※本記事には一部本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
「目には目を、歯には歯を」。死刑執行数が世界トップクラスのイラン
「目には目を、歯には歯を」で知られるように、イスラム世界では、殺人や傷害の事件に対して、シャリア(イスラム法)のもと、報復的正義に基づき、被害者が被った苦痛と同等の刑罰を加害者に課すキサース(同害報復刑)という教義が規定されている。遺族はキサースによる復讐刑か、ディヤ(血の代償金)と呼ばれる賠償金を要求することができるのである。
宗教的教義によって独断的な裁きを下すことができるイランは懲罰的な死刑制度を現在まで維持し、その死刑執行数は中国に次いで世界2位、人口一人当たりの数としては最も多いとも報告されている(※1)。国連の死刑廃止条約が発効されて30年が経った今日では法律上もしくは事実上の廃止国は加盟国の7割以上にのぼるとされる。そんななかで日本やアメリカも死刑を存続させているが、イラン映画『白い牛のバラッド』が例示するのは、夫の冤罪死刑に見舞われた女性を通した死刑制度の有害な影響である。
死刑に処された夫は無罪だった。「神の意志」によって正当化される人間の過ち
テヘランの牛乳工場で働きながら、ろうの幼い娘を育てるシングルマザーのミナ(共同監督を兼任するマリヤム・モガッダム)は、1年前に夫ババクが殺人罪で死刑に処されて以降も喪服に身を包み、深い悲嘆の底に沈んだまま日々を送っていた。
しかしある日、裁判所に呼び出され、夫が無実だったことが判明したと知らされる。裁判所は賠償金として2億7千万トマン(日本円で約7380万円)を支払うと杓子定規に告げるが、夫の命が粗雑に判断されたことがミナは納得できない。彼女と亡き夫に着せられた汚名は金銭的な補償のみで済まされるのだろうか。判決を下した判事自身への謝罪を要求するために直接出向いても、新聞に広告を出しても、彼らから応答は得られない。
なぜなら、判事たちは死刑判決も神の承認を得たものだと言い張り、自らの道徳的過失を問うことはしないからである。ここでは、神の意志は、人間の過ちを正当化し、責任を回避するために用いられているようだ。
神の意志を自明とした社会において、死刑は工場のベルトコンベアを流れる牛乳パックのように機械的になされているのであり、たとえその実行に誤りがあったとしても、金銭の支払いで解決を図って穏便に済むよう仕組まれているのである──このように遺族へ賠償金を支払って問題自体を有耶無耶にしようとする手口は、近年の日本政府にも見覚えがあるものだろう。『白い牛のバラッド』で未亡人ミナは、このような官僚主義に対して静かな戦いを臨む。
夫の死去とともに社会的な地位をも喪失する女性たち
他方で、ミナの前に立ちはだかる障壁はそれだけではない。彼女は、シャリアが支配する性差別的な社会のなかでシングルマザーとして子どもを育てることがいかに大変かを思い知らされる。
イランの雇用市場は女性の労働力率が約17%であると言われるが(※2)、工場での仕事は薄給で、彼女は経済的に困窮を迫られつつある。そのうえ、義父はババクの貯金をミナが隠し持っていると一方的に疑い、賠償金の存在を知るやいなや義弟を使ってそれを請求すべくまとわりついてくる。
孤立無援の状況だったが、突如フレンドリーな見知らぬ男性が彼女の前に現れる。レザと名乗る男(アリレザ・サニファル)は、旧友であるババクから借りていたお金を返済するという。ミナは何か下心があるのではないかと警戒しつつも、見返りを求めずサポートを提供する親切な彼に次第に心を開き、娘も叔父のように受け入れていく。
しかし、レザの訪問の直後、ミナはアパートの管理人から立ち退きを命じられてしまう。女性にヒジャブの着用を義務づける戒律の厳しいイスラム教の文化では、独身女性が親族以外の男性を家に入れることはタブーであるため、見知らぬ男性が彼女の家に訪問するのを目撃した管理人は退去を要請するのだ。
ミナは急いで新しい住居を探さなければいけなくなるが、イランでは未亡人や離婚した女性、あるいは独身女性がアパートを借りるのは困難であることに直面する(不動産屋は未亡人を借主として麻薬中毒者と同等の扱いをする)。大家は、女性には家賃を払う能力がないと考え、彼女は賃貸住宅の利用が制限されてしまうのだ。さらに追い打ちをかけるように、義父たちは一緒に住まなければ娘の親権を巡って母親失格だと訴え始める。因習的な制度が強固に支配する社会のなかでは、夫の存在がなくなれば、妻は借家から追い出され、親権を失う危機にすら晒されるのである。
「白い牛」が象徴するもの。幼い頃に父が処刑された監督兼主演女優の経験
これと似たような事例が、例えば、『第34回東京国際映画祭』で東京グランプリとなったコソボの映画『ヴェラは海の夢を見る』(2021)でも窺える。この映画では、判事の夫が突然自殺したことで、コソボに住む手話通訳者である未亡人のヴェラが、残された家の所有権を巡って近所の男性たちから言いがかりを受ける。伝統的な根深い家父長制の構造を有する社会では、未亡人や独身女性には土地は譲らないという圧力がにわかに迫るのである。
ミナやヴェラは、夫の死去とともに社会的な地位をも喪失するのだ。そこでは男たちは、彼女たちの話を聞いた素振りは見せても要望を受け入れることはない。彼女たちは、そのような顔の見えない家父長制システムに抵抗する女性像として打ち出されている。
この両作は、偶然にも未亡人の見る抽象的な夢のモチーフ、ろう者の象徴的な起用という意味でも共通性を持つ映画だといえる。なお、『白い牛のバラッド』で映画好きなろうの娘ビタを演じるアーヴィン・プールラウフィは、聴覚障害のある両親に育てられた子ども(コーダ)で実際に手話に熟練している者であり、母のミナ役モガッダムには彼女の母親が手話を教えたのだという。
ミナは、白い牛の夢を見る。映画の冒頭でコーランより雌牛の章が引用されるが、イスラムの宗教儀式における牛は生贄であり、白は無垢を意味するだろう。本作において白い牛とは、犠牲となった無実の人間のメタファーである。マリヤム・モガッダムの父親は、実際に彼女が幼い頃に政治的な理由で処刑されたのだという。
モガッダムは、自身の母親に触発されてこの物語をパートナーのベタシュ・サナイハとともに執筆・監督し、母へと捧げている。政府の検閲により国際映画祭での上映後、未だ自国での劇場公開を禁じられている本作は、男性優位の伝統的社会規範に深く根差したミソジニー社会で生き、そしてその構造的な抑圧の下で無碍にされる女性たちの理不尽な苦悩を謳ったバラッドなのである。
同時代の映画で追求される、死刑執行人や死刑判決を下す側の心理的トラウマ
物語は後半、ミナとレザとのメロドラマの色合いが濃くなっていく。
彼らは段々と親密な関係に発展していくが──イスラム文化圏の映画では明らさまな性的な描写には規制があるため、ミナが口紅を塗ってヒジャブを脱ぐことで仄めかす演出がなされている──、とある理由からすべての事情を知ったうえでミナに接近していたはずのレザが彼女の好意を容認してしまうのはいささか不用意で軽率に思える。この辺りは、対極的な状況下に置かれた人物同士のラブストーリーを展開させるという試みが政治的な主題を曇らせ、二人の関係性としてもやや行き過ぎてしまったように感じられて違和感が残ってしまう。
罪と償いの主題、あるいは名誉や評判への執着は、現代のイラン映画を代表する監督アスガー・ファルハディの最新作『英雄の証明』(2021)でも探求されているものであるが、イランの生活の不条理さから倫理規範が揺るがされるような極端な状況を設定し、簡単な答えの出ない道徳劇として、隠喩を込めながらミニマムに作劇するのは彼らの特徴とも言えるかもしれない。本作は固定カメラを中心としてシンメトリーで絵画的なフレーミングを注意深く構築しているが、特にレザの秘めたる事実をミナが知った瞬間をオーストリアの名匠ミヒャエル・ハネケを彷彿とさせるような緊張感ある長回しで演出している。
さらなる悲劇にも見舞われ、傷心を重ねるレザにはもはや倫理的な判断は難しかったとも言えるのかもしれない。システムに関与した自らの加害性を自覚し、犯した罪への深い後悔と罪悪感に苛まれるレザ、そして父親の不正義に幻滅した彼の息子の姿からは、脆弱な男性性を見て取ることができるだろう。
興味深いことに、イランの刑事司法に批判的な目を向けた映画は、全く同時期に別の監督によってもつくられている。
『第70回ベルリン国際映画祭』金熊賞を受賞した『悪は存在せず』(2020)は、イランの死刑の影響と社会の組織的な腐敗が広範囲におよぼす結果を四篇のアンソロジーとして構成した秀作である──監督を務めたモハマド・ラスロフはイラン政府から「国家の安全を脅かした」「当局に対するプロパガンダを流した」として出国を禁止され、直接授賞式に参加することができなかった。特に、男性に課される強制的な徴兵制のもとで、兵役義務中に死刑執行命令を突きつけられた若者たちの抵抗、あるいはそれによって蝕まれていく精神の影響を考察している。
注目すべきは、どちらも集団的加害に加担してしまった者の精神的なトラウマを探究していることである。『悪は存在せず』の一篇では、全く平凡な日常生活を送っているように見える一介の中年男性が、実は死刑執行人として従事していることが露わにされる。
『悪は存在せず』予告編
しかし、このような心理的影響は、イランだけの問題でもなければ、男性だけに固有の問題でもないかもしれない。2019年の『サンダンス映画祭』でアフリカ系女性監督として史上初めてグランプリを受賞したチノニェ・チュクの長編二作目『Clemency』(2019)では、死刑囚と対峙するアメリカの黒人女性刑務所長を主人公に、職務中は冷静で厳粛な態度を取る彼女が、仕事後はアルコールに依存し、自宅では不眠症と悪夢に悩まされる姿が表されている。
これは1991年に白人警官を殺害したとして殺人罪で有罪判決を受けたものの、20年間無罪を主張し続けた黒人死刑囚トロイ・デービスにインスパイアされたものであり、死刑囚の冤罪の可能性に触れたときの波紋を死刑監督者の側から描いている。「恩赦」というタイトルを持つこの映画が明示するように、その命令を下せるのはあくまでも為政者であり、彼女は指示に従うしかない。
『白い牛のバラッド』で判事であるレザは、法廷で死刑を下す役割であり、実際にその執行の場に携わる職員とは厳密には立場は異なるかもしれない。しかし前述のように神の意志に基づいた社会的な善だと疑わずに刑罰の適用を機械的に選別する意味では、彼もまた、同じように巨大で組織化されたメカニズムに組み込まれているのであり、官僚化された役人という観点では同質と言えるだろう。故に、自身の道徳的過失に直面したとき、彼が人民を管理する国家のイデオロギーを内面化していたことが露呈し、罪悪感やジレンマが初めて前面に押し出されて苦悶に陥るのである。
それぞれ異なる角度から刑罰環境を再考するこれらの現代映画が示すのは、他者の痛みを感知する人間性を麻痺させる大きな構造、そして不当な有罪判決が生む取り返しのつかない悲劇は、死刑制度のある国ならどこでも起こり得るということである。
『白い牛のバラッド』予告編
参考:
※1 Iran ‘obsessively’ carrying out executions, say rights activists | Al Arabiya English
https://english.alarabiya.net/News/middle-east/2021/03/30/Iran-obsessively-carrying-out-executions-say-rights-activists
※2 Discrimination Against Women in Iran’s Job Market | HRW
https://www.hrw.org/report/2017/05/25/its-mens-club/discrimination-against-women-irans-job-market
- 作品情報
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『白い牛のバラッド』
2022年TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中
監督:ベタシュ・サナイハ、マリヤム・モガッダム
出演:
マリヤム・モガッダム
アリレザ・サニファル
プーリア・ラヒミサム
上映時間:105分
配給:ロングライド
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