあり方を変える「システムの変革」について考える。
世界の平均気温は観測史上最高水準を記録した
「水に入れたカエルは、水温をゆっくり上げると逃げるタイミングを失い、ゆで上がって死んでしまう」。地球環境問題で人類への警句としてしばしば引き合いに出される「ゆでガエルの法則(理論)」である。
地球上の至る所で環境異変が生じている。とりわけ温暖化に伴う気候変動の影響は深刻で、日本でもゲリラ豪雨や大型台風が頻発するようになった。二酸化炭素など温室効果ガスの排出増加が主因だ。このままでは、ゆでガエルのごとく人類は滅びゆくのでは……。そんな危機感が広がっている。
地球温暖化はどの程度に進んでいるのか。欧州連合(EU)の気象情報機関によると、2020年の世界の平均気温は産業革命前の水準よりおよそ1.25度高い。観測史上最高水準という。
1.25度の温度上昇を単純に人体の基礎体温に置き換えてみると、平熱36.5度の人が発熱して37.75度になる。日本の感染症法は「38.0度以上は高熱」としている。「処置なし」では、うかうかしていられない状態だ。
温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」(2015年採択)は、平均気温の上昇を産業革命前と比較し「2度未満」に抑えようとするもので、「1.5度未満」が努力目標だ。それでも高熱だが、人体(地球環境)が何とか持ちこたえられるレベルということだろうか。
地球環境は、石油や石炭など化石燃料の燃焼で二酸化炭素の排出量が増えても、森林などの自然がこれを吸収し、バランスを維持していた。しかし、排出量の急増に加えて森林破壊も進んだ。パリ協定は、大きく崩れたバランスを取り戻そうとするものだ。
気候変動対策と経済成長の両立を目指す「グリーン成長戦略」と、技術革新への期待
では温室効果ガスの排出を抑える脱炭素化社会に向けて、なにをすべきなのか? 各国政府や企業は「経済と環境の好循環」を意図したグリーン成長戦略をとる。エネルギー部門での技術革新をはじめ、テクノロジーの開発と進歩はその鍵を握る。
いっぽう、経済成長を維持しながら技術革新などで環境負荷を減らせるというのは幻想だとし、「気候変動を抑えるには資本主義から脱脚すべき」と訴える社会運動が、若者を中心に支持を集め、世界的な広がりを見せている。経済の維持と気候変動問題対策をめぐる現状を見ていこう。
日本政府も「2050年カーボンニュートラル」(2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにすること)の実現に向けて掲げる「グリーン成長」は、温暖化対策と経済成長の両立を目指す戦略。アメリカでは、バイデン大統領が脱炭素社会の実現に向けた環境分野への重点投資を大々的に打ち出している。
こうした流れは、資本主義社会の根幹である金融セクターでも顕在化していた。世界の大手ファンドが環境に配慮する企業への投資を加速させてきたのだ。つまり、お金の流れを環境分野へ、環境に配慮しながら儲けて経済成長を、という潮流である。
米ロックフェラーといえば、石油により巨万の富を得た一族だが、すでに自分たちの石油会社の株式を手放した。「化石燃料への依存は投資やビジネスの観点からマイナスになる。これからは再生可能エネルギーの時代だ」との状況判断だろう。
経済メカニズムを「グリーン成長」路線に転換させるのに不可欠なのが、技術革新(イノベーション)、そしてデジタル化。コロナ後の世界を考えあわせても、これは必須だ。日本政府が提唱する「ソサエティ5.0」(仮想空間と現実空間を高度に融合させ、経済発展と社会課題の解決を両立を図る「超スマート社会」構想)は、二酸化炭素を効率よく減らしながら社会全体を変えていく未来構想だが、ロボットやAI、IoTの活用がカギを握る。
例えば、自動運転技術。シェアカーやライドシェアのすそ野が広がれば、製造台数も部品の鉄や化学製品の必要量も減る。エネルギー消費も二酸化炭素排出も抑えられる。二酸化炭素削減にコストをかけるのではなく、新しい技術が登場し、私たちの行動が変化することで二酸化炭素が削減されるという好循環を生むことが期待されている。
SDGsと消費行動。ビジネスチャンスを見出す企業
気候変動対策を目標のひとつに掲げるSDGsは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だ。パリ協定と同じ2015年に国連サミットで採択された。各国の政府も企業も、いまやSDGsを意識せずには動けない時代になりつつある。
SDGsには人類共通の17の目標があり、3つに大別される。1つは貧困の撲滅など主に途上国の人々が衣食住に不自由なく、安心して暮らせることを目指すもの。2つ目はエネルギーや産業に関することなど、主に先進国や企業が取り組むべき課題。そして3つ目が気候変動や海洋環境の保全、生物多様性の確保など地球的課題だ。これら3つは互いに関わり合っている。
SDGsは日本の教育現場でも採用され、冷房の使用を抑えるためヘチマや朝顔を育てて「緑のカーテン」を作ったり、再生紙の利用や牛乳パックのリサイクルを進めたりと、「まずは自分たちでできることを」という意識づけからスタートしている。
私たちの消費行動も、レジ袋を買わずにマイバッグで買い物をする、ストローはプラスチック製でなく紙製を使う、マイボトルを持参する、食べ残しやフードロスに思いを至らせ、環境負荷に配慮する企業の製品をひいきにする……と、変容を迫られつつある。
この流れは企業も無視できない。いや、ビジネスの好機ととらえている側面も大きい。米スターバックスは毎年、世界で推計10億本のプラスチック製ストローを使用してきた。これを昨年来、紙製に切り替えているのはその一例だ。プラスチックは石油製品であり、海洋投棄されれば微細なプラスチック片となって生態系に影響を与える。
企業にとっては「いかに自らのブランドイメージを支え、消費者からの支持を保ち、売上を上げるか」が肝心だ。企業イメージの向上は優秀な人材を集め、企業の発展につながるという好循環を生む。いっぽうで中身の伴わない、見せかけだけの環境配慮、「グリーンウォッシング」として糾弾される企業も少なくない。
グレタ・トゥーンベリが怒りを込めて訴えた「気候ではなく、システムを変える」こと
そうした時代潮流に真っ向から啖呵を切っているのが、学校の授業をボイコットし、気候変動の危機を食い止めるため大人たちに「行動」を迫るスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリである。国連サミットでこう演説した。
「地球の生態系は崩壊しつつある。私たちは『大量絶滅』の始まりにいる。なのに、あなた方が話すことは、お金のことや経済成長は永遠に続くというおとぎ話ばかり。よくもそんなことができますね」
ときに「大人」への敵意をむき出しにして「あなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、絶対に許さない」と結び、二酸化炭素削減と経済成長を両立させようとする「大人たちの姿勢」を「生ぬるい」と一刀両断。トゥーンベリが訴えているのは「気候ではなくて、システムを変えろ」ということ。資本主義そのものを変えろ、との要求である。
先進国は大量の二酸化炭素を排出して経済成長を遂げ、豊かな生活を享受してきたが、それによって大きな被害を受けるのは、二酸化炭素をあまり排出していないグローバルサウス(途上国)の国々である。
一般に気候変動は、富裕層より貧困層、先進国より途上国がより大きな影響を受ける。加えて、その影響はいまよりも将来世代の方が深刻になる。トゥーンベリはこうした格差を是正しようとする「気候正義」も訴え、大きなうねりをつくり出した。
『人新世の「資本論」』が指摘するグリーン成長やSDGsの欺瞞
トゥーンベリの社会運動に「衝撃的な影響」を受けたという新進気鋭の経済思想家、斎藤幸平も「怒り」が原動力だ。「グリーン成長」政策やSDGsについて、企業にとっては「むしろ消費を促すPRの道具」であり、システムを変えないで済む「免罪符」だと断罪する。2020年に刊行された著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)はベストセラーになっている。
「巷では、気候変動対策が、レジ袋やマイボトルのような話に矮小化されてしまっている。しかし、そんなものでは解決しません。気候変動の原因は、利潤を際限なく追求する資本主義に他ならないからです。だから、この資本主義システムを変えなくては、人類に未来はない」(青春と読書「斎藤幸平×白井 聡 未来をつくる選択肢は脱成長しかない」より)
斎藤はスウェーデン出身の環境学者ヨハン・ロックストロームが提唱した「地球の限界(プラネタリー・バウンダリー)」という概念に着目する。つまり、地球のシステムには回復力があるが、一定以上の負荷がかかるとそれは失われ、急激で不可逆的な破壊的変化を引き起こす可能性がある、というものだ。
グローバル資本主義の限界。「脱成長」のライフスタイルの提案
そこで齋藤が打ち出すのが、「脱成長」への転換である。「経済成長を前提とする限り、時間切れを回避できない」との危機感に根ざす。理論的な支えは、晩年にエコロジー研究に没頭したというマルクスの思想だ。これを昇華させて「脱成長コミュニズム」という概念を提唱した。
富裕層が独占している富を課税により再配分し、人々の生活に必要不可欠な教育、医療、交通、電力などのインフラ、水、農地や森林といった自然資源を、国家や企業から「コモン(社会の公共財)」として市民の手に取り戻そう、というものだ。金儲けに意味がなくなる社会をつくろう、という呼びかけである。
こうした社会が実現すれば、必死に働かなくても済む。物質的にはつつましくとも、家族のだんらんやスポーツ、アート、ボランティアに費やす時間は増え、生活や社会の「質」はむしろ向上する。「脱成長」を志向する生き方や働き方は、いわば「スローライフ」なのである。
斎藤は自著への大きな反響について、多くの人が気候変動など地球環境の異変をリアルに感じ始めたことに加え、「このままの生活を、将来にわたって維持することは可能なのか」という問題意識を刺激したからでは、と分析している。「真面目に働いているのに、生活が立ち行かないほど追い込まれる人が大勢いる社会はヘンだ」という違和感や怒りが研究の原動力になっているという。(日経ビジネス「『人新世の「資本論」』30万部の斎藤幸平 若き経済思想家の真意」より)
反響のもう一つの背景。それはいまがコロナ禍であることとも無関係ではないだろう。グローバル化した資本主義は、途上国の資源や安い労働力を収奪することで成り立っている。地球規模では南北格差が一層広がり、日本でも雇用の非正規化などによる「富の偏在」が進む。これが、コロナ禍で可視化された。グローバル資本主義の限界が見えた、という見立てだ。
パンデミックが人類に気づかせたもの
世の中には「環境への配慮なんて……」といった冷笑的な態度も見られる。「欲」という人間の本性を軽視し、国家や企業や個人の既得権を奪い取るようなシステムチェンジは現実的なのか、といった論争もある。
しかし、新型コロナウイルスによる感染症の流行がパンデミックになったのは、ヒト・モノのグローバル化と無縁ではない。未知のウイルスは森林などの自然破壊で私たちに接触し、パンデミックを引き起こした。瞬時に地球規模で拡散したこの構造はグローバル資本主義と似ている。資本主義の際限のない利潤の追求が、感染症拡大という形で人類に跳ね返ってくることがあると、私たちは気づいた。
冒頭で紹介した「ゆでガエルの法則」。じつはこれ、疑似科学的なつくり話である。実際の実験では、カエルは水温を上げていくと逃げ出そうとする。ゆで上がって死を迎えることはない。
ひるがえって、人類は地球上から逃げ出せるのか。「気候変動デモ」に集う若者たちは「There is no planet B(第二の地球はない)」というプラカードを掲げている。科学者は現状に警鐘を鳴らすが、まだ手遅れではないとしている。時代に身を委ねているだけではいけないと気づいたそのときが、行動を起こすターニングポイントになるのではないだろうか。
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