ラッパーChildish Gambinoとしても知られるドナルド・グローヴァーと映像作家ヒロ・ムライの二人が手がけるドラマシリーズ『アトランタ』のシーズン3が、6月15日よりDisney+にて配信されている。
オフビートなコメディでありながらアメリカのポップカルチャーや社会状況をクリエイター二人のパーソナルな実感に基づいて描き出してきた『アトランタ』。シーズン1、2ではラッパー「ペーパーボーイ」のマネージャーを担当する主人公アーンを取り巻く周囲の人々を通じて、アメリカで黒人として生きる上で感じる不条理や欺瞞をアイロニカルに描写していたが、今回配信のシーズン3では舞台をヨーロッパにまで広げ、よりシュールかつ幅広い物語が展開される。また、先述した「不条理」もまた、より複雑で一口では咀嚼しきれないような様相を呈す。
そんなシーズン3の配信開始に合わせ、ドナルド・グローヴァーやヒロ・ムライのキャリアを初期からウォッチしてきたライターの小林雅明に、これまで『アトランタ』が描き出そうとしてきたものを解説してもらった。
(メイン画像:© 2016 FX Productions, LLC. All rights reserved.)
“This Is America”のコンビが仕掛けた「トロイの木馬」。ドナルド・グローヴァーが本当に意図したものとは?
Childish Gambinoの"This Is America"のミュージックビデオは、2018年5月にYouTubeで公開されるや、爆発的な視聴回数の伸びを見せ、世界中の大小各メディアで盛んに取り上げられ、社会現象を巻き起こした。グラミーも手中に収めたこのMVを撮ったヒロ・ムライと、Childish Gambinoことドナルド・グローヴァーとのコラボは、2013年の短編映画『Clapping for the Wrong Reasons』に始まり、いくつかのMVへと続いてゆく。
2015年、ドナルドがTVシリーズとして長年暖めてきた企画が通り、ケーブルTV局のFXでパイロット版の製作から始まったのが『アトランタ』だった。それが認められ、翌年の9月にシーズン1が始まり、2018年3月からのシーズン2へ、そして、今年2022年3月からのシーズン3へと続き、同年9月あるいは10月から放映予定のシーズン4で完結する。
このコメディのクリエーターにして、主演のひとりであり、脚本、監督も担当するドナルド・グローヴァーは、こう振り返る。「FXが自分に何を求めているのかわかっていた。彼らが考えていたのは、ぼくとクレイグ・ロビンソン(コメディアン)が丁々発止のやりとりをするようなもの、『コミ・カレ!!』(ドナルドが2009〜2014年まで出演し、初めて彼の名を知らしめた人気TVシリーズ)みたいなもの、そして、長く続けられるようなものだった。ぼくは、FXに対して“トロイの木馬”作戦を敢行した。自分が本当にやりたかったことを伝えたら、実現しなかったはずだ」(*1)。
音楽業界を舞台としながら、成功譚を描かない奇妙なバランス
『アトランタ』のエグゼクティブ・プロデューサーのひとりで脚本も担当する(ドナルドの弟)スティーヴンが作戦について明かす。「ドナルドはFXにこう約束したんだ。『主役のアーンとアルは活動をともにし、成功を目指し音楽業界の荒波にもまれている。人を撃って有名になったアルもいまは名声の扱いに困っている。それと、週ごとの彼の新曲はぼくが書く。ダリウスはおかしな奴で、彼らは徒党を組む』」。
ジョージア州アトランタの、主に黒人コミュニティを舞台とするこの作品で、メインとなる登場人物は四人。アーン(ドナルド・グローヴァー)は、大学をドロップアウト後、地元アトランタに戻るも定職に就けず、幼い娘ロティとその母でドイツ人の父親を持つヴァン(ザジー・ビーツ)に頭があがらない状態。一方、彼の従兄アル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)はラッパー、ペーパーボーイとして地元で売り出し中で、彼にはダリウス(ラキース・スタンフィールド)という長年の相棒がいる。シーズン2までは、これを好機ととらえたアーンがペーパーボーイのマネージャーとして信頼を勝ち得るまでの過程が描かれている。
ところが、シーズン3が終わっても、アーンとアルが音楽業界の荒波にもまれている様子など一度も出てこなければ、ペーパーボーイの持ち歌についても、シーズン1の第1話に出てくる“Paperboy"1曲のみだ。それどころか、シーズン2の幕切れで、ライヴツアーのため欧州行きの航空機に乗り込んだペーパーボーイ一行が、シーズン3に出てくるやいなや、すでに欧州ツアーを数回経験済みの人気アーティストとなっている。ドナルドとしては、音楽業界におけるラッパーの成功譚を描くことには興味はないのだろう。そして、シーズン3を見る限り、人気ラッパーとして大金を動かしているような境遇や立場にあること自体が、資本主義の観点から切り込んでゆくうえで、最大限に活かされている。
それよりも、駆け出しの頃でも、人気者となってからでも、ひとりの人間としてのラッパーと現実社会の諸相とのかかわりあいに目を向けている。例えば、“Paperboy"が地元で話題にこそなれ、現実にはアルが急に金持ちになるわけではない。そこでシーズン2第2話で彼は今まで通り稼ぐため、旧知のドラッグ卸しの仲間に会い、ブツを分けてもらおうとカネを渡すと、ラップで儲けてるんだろうと、ナイフを突きつけられ、逃げられてしまう。ドラッグディーラーのみならず世間一般の目には、今話題のラッパーが昔の「商売」をやりたがるほうが、不条理に見えるのはまったく不思議なことではない。
「不条理な現実」も使いよう
「この番組の主題は、黒人であるとはどういうことなのか見てもらうこと。それを書き出すのは無理なので、とにかくそれを感じてほしい」。番組開始にさきがけて行われた記者会見(*2)でドナルドはこう述べている(以下、引用するドナルドの言葉はすべてこの時のもの)。例えば、アーンが、デビットカードを使おうとすると、まず身分証明書の提示を求められる場面がある。黒人であるとは、どういうことなのか。それはまず、「不条理な現実」にふりまわされることではないだろうか。
それでも、『アトランタ』に登場する人物の多くは、その「不条理な現実」や社会に対して、真っ正面から抗議したり行動をおこしたりはしない。そんなのは面白くない、別のやり方がある、とでもいうかのようにとりあえず事態を見つめる。
例えば、シーズン2第2話には、アルの家に休職中で金のない旧知のトレーシーが居候してくる。アーンとモールに買い物に出かけた彼は、店内でお目当てのスニーカーの箱を積み重ね「さてもらっていくか、この手の店は『ノー・チェイス・ポリシー』を守ってるから、盗んでも追いかけたりしない」としゃべりながら、箱を抱え、胸を張って店外へ出てゆく。店員は彼に声をかけるも、アーンと目をあわせ、肩をすくめるだけだ。この取り決めのもとでは、モールの警備員に捕まらない限り、万引きは事実上黙認されたも同じだ。ちなみに、これは現実に採用されている取り決めである。「不条理な現実」も使い方次第で、それまで知らなかった「別の現実」を開いてしまう。そのため、それが、とてもシュールに見えてくる。
開かれる「別の現実」
そして、このシュールな「別の現実」というのが『アトランタ』では最大の特色となっている。それらは現実世界に「別の現実」が開いたために目の前の風景がシュールに見えてしまうパターンと、「別の現実」そのものがシュールなパターンがある。
後者の例としては、シーズン3で二度出てくるアムステルダムが舞台の回が挙げられる。土地柄、マリファナの使用が制約付きで非犯罪化されているからなのか、そこにはあたかも「別の現実」への入口があるかのようだ。ただし、その入口はシリーズを通じてはっきりとは示されない。第8話でアルがぶっ飛んだのも、どの時点なのかよくわからない。
ドナルドは、シーズン2放映に先がけこう言っている。「『アトランタ』の登場人物がマリファナを吹かすのは、かっこよく見せるためではない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っているからだ。どの黒人もそうであるように」。第8話でアルがシュールな「別の現実」にいるのはたしかだ。ところが、自らの深層心理(シーズン1のトランスジェンダーに関する炎上発言やキャンセル問題)が産み出した人々に出くわしていくようなバッドトリップを味わってしまう。
一方、第2話で、ダリウスとヴァンは(二人ともシラフ!)、彼女が買った古着から出てきた紙切れに書かれた住所を訪ねる。そこで案内されるまま移動した先には白装束の白人たちの会衆が。それは安楽死推進団体らしく、二人は目の前で、なんと2Pacの死の瞬間に立ち会う。なんともシュールな世界だが、二人は知らぬ間に、2Pacが生きていた「別の現実」に入り込んだに違いない。
こうした現象は、2017年にヒロ・ムライがアマゾンでドラマ化した短編『シーオーク』の原作者ジョージ・ソウンダースの小説でも見られる。そもそもダリウスは、シーズン2第7話で「われわれはシミュレーションのなかで生きているから、単に自分たちが“実世界”だと思い込んでいる世界で日常生活を送っているだけだ」とするニック・ボストロムの見解を述べるように、「別の現実」を強く意識している輩なのだ。
人種主義と資本主義がもたらすアメリカの不条理。白人の罪悪感、あるいは「白人の心の脆さ」とは
また、ネット・ミーム(例えば、シーズン2第3話やシーズン3第7話)や有名な実話に手を加えるかたちで「別の現実」を提示したりもする。「怖い思いをしてほしい、なぜならそう感じるのが黒人であるということだから」。こうも語るドナルドの監督したシーズン2第6話は、厳格な指導を通じ父親に虐待されながらも、高い技術を身につけ世界的名声を手にした黒人音楽家を描く。皮膚病によって一線から退いた彼を伝説として永遠に生かすため、最後の仕上げに「死」が追加されるという、マイケル・ジャクソン伝説の構造に不条理を嗅ぎとった物語となっている。
そして、シーズン3は白人のレズビアン・カップルから虐待を受ける養子縁組の黒人の子どもたちの物語(これも実話に基づいている)から動き出し、「不条理な現実」に白人(あるいは、ドナルドが脚本と監督を手がけた第9話の見た目では白人で通用する黒人)も振り回される。第4話が始まると、カーラジオから、奴隷だった祖先の奴隷主の親族に対し経済的損失分の賠償請求(reparation)訴訟で勝訴との話題が漏れ聞こえてはくる。とはいえ、主人公の白人男性宅に、見ず知らずの黒人女性が突如押しかけてくるやいなや、資産を値踏みし、あなたの先祖はうちの先祖の奴隷主だったから、賠償請求させてもらうよ、と捲し立て、さらに彼が家を空け、戻ってきてみると、なんと彼の家の前で彼女の家族が総出でBBQパーティの真っ最中……。
ちなみに、賠償請求の支払いについては、すでにイリノイ州エヴァンストンが基金を立ち上げ、当該黒人世帯の住宅ローンの残金や頭金を補填するかたちで行われている実例(*3)がある。『アトランタ』で描かれるこうしたエピソードを笑えるか、居心地が悪い思いをするのか。別の言い方をすれば、白人の罪悪感(White Guilt)や白人の心の脆さ(White Fragility)を刺激してしまう描写がシーズン3では際立って見える。
実際、ロンドンが舞台の第3話には「白人の心の脆さ」について論じられた書籍『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』で白人の著者ロビン・ディアンジェロが「リベラルな白人こそが非白人に日常的に最も深刻な危害を加えている…リベラルな白人は、非白人にとって最もやっかいなのだ」と書いている、まさにそれを的確に見せるために書かれたかのような場面が組み込まれて笑いを禁じ得ないほどだ。これらは白人にとっての「不条理な現実」を『アトランタ』流に描いたのだと言える。
そして、細部を描けば描くほど、社会基盤自体が、このシリーズにおいて台詞では決して強調されることのない人種主義に基づいてできていること、言うなれば多くの白人にとっての「別の現実」も何度か開かれてゆく。だが、そういった現実を描きはしても、白人や白人性を叩くことが『アトランタ』、特にシーズン3の主眼ではない。前述したように、ペーパーボーイとその仲間たちは、すでにラップで資産を蓄え始めている前提で物語が始まる。シーズン1や2の頃と比べ、例えば、第6話にあるように、外から見てわかりやすい形で現在の資本主義システムに彼らも組み込まれてしまっているのだ。
ちなみに、シーズン3では、アーンと同姓同名の白人男性が三回姿を見せる。例えば、賠償請求(reparation)をヒントに、彼がなぜ同姓同名なのか、なんの象徴なのか考えてみるといい。人種主義と資本主義の絡み合いが、さらにはそこから派生する新たな恐怖も見えてくるだろう。
『アトランタ』シーズン3は全体の構成から見れば、シーズン内で完結しているように見える。完結編となる、来るべきシーズン4では、ドナルドが最高作として自負してやまないシーズン3までに積み上げてきたものをどこにどう収めてゆくのか、いかないのか、大いに期待したい。
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