中銀カプセルタワービルが掲げた、2つのコンセプト
1972年の竣工からちょうど半世紀経った2022年4月、中銀カプセルタワービルの解体工事が始まった。
中銀カプセルタワービルは、稀代の建築家・黒川紀章によって設計された集合住宅。汐留や新橋との隣接エリア、銀座8丁目に位置し、しばしば「ちゅうぎん」と読まれるが、「なかぎん」が正しい。
地上13階および11階建てのツインタワービルで構成され、直方体のカプセルが合計140個取り付けられており、各々のカプセルは独立した居住空間となっている。
見た者に強烈なインパクトを残す凸凹の建物には、コンセプトが大きく2つあった。
ひとつは、街そのものを活かした都市型ライフスタイルの提言。住宅は広さではなく、設備と立地こそに価値がある時代と謳ったカプセルは、ひとつ10平米と非常にコンパクトな造りである。デフォルトの設備はユニットバス、ビルトイン式の冷蔵庫、空調。オプションとしてテレビやステレオなどが付けられた。
ビジネスマンをターゲットとしたため、それに合わせたサービスも充実。当初はルームキーパーや「カプセルレディ」なる秘書サービスまで存在していた。さらにはコピー機やタイプライターの貸し出しコーナーも。コワーキングスペース付きシェアハウスさながらの環境が、大都会・銀座に整えられていた。
そしてもうひとつが、建物の新陳代謝(メタボリズム)だ。各々のカプセルは、たった4つのボルトで支柱に取り付けられている。四半世紀に一度、カプセルを取りはずし、工場で新しく造られたそれと交換するための造りだった。
古い細胞と新しい細胞を新陳代謝する生命体の仕組みを応用した、新たな時代や環境に順応していく建築のかたちを構想しており、中銀カプセルタワービルの建物自体は、およそ200年はもつ算段であった。しかし結局、カプセルは一度も交換されないまま、着々と老朽化が進んでいった。
それでも、いや、だからこそなのか、ますます中銀カプセルタワービルは人々の心を掴んで離さなかった。いつ終わりが来てもおかしくないこの建物を、最後に目に焼き付けようと訪れる人や、入居希望者が後を立たなかった。無論、私もそのひとりである。
1か月から中銀カプセルタワービルを賃貸できる「マンスリーカプセル」の登場
じつはほんの数年前まで、時折中銀カプセルタワービルは賃貸情報が上がっていた。家賃相場は6〜8万円ほど。日本一地価の高い銀座に位置するデザイナーズマンションとしては、かなり破格といっていいだろう。
かくいう私も、その昔中銀カプセルタワービルの賃貸情報を発見し、嬉々として内覧へ赴いたひとりである。だが、あこがれの建物に入れた反面、部屋内の備品はすべて取っ払われていて、何より強烈なカビ臭が鼻腔を襲った。家賃5万円(当時)とはいえ、そこに何年も住む前提で借りる自信が持てず、後ろ髪引かれつつもあきらめたのだった。
それゆえ、中銀カプセルタワービルの一室を1か月から賃貸できる「マンスリーカプセル」の情報を見たときは天啓と思った。
「マンスリーカプセル」を運営したのは「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」。中銀カプセルタワービルを後世に引き継ぐことを目的に、2014年に発足したこのプロジェクトは、本の出版、メディア露出、見学会などさまざまな働きかけを行なってきた。
「マンスリーカプセル」の入居には、毎月抽選が行なわれた。なにがなんでも住みたかった私は、中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト宛に、メールでつらつらと中銀カプセルタワービルへの愛を綴った。かくして銀座の地で2か月間、じつに刺激的な日々を送ることになったのである。
銀座だからこそ楽しめる、都市型サバイバル
暮らしたのは2019年4月から6月。中銀カプセルタワービルは、築47年になっていた。当然ながら竣工当時の家電は全滅。お湯も出なくなり、あちこちで雨漏りも。トイレもたまに壊れた。住まいとしての限界を否応なく感じた。
だが、カプセルの設備が壊れるごとに、住人たちのテリトリーは街へと広がっていった。すでにコンビニは冷蔵庫だったし、近隣には銭湯もある。テレビ、オープンリール、スピーカー、時計など、ヘッドボードについていたすべての壊れた家電はスマホ一台あれば事足りた。現代の利便性が、そのままカプセルの延命装置として機能したのである。
狭さはまったく感じなかった。むしろ、無限に広いとすら思えた。隣室と壁を共有しない独立構造ゆえか、はたまた丸く大きな窓からみえる景色のためか。空中に居を構えているような感覚があった。雲のなかにいるのだから、雨漏りくらいして当然。そんな気構えでいれば、共用部にしたたる雨音は、心地よく胸に響いた。
なにより銀座は、想像をはるかに超えて住みよい街であった。もともとキッチンのない中銀カプセルタワービルにとって、銀座は住人のためのダイニングだった。そして銀座は、知れば知るほどあたたかく、人情味あふれる下町に思えた。
創業80年の喫茶店、開店90年を超える文豪たちが愛したバー、120周年に沸くビヤホール……。ケタ違いの老舗がいまも賑わい、次々誕生する商業施設と肩を並べている。中銀カプセルタワービルのような歴史的建築の好事家にとって、この長い流れの街に身を置くことは、とても居心地がよかった。
「カプセルに住んでいる」と言えば、必ず話が弾んだ。次から次へと絶え間なく人を迎え入れたし、少し遠ざかっていた友人ともこれをきっかけに再会した。
2か月間で、総勢50名が中銀カプセルタワービルに訪れた。みな興味津々でつくりを観察し、堪能した。カプセルの魅力はどれだけ語っても語り尽くせないどころか、募る一方だった。
中銀カプセルタワービルで行なった、小さなシークレットライブ
退去してからも、中銀カプセルタワービルへの思いは止まなかった。その半年経った2019年12月、中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクトの協力のもと、中銀カプセルタワービルでひっそりと音楽イベントを企画した。
お客さんは21名限定。7名ずつ、3組のグループに分かれて、アーティストが待機する指定のカプセルへとそれぞれ移動する。同時にライブが始まり、1組目の演奏が終わると、次はふたつめのカプセルへと一斉に移動。そしてまた移動して、最後のカプセルへ……。
グループによって、アーティストの出演順が異なった。そのため、どの順番でも楽しめるようにと、3組ともまったく異なる趣きのアーティストをキュレーションした。なお、アーティストは部屋に入るまで、シークレットだ。
中銀カプセルタワービルは、部屋ごとにかなり印象が変わる。高速道路が見えるカプセル、銀座方面を望むカプセル、ほとんど隣のビルの壁しか見えない分、ひみつ基地感が強いカプセルなど。残っている設備もかなり異なっているし、フルリノベーションされた部屋も存在する。移動を口実にいろんなカプセルを知る楽しみを、お客さんに味わってもらいたかった。
換気もできない小さなカプセルに人が集まる。そんなイベントが許される最後の冬であった。
中銀カプセルタワービルの遺伝子は、世界中へ
あれから3年が経った。毎晩、丸い窓から高速道路を眺めていた。小さく光るレインボーブリッジと、遠ざかる車の赤いテールライトを目で追いながら、デパ地下や築地で買ってきたワインをだらだらと飲むのが好きだった。
あのときの景色の一部になりたくて、つい先日、解体作業が始まった中銀カプセルタワービルを首都高から見上げにいった。
ハイスピードで流れゆく無表情なビル群のなかから突如としてあらわれる中銀カプセルタワービルは、あまりにも異質だった。まるで半世紀前、あのビルだけが未来から突如やってきて、置き去りにされたような佇まい。
これから解体が進み、取り外されたカプセルたちは、50年前の姿に再生されたのちに世界中へと散っていく。行き先は、国内外の宿泊施設や美術館など。カプセルは今後200年どころか、人類の文化が朽ち果てるまで、半永久的にこの地球上に遺されることとなった。中銀カプセルタワービルの遺伝子は、きっとこれからも誰かの心を揺らしつづけるだろう。
▼参考文献
・中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト編著『中銀カプセルタワービル 最後の記録』(2022年、草思社)
・中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト編著『中銀カプセルスタイル 20人の物語で見る誰も知らないカプセルタワー』(2020年、草思社)
・中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト編著『中銀カプセルタワービル 銀座の白い箱舟』(2015年、青月社)
・中銀マンシオン株式会社『中銀カプセルマンシオン《銀座》パンフレット』(中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクトによる復刻版)
- フィードバック 283
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-