※本記事には、ドラマ『恋せぬふたり』の内容に関する言及があります。あらかじめご了承ください。
恋愛ではなく、友達でもない。名前のない関係性を模索する物語
「私と、恋愛感情抜きで家族になりませんか?」
人を好きになったことがない、なぜキスをするのかわからない、恋愛もセックスもわからず戸惑ってきた咲子と、恋愛もセックスもしたくない高橋。ふたりが繰り広げるドラマ『恋せぬふたり』(NHK・よるドラ)が、3月21日に最終回を迎えました。
とあるきっかけから同居生活を始めたふたりは、両親、同僚、元恋人、親友などを巻き込みながら、自身のあり方やお互いとの関係性に向き合ってきました。さまざまな葛藤を経てふたりが見出した、ふたりなりの「家族」のあり方が、最終回で示されたかたちです。
私は『恋せぬふたり』に、当事者の立場で、アロマンティック・アセクシュアル考証の一員として関わらせていただきました。
アロマンティック・アセクシュアルとは?
「その人とはどういう関係なの?」
というのは、私がこれまでによく受けた質問です。いつもこの質問になんて答えるかを悩んでいました。
私の周りには、恋愛的でも性的でもない、家族というのか、パートナーというのか、戦友というのか、なんと表現すべきかわからない大切な人たちが複数人いてくれています。でも、その関係を表す言葉がありません。
私も、咲子も、高橋も自認している「アロマンティック・アセクシュアル」。この言葉は、下記のように定義されています(あくまで数ある定義のなかの一つととらえていただければと思います)。
・アロマンティックは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。
・アセクシュアルは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。
これらはもともと、別々の独立した概念として存在していて、どちらの面でも他者に惹かれない人を、「アロマンティック・アセクシュアル」と呼んでいるということです。略して「アロマアセク」と呼ぶ人もいます。
ちなみに、アロマンティックは「ロマンティック(他者に恋愛感情を抱くこと)」に打ち消しの接頭辞「A(ア)」がついて、「ロマンティックではない」ことを意味しています。「アセクシュアル」も同様のつくりです。
『恋せぬふたり』はアロマンティック・アセクシュアルのふたりが出会い、自身と向き合い、関係性について考えていく物語。そして「ふたり」と言いつつ、当初はふたりのセクシュアリティーを理解できなかった周囲の登場人物たちが少しずつ変化していく様子も、私は大きな見どころだと思っています。
「契約」にしばられず、いつでも離れられるからこそ、関係性を続ける努力が生まれる
アロマンティック・アセクシュアルの人のなかにも、そうでない人のなかにも、「ひとりが楽しい」「ひとりで生きていきたい」「パートナーや誰かとの深い関係は望んでいない」という方はたくさんいらっしゃるでしょう。
そのため、あくまで私の場合になりますが、私は「恋愛・性愛ではない。友情とも違う。だけど大切に想っている」という気持ちを、どう表現すべきか悩むことも多かったです。その人たちとつながっていることは本当にありがたく、私の人生にとってなくてはならない存在だからこそ、関係性を表す「言葉」がないもどかしさに辛くなるときが多くありました。
そこに一つのヒントをくれたのが、最終回での咲子の言葉でした。
「なんにも決めつけなくてよくないですか? 家族も、私たちも、全部(仮)で」
この言葉で少しだけ、心が軽くなった気がしました。
同居をはじめた当初から、「家族(仮)」として、自分たちにとってしっくりくる「家族」のかたちや「モヤモヤしない」生き方を探していたふたり。そんなふたりの関係やそれぞれのあり方に「そのままでいい」という結論を出したのが、上記の咲子の言葉です。
名前がついていないことに、もどかしさや後ろめたさを感じたりしなくていい。近い名前に「(仮)」をつけるのもいいし、最初から名前をつけなくてもよい。そんなふうに言ってくれたような気がしました。
でも、咲子がこの結論に行き着くまでにいろんな葛藤があったんじゃないかなとも想像しました。
私もかつては、「(仮)」であることが怖かったです。「特定の恋人・家族関係じゃないってことは、離れていく可能性もあるってことだよね」といった言葉を周囲からかけられたこともありました。急に離れていったらどうしようとか、私には「特定の人」は見つからないのだと悲観したりもしました。
でも、のちにその関係だからこそ、信頼したいと思えるようになりました。名前に縛られなくても近くにいてくれる人は、私が何か違うものに縛られそうになって苦しくなったときに、きっと気づいて手を差し伸べてくれるんじゃないか。名前がないからこそ、「いつでもお互いに離れることができる」という前提のうえで、お互いが「この人との関係を続けたい」と思う限り、歩み寄る努力をしていけるんじゃないか。
そう思うと、「名前があるから安定」「名前がないから不安定」などということはないんじゃないかと思うようになりました。
きっと誰しも、名前のつけられる感情とつけられない感情を持ちながら生きている
だからといって、名前がないほうがよいなんて結論を言うつもりはありません。きっと誰しも、名がある感情と名がない感情を持ちながら生きていると思うので。
「恋人関係」という名前のある関係を築いている人を見ていると、名前がない関係を築いている自分に不安になるときもある。でも、名前がないことでよりその関係性を大事にしようと思える自分もいる。
「アロマアセク」というセクシュアリティーをラベルとしてもらえて安心感を感じるときもあれば、そのラベルに窮屈さを感じて、名前のない状態の自分に戻りたくなったりもする。
名前があるからこそ、行き着けた人や場所があり、自身を受け入れることができたという面もあれば、名前がないからこそ大事にできることや、どんな自分であってもよいという心地よさもあって。
名前がないから自分だし、名前があるから自分なのだと、咲子の気づきからヒントをもらえた気がします。
ドラマの「考証チーム」として、どのように作品に携わった?
今回、当事者の私と、アロマやアセクのコミュニティーに詳しい方、研究をされている方の3名からなるチームで、ドラマの考証にあたらせていただきました。もちろん最終的な決定権は放送局にありますが、そのうえで「アロマンティック・アセクシュアル」の定義の監修や、脚本・設定に対する助言、現場への立ち会いなどを行ないました。
「これまでの自分を肯定された気がします」
「このテーマを扱ってくれて嬉しい」
ありがたいことに、ドラマの放送中や放送後、公式掲示板やSNSではこういった声をいくつも見かけました。
こういった意見や感想を見ていると、私自身が17歳のとき、アロマやアセクの人が集まる掲示板を見て、「私と近い人がいるんだ!」とすごく安心したことを思い出しました。「共感を得られる内容になっているか」「どうしたらアロマやアセクの多様性を描けるか」「誰かを傷つける表現がないか」などを考えながら、演出の方々と何度も話し合いを重ねたことが無駄ではなかったのだと嬉しく思いました。
それに加えて、「当事者ではないが、近い部分があると感じた」「自身の言動を振り返ることができた」「身近に似た感覚の人がいるが、ドラマを通して少しでも気持ちを想像することができた」など、普段だと意見を交わせない当事者以外の人とも、ハッシュタグなどを通して対話のようなことができた気がして、個人的には嬉しかったです。
「裏設定」のつくり込みの苦労。同じセクシュアリティーでもさまざまな個人差がある
じつは、今回ドラマをつくるにあたっては、演出の方を中心に関係者の皆さんがアロマやアセクのことについて深く知ろうとしてくださったときに、考証チームの認識と脚本や演出側の認識がすれ違うことも多くありました。
例えば、第4回で、咲子の元彼のカズくんが高橋に対して恋愛・性的な話をしているところを、咲子が止めに入るシーンがありました。当初は「失礼なこと(恋愛・性的な不躾な話)を言うのはやめて」といったニュアンスのセリフだったのですが、咲子は「恋愛・性愛がわからない」という設定のキャラクターのため、話している内容を察して注意することは咲子の振る舞いとして考えにくく、「(状況は読み込めないけど)高橋さんが困っている様子だからやめて」といったニュアンスに調整してもらえないかご相談をしました。
上記の場面以外でも「恋愛・性愛がわかっていないと出てこない言葉」が意外にも多く、「恋愛・性的である」と判断するラインや、咲子・高橋だったらその場合どう振る舞うかについて、脚本や演出の方と認識をすり合わせるのに、とても悩んだのを覚えています。
それ以外にも、各キャラクターが嫌悪感を抱く対象がなんなのかや、人との距離の取り方など、さまざまな点ですり合わせを行ないました。このため、「誰かを独占したいと感じることがあるか」「一般に、性的に魅力的だとされる人の特徴がわかるか」など約50問程度の多様な観点からの問いに対し、咲子や高橋ならどう答えるのかを検討し、裏の設定を細かく決めていきました。
正直かなり大変な作業ではあったのですが(笑)、そういう些細な言葉の選び方にこそ、真摯に描いているか否かが出ると思うので、細かくご相談をしてよかったとも感じています。
断片的な知識やイメージのみで描かない。ドラマ制作の現場に考証が入ることの大切さ
もし、こうした話し合いや調整がなければ、当事者の方を傷つけたり、同じセクシュアリティー内での多様性がまったく描かれずステレオタイプを生んだりすることにつながっていた可能性もあります。だからこそ、こうした制作の場で考証がいることの意味は大きいと感じました。
もちろん、今回の表現でもまだまだ十分とは言えませんが、誰かが誰かの視点を知ろう・描こうとするとき、断片的な知識や想像されるイメージのみで解釈するのではなく、実際にその人たちの声を聞き取りながら、制作に橋渡しする人が入ることは「搾取しない」ということの一つの覚悟になりうるように思えました。
ドラマや映画をはじめとするさまざまな創作物に関しては、別のアロマンティック・アセクシュアル当事者の方から「社会ではもっといろんな人が生きているのに、コンテンツで描かれるのは、健常者でかつシスヘテロの人たちばかり。逆に現実と乖離しているように感じる」といった話も聞いたことがあり、とても納得したことを覚えています(シスヘテロ:出生時の性別と性自認が一致している「シスジェンダー」と、異性愛者を意味する「ヘテロセクシュアル」を合わせた言葉)。
アロマンティックやアセクシュアルに限らず、社会的に少数派とされている人たちが、さまざまな作品で、特に言及をされることもなく自然に描かれていってほしいと願っています。
自分にとって一番しっくりくる「名前」をつけてあげられるように
最後にもう一つ、印象に残っている咲子のセリフを紹介します。第6話で、自分の現在の仕事について「ベストではないが、ベターではある」と言った高橋に対しての、以下のような返答です。
「じゃあ、私たちのことは、なるべくベストを目指しませんか?」
「やりたいこと・したいことは、全部取りの精神で」
最終回でも、「ベターではなく、ベスト」というセリフが出てきましたね。とても素敵なセリフだと思う反面、現実問題、生きていると「自ら選択ができない」機会も多いからなぁと感じた自分もいました。
私自身、17歳のときにセクシュアリティーのことで鬱になり、学校を中退しましたが、選択肢もなかったぶん「自身で選んだ」という意識もなければ、その過去を「ベター」だとも思えていません。
ただ、ベストやベターでなかったとしても、過去からいまにかけての自分の生き方を「よくなかった」と決めつけるのは、これまで頑張ってきた自分にも、周囲にいてくれた人にも申し訳ないので、そもそも評価をしたくないなと思うんです。
だからこそ、私はベストやベターという評価にもとらわれなくていいんじゃないかなと、あのシーンを見て思いました。「この生き方はとりあえず(仮)で、この先どうなっていくかはわからない」と気楽に構えるのもいいんじゃないのかなぁなんて。
必ずしも自分で道を選べるわけではない社会なのであれば、せめて自身のあり方や自身がつくり上げる関係性にどんな名前をつけるのか、そもそも名前をつけないのかくらいは選ばせてほしい。
このドラマが、皆さんのその選択を少しでも後押ししてくれるような存在になってくれたらと、一当事者として、考証チームの一人として、考えています。
- 作品情報
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NHKよるドラ『恋せぬふたり』
2022年1月10日放送スタート(全8回)
- プロフィール
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- なかけん
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若者支援に携わる傍ら、行政や学校、メディアなどで、多様な性について伝える活動を行なう。「アロマンティック / アセクシュアル・スペクトラム」に関する調査、監修、講演を中心に活動する「As Loop」メンバー。
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