技術の進化は、近い将来すべての人が同じように「見える」「聞こえる」「動ける」世界をつくりだすと言われている。それは希望的であると同時に、ある感覚を鍛えてきた従来の身体が失われることでもある。コントロールするための技術の開発が続くなかで、人間が同質な存在である「ホモ・サピエンス」ではなく、より多様で高次な存在である「メタ・サピエンス」へと進化していくには、どのような視点を持つべきだろうか。
この問いをベースに展開する「メタ・サピエンス」プロジェクト。今回は、一人ひとりの固有の身体のあり方を探ってきた伊藤亜紗をゲストに迎え、武邑光裕と対談を実施。
身体にまつわる数々の著書で「できないことの価値」について触れてきた伊藤は、どのように現況を捉え、未来の人間像を思い描いているのだろうか。リアルとバーチャルが融合するパラダイムシフトを「人間の進化」として捉えて議論する。
「リアリティー」が揺れ動くいま。テクノロジーによって身体はどう変化したか
―伊藤さんは新著『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』でも論じられていますが、まずは身体とテクノロジーの関係について聞かせてください。
伊藤:この本は、5名の理工系研究者による身体に関する研究の成果を、私なりに語りなおしたものです。エンジニアリングの基本は対象をコントロールすることだと思いますが、身体の場合は、コントロールすればするほどパフォーマンスが高まるかというと、案外そうでもありません。
できなかったことができるためには、意識のコントロールを超えて、「身体がふいにできてしまう」というジャンプが必要です。本書では、この意識の外側の領域に身体を連れ出してくれるような、コントロール的な発想とは違うテクノロジーをとりあげています。
本のなかでNTTの柏野牧夫さんが強調されていることですが、スポーツでも楽器の演奏でも、うまくいくためには、事前に準備をしたことを正確に行なう「機械的な再現性」ではなく、そのつど変わる環境や道具との関係のなかで準備したことを即興的に変形していく「変動のなかの再現性」が重要です。
身体は、そうした即興的な変形を意識していないところでやっていて、たとえば毎回のピッチングフォームが微妙に変わったりします。こうしたことができる音楽家やスポーツ選手は、身体をコントロールするというより、むしろ「身体に解かせている」といえます。
武邑:ぼくは、身体っていうものはもうそれほど進化しないと思っています。人間の知覚器官や身体機能に進化があった200年前の自然環境と、いまは全然違うわけですよね。
この20年ぐらいの象徴的な現象をあげてみても、スマートフォンが登場して、圧倒的な「記憶の外在化」が起こってきています。スマートフォンはもう身体的な臓器に近い機能を持ち始めていて、簡単に日々の記憶を生物学的なメカニズムを通さずにエンコードしたり、また抽出したりしている。何かわからないことがあっても、ほとんどの場合はすぐにスマートフォンで調べて、ほかの人の記憶を参照して解決できるようになっています。
武邑:こういった外在化する人工臓器のようなものによって、次第に人間にとってリアルとバーチャルは並列的な関係になってきました。
我々がリアリティーと感じるのは、主観的な経験に基づいた世界。もう一つあるのが、その主観的な経験と完全に独立した世界があるという考え方です。この二つのまったく異なる世界観がいまは並列的に存在していて、どちらも正当性を持っている。「リアリティー」というものは非常にゆれ動いてきています。
つまり、デジタルメタバースはこれから始まろうとしている「新しいリアリティーの実装」だと思います。二つの世界の並列的な関係というものを考えるうえでも、身体とリアリティーをもう一度考え直すというのは非常に興味深いことで、伊藤さんの著書『体がゆく』は非常に面白く拝読しました。
伊藤:身体というものにとってのリアリティーは、何なのでしょうか? バーチャルリアリティー的な「リアリティー+」みたいなものがいろいろあったときに、身体にとってはどこにいても、あまり変わりないですよね。「いま違うリアリティーだぞ」みたいなことを、言語や認識でなら区別できるかもしれないけれども、身体はそれを区別できるのかが気になります。
武邑:一番の不可避的な問題としては、私の経験というものを伊藤さんに「共通の体験」として移植することができないということです。たとえば視覚でも、赤色を見たとして、誰もが同じ色を見ていると考えがちですけどそれはまったく違うわけで。色弱の方や色盲の方などが「ノーマルな感覚から外れている」と思われがちですけど、人によって見ているものが違う、見え方が異なるのは当たり前なんです。赤でも同じ赤ではない。
実際、私たちの身体や意識は、自分の経験を共有できないという前提から成り立っている。そういう意味で、ぼくらがこれからの自分の身体を考えていくときに、外在化した人工臓器のようなものがスマホだけなのか、というところも考えるべきですね。
デジタル・メタバース空間で「もれる利他」は実現しうるのか? 「give」ではない利他を考える
―伊藤さんは、デジタルとリアルが溶け合う時代に、人間の身体や営みはどう変化していくと思いますか?
伊藤:いま私は大学で「利他」について研究しているんですけど、メタバース空間で「利他」がどう変化するのかが気になっています。
利他というのは一般的には「give」、与えるっていうことだと考えられています。でも、たとえば障害とともに生きる方の話を聞くと、他者からgiveされ続けるのはしんどいという話を聞きます。社会学者のマルセル・モースが指摘しているように、与えられることは必ずお返しをしなければならないというプレッシャーを生み出すので、その借りが溜まってしまっている借金状態がとてもつらくなり、しまいには上下関係を生み出します。
私はgiveではない利他というものを考えたいと思ったときに、「与える」じゃなくて「もれる」みたいなことのほうが自然な利他なんじゃないかなと思うんです。自然環境のなかにはもれているものってたくさんありますよね。木漏れ日もそうだし、たくわえた養分もそうだし、いろんなものをすべて蓄えることはしない。
伊藤:今日ここまで電車で来るとき、向かいに立っていた人の肩に虫のようなものがとまっていたので、「なんかとまってますよ」ってつい言ってしまいました。
そういうときに、人と人のあいだにある前提とされる境界線みたいなものから、ふっと自分がもれてしまう。境界を越えてしまうところに利他は生まれるんだと思うんですよね。
物理的な存在は隣接しているだけで、こうした「つい、もれる」が起こります。その感覚が、デジタルやメタバース空間でも起こりうるのか、ということが気になっています。物理的空間では、カフェの隣のテーブルの会話がこちらまでもれてくるけど、Zoomのブレイクアウトルームでは隣のルームの会話は聞こえません。プライバシーのバランスもあると思うのですが、メタバースの世界でもそういった「もれ」が設計できるといいなと思うんですよね。
―伊藤さんが考える「もれる利他」は、具体的にはどんなイメージでしょうか?
伊藤:「もれる」には、自分でコントロールして「もれさせる」要素と、自然に「もれちゃう」要素もあります。
その中間のようなものを目指して、寄付のしかたを新しく考える「新しい贈与論」という団体があります。寄付をする人たちのメンタリティーって、「このお金はたまたまいま自分のところにあるけど、ここになくてもいい、必要な人のとこにいけばいい」というものが本当は多いんです。
だけど最近は、クラウドファンディングのようにリターンを求めるような仕組みのものや、投資のようなものも多い。そのなかで、なるべく自分の意思が直接反映されないような仕掛けをつくる、という実験をしている団体なんです。
「自分はここがいいと思ったけど違うほうにお金がいってしまう」みたいな、自分のお金が自分の本意でないところにいく経験を大事にしていて。自分自身がコントロールしてそこに参加してるんだけれど、それと同時に設計された「もれ出し」みたいなものにお金が乗っていく。
そんなふうに、うまくもれ出すような仕組みをもっといろいろ考えられるんじゃないかなと思っています。そういうところに、自然な利他が生まれるんじゃないかなということを考えています。
武邑:大きなテーマですね。今日のクリプトコミュニティの源流となっているエリック・ヒューズの『サイファーパンク宣言』(1993年)は、「プライバシーとは秘密主義のことではない。プライバシーは選択して自らを世界に示すための力だ」という旨の宣言でした。つまりプライバシーは、隠すものでも守るものでもなく、選択的に自分の情報を世界に公開する力ということです。自分の管理のもと、ほどよく情報をもらすために、自分のコントロールが及ぶ範囲を設定できたらいいですよね。
今後、私たちの身体はテクノロジーによってどんな進化をするか?
―テクノロジーによって「身体」の概念は拡張していくと思いますが、一方で、変わらない価値観や考え方もありそうです。これからの「身体」のあり方はどうなっていくと思いますか?
伊藤:私は究極的には身体の面白さって、自分のもののようでそうじゃないってところだと思っていて。身体って、他人に応答責任を生み出すんですよね。私がいまここで倒れたら、みなさんが救急車を呼ばなきゃいけなくなるといった意味で、私の身体のように見えるけど、じつはお互いに支え合っている。つまり身体は、「何かあったら何とかするよ」ということがつねに発生しうる、潜在的な塊である。
そこが面白いし、身体がつくり出す社会性だと思っています。そういう意味で、自分の身体がつねにベストな状況っていうのは、社会性を失わせる気がして。
人に迷惑をかけるなと言いますけど、でもその迷惑が社会性を生み出す。もちろん、いきなり倒れたりしないほうがいいけれども、でも身体は最後に人に迷惑をかけられるポテンシャルを持っている。それは、これからどんなテクノロジーが身体に入ってきても、残していきたい部分じゃないかなと思うんですよね。
武邑:ぼくらがこれから自分の身体を考えていくときに、外在化していく人工臓器のようなものは、スマホ以外にもあるかもしれない。外在的なテクノロジーと思えていたものが、自分の内在的な臓器に進展していく可能性は非常に高いと思います。
ぼくはこのあいだ白内障の手術をして、両目に人工のレンズを入れています。200年前だったらおそらく失明していました。いまはそういった身体を拡張させるテクノロジーがあまりにも一般的になっていますよね。そういう恩恵は大きな発明で、小さな発明も含めて、これからの若い世代がどんどん発明を多産していく時代が来ると思っています。
- プロフィール
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- 伊藤亜紗 (いとう あさ)
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東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター。リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員(2019)。専門は美学・現代アート。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)、『ヴァレリー芸術と身体の哲学』(講談社)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)。
- 武邑光裕 (たけむら みつひろ)
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メディア美学者、「武邑塾」塾長。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。1980年代よりカウンターカルチャーやメディア論を講じ、VRからインターネットの黎明期、現代のソーシャルメディアからAIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。2017年、Center for the Study of Digital Life(NYC)フェローに就任。著書に『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)、新著に『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)がある。2015年よりベルリンに移住、2021年帰国。
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