2022年、日本では「戦後」の期間が随分長くなり、戦争の記憶を知る人が少なくなっていく一方、多くの人にとって長いあいだ「他人事」だったかもしれない戦争が、外国ではいままさに起こっている。人々の家や学校、文化機関が破壊され、小さな子どもが防空壕に逃げ込むさまが連日メディアで映し出されている。
このたび公開されるアニメーション映画『アンネ・フランクと旅する日記』は、戦禍で短い生涯を過ごしたアンネ・フランクの父オットー・フランクによって設立された「アンネ・フランク基金」が、遺族とともに、『アンネの日記』出版75周年を記念して企画した作品だ。監督は『コングレス未来学会議』『戦場でワルツを』などのアリ・フォルマン、音楽にはMGMTのベン・ゴールドワッサーや、Yeah Yeah Yeahsのカレン・Oが携わっている。
アウシュビッツ生還者の両親を持つフォルマンは、「現在と過去をつなぐこと」「アンネが最期を迎えるまでの7か月間を描くこと」という基金からの注文にアニメーションならではの大胆な手法で応えた。アンネの生涯を辿りながら、現代・未来にその意思を受け継いでいく本作から、過去に学びいまを知ることの大切さを読み解く。
戦争の惨禍と悲劇を子どもたちにどう語っていくか
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始し、両軍による戦闘がいまも行なわれている。このような前時代的といえる戦争で、双方の兵士たちはもちろん、ウクライナの一般市民、そして子どもたちに犠牲者が出ている。
ウクライナには、家族と別れ国外に脱出する子どもや、響き渡る爆発音のなかで怯えている子ども、そして攻撃に巻き込まれ死亡した子どももいる。侵攻が始まるまでは当たり前の日常を送り、さまざまな未来を夢見ていた子どもたちが、大国の軍による圧倒的な暴力にさらされている。
権力者が主導する争いによって、弱い存在が暴力の犠牲になるという悲劇は、人類の歴史のなかで何度も繰り返されてきたことだ。このような戦争や圧政による犠牲を少しでも減らすために、このたびの惨禍もまた、未来に語り継いでいく必要がある。
しかし、これからの時代をつくっていく子どもたちに、どのようにこの悲劇を語っていけばいいのか。その一つのヒントとなってくれるのが、第二次世界大戦時、ナチスドイツの占領する街で息を潜めて生きた少女アンネ・フランクの物語である。3月11日に公開される、劇場長編アニメーション『アンネ・フランクと旅する日記』は、そんな少女の短い生涯を、意外な語り口で伝えてくれる一作だ。
アンネの空想上の友達「キティー」が現代のアムステルダムに
ユダヤ人を虐殺する「ジェノサイド」を進めていったナチスドイツ。その軍によって支配されるオランダで、ユダヤ人の10代の少女、アンネ・フランクは、家族やほかのユダヤ人とともに隠れ家で潜伏生活を送った。
彼女が書いた『アンネの日記』は、世界中で読み継がれ、累計2,500万部のベストセラーとなり、さらには演劇や映画作品として広く愛されることとなった。本作『アンネ・フランクと旅する日記』は、『戦場でワルツを』(2008年)のアリ・フォルマンが監督・脚本を務め、新しい視点から『アンネの日記』に光を当てている。
『アンネの日記』といえば、どうしても暗いイメージがつきまとう。閉鎖的で息苦しい潜伏生活や、いずれくる悲劇が描かれることで、気が重くなる人も多いだろう。もちろん、そのことに触れなければ、この実話を語ることはできない。しかし本作は、それと同じだけのボリュームで、現代のオランダを舞台にした、もう一人の少女キティーの物語が描かれるのがユニークな点なのだ。
キティーとは、実際にアンネ・フランクが頭のなかに作り出した「イマジナリー・フレンド」である。アンネは日記に書いた文章を「親愛なるキティーへ」と、現実には存在しない親友に宛てた。アンネは彼女に秘密を語りかけるように、自分の感情を心のままに綴っている。
想像の翼を広げたアンネ。その空想世界や、運命の行方をアニメならではの手法で表現
いまは博物館となっている、アムステルダムのアンネの隠れ家。そこに展示された日記のなかからキティーが現れるという、ファンタジックなシーンから本作は始まる。キティーは、アンネの行方を探して、アムステルダムの街をさまよいながら、自分に宛てられた日記を少しずつ読み進めていく。本作は、隠れ家のアンネと街に飛び出すキティー、静と動、過去と現在、二つの物語が交互に進行していくこととなる。
とはいえ、アンネの物語にもアニメーション作品ならではのファンタジックな見せ場がある。空想家のアンネは、自由が制限された隠れ家の生活のなかで、さまざまに想像の翼を広げた。『風と共に去りぬ』などで有名なハリウッド俳優クラーク・ゲーブルのまたがる馬に一緒に乗って、神話の神々や動物たちによる正義の軍とともに、アンネはナチスドイツの軍勢と戦う。そんな場面が象徴するように、彼女は空想の力によって、厳しい現実に対抗していたのだ。
現実との戦いは、アンネと家族が収容所へ連行されてからも続いたことだろう。彼女は家族と引き離され、最悪の悲劇が起きる瞬間まで、自身に備わった才能を発揮したはずだ。本作では彼女の悲劇をそのまま描くことをせず、アニメーションならではの表現を駆使しながら、その運命の行方を観客に伝えていく。
現代を生きる難民の子どもとの出会い。悲劇はいまも起こっている
一方、キティーは現代のアムステルダムの街でアンネを探しながら、さまざまな境遇の子どもたちと知り合う。広々とした場所で思いきり遊んだり、おしゃれを楽しんだり、男の子とのデートを経験することになる。アンネの空想から生まれた彼女は、アンネの分身であり、願望の象徴でもあるといえる。果たせなかったアンネの夢を、キティーが時を超えて叶えていく姿は感動的だ。
そのなかでキティーは、街で困窮した生活を送る難民の子どもたちと知り合うこととなる。オランダは、紛争や貧困から逃れてきた難民を多く受け入れている国だが、環境や文化の違いから、移民や難民が国内で就労できないケースも多く、大勢の人々が厳しい生活を強いられている状況だ。作中では、アンネの博物館の観覧の列に並び、その悲しい運命に思いを馳せる人々を映し出す一方で、いままさに不自由な思いをしている人々をも観客に見せるのである。
アンネたちユダヤ人の悲劇に涙し、ナチスドイツの蛮行に怒りを覚えるのなら、難民を生み出す現在の世界の状況に怒り、逃げた先でも苦労をしている人々のために涙を流してもいいはずだ。たしかに、現在ナチスドイツそのものは崩壊しているが、それですべての悪が滅び、問題が解決したわけではない。同じような悲劇は、異なるかたちで現在も起こっているということを、本作は訴えているのだ。
社会に蔓延し、誰もが手を染めうる「凡庸な悪」
この考え方は、ナチスドイツから逃れたユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントの思想と近いものがある。アーレントは、ナチスに協力してユダヤ人を虐待し処刑していた人々の行為を、「凡庸な悪」と呼び、誰のなかにもある、権力に盲従する考え方や思考を停止した精神性からくるものだと主張した。
この見方は、約600万人もの死者を生み出したナチスの蛮行を矮小化するものだと、ユダヤ人コミュニティーは抗議し、同胞であるアーレントをバッシングすることとなった。家族を殺害された被害者遺族の多くにとって、ナチスの行為は悪魔の所業であり、「絶対悪」でなければならなかったのだ。その気持ちは、多くの人が理解できるところだろう。
しかし、その後も世界では紛争が絶えず起こり、ユダヤ人たちが多く移住したイスラエルは、現在軍事力をもってパレスチナと対立し、アラブ人を弾圧している状況だ。軍事攻撃によって数千人の被害者が出て、多くの子どもたちが犠牲になっている。対立のなかで、かつてナチスの被害者であったユダヤ人の一部がほかの民族を差別し、子どもを含む民間人の命を奪っているのである。この現実は、アーレントの思想が正しかったことを示しているのではないか。ナチスが「凡庸な悪」であったからこそ、同様の行為に手を染める可能性を、人間ならば誰もが持っているのだ。
反戦映画はかならずしも反戦につながらない? 高畑勲の語った言葉
日本を代表するアニメーション監督だった高畑勲は、2015年に神奈川新聞の取材に対して、このように述べている。
日本では平和教育にアニメが用いられた。もちろん大きな意義があったが、こうした作品が反戦につながり得るかというと、私は懐疑的です。攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。-
なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる(*1)。
高畑監督は、野坂昭如原作のアニメーション映画『火垂るの墓』(1988年)で、戦争の惨禍に巻き込まれた子どもたちの姿を描いた。しかし、そのような悲劇をも、新たな権力者が戦争を起こすために利用する可能性があるというのだ。その危険性は、片渕須直監督のアニメーション映画『この世界の片隅に』(2016年)にも、同様にあるだろう。その意味では、アンネ・フランクに起きた悲劇もまた、「語られ方」によっては、新たな戦争につながるおそれがあるといえよう。
実際に、ロシアによるウクライナ侵攻を主導しているプーチン大統領は、「ウクライナの非武装化と脱ナチズム化」のためだと主張し、「自衛のための軍事作戦」であると強調しているのだ。ナチズムの否定や平和を理由に、主権国家を攻撃し、子どもを含む民間人に被害を与えるという矛盾した行為を押し通してしまうことができるのである。同時に、ウクライナに被害が出ている事実を利用して、改憲や核保有など、戦争の放棄を撤回しようとするような議論が、日本でも始まりつつある。この流れは、まさに高畑監督の主張そのままだといえるだろう。
悲劇の語り方がはらむ危険性。過去と現在を結びつけ、未来の希望につなげる
本作『アンネ・フランクと旅する日記』が周到なのは、ここで再現されるアンネの悲劇を、キティーというファンタジックなキャラクターを通して、いまある問題と結びつけたことである。このたび、戦火のウクライナから大勢の難民が脱出したように、いまも世界中で難民が生み出され、困窮した生活を送っている。それは、ナチズムにも、大勢の人々のなかにも存在する「凡庸な悪」による被害を受けている、現在のアンネ・フランクの姿なのではないか。
過去の戦争の惨禍は、語り方によって、すでに終わった悲劇や、自分の外部にある「かわいそうなお話」として消費することができてしまう。そして場合によっては、新たな惨禍を生むきっかけにすらなり得てしまう危険性を秘めている。しかし、そこに現在の事象との関係を見出し、自分の周囲や、自分の内面に生まれるかもしれない「凡庸な悪」を見つめることができれば、過去の悲劇を、未来の希望に変えることができるはずだ。そして、自分自身や子どもたちが「現在のアンネ・フランク」や、「未来のアンネ・フランク」を弾圧する加害者にならないように努力することが、過去の戦争や現在の戦争や紛争を知り、考えることの、本当の意義なのではないだろうか。
- 作品情報
-
『アンネ・フランクと旅する日記』
2022年3月11日(金)からTOHO シネマズ シャンテほか全国公開
原案:『アンネの日記』
監督・脚本:アリ・フォルマン
声の出演:
ルビー・ストークス
エミリー・キャリー
配給:ハピネットファントム・スタジオ
- フィードバック 28
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-