本年度『アカデミー賞』で作品賞、脚色賞の2部門にノミネート、脚色賞を受賞した映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』が、6月2日に公開された。監督は、俳優として『死ぬまでにしたい10のこと』(2003年)などへの出演で知られ、『テイク・ディス・ワルツ』(2011年)、『物語る私たち』(2012年)といった監督作を手がけているサラ・ポーリー。「幽霊によるレイプ事件」とも呼ばれる実在の性的暴行事件をもとにした小説を原作に、性被害に遭った女性たちが下す決断に至るまでの「話し合い」の過程を描く。
自身も10代で性被害に遭い、大人になってからエッセイで告発したという経験を持つポーリーは、「壊れた世界をいかに立て直すかという話し合いが持つ、終わりのない潜在的な力と可能性を、全てのフレームで感じたかった」と述べる。本作が女性たちの「話し合い」に光を当てることの意味、そして#MeToo運動の先に生きる私たちに問いかけるものとはなにか。水上文が本作をレビューする。
※本記事には映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
言葉を奪われてきた女性たちが「話し合う」映画
俳優としても名高いサラ・ポーリーが監督を務める映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、実際に起きた連続レイプ事件をもとに描かれたミリアム・トウズの小説『Women Talking』(未邦訳)の映画化である。
あるキリスト教一派の村で起きた事件は、当初「悪魔や幽霊の仕業」「女性たちの妄想」だとされていた。多くの女性が被害に遭い、トラウマに苦しみ、なかには死に追いやられた女性も存在したにもかかわらず、現行犯で加害者の存在が明るみに出るまで、まともに取りあわれなかったのだ。
否定されていた被害と加害が明らかになったのち、男性たちが街へと出掛けているわずか二日間のあいだで、女性たちは話し合いを行なう。
加害者を赦し、何もせずにいるのか、それともこのまま留まって戦うのか、あるいは去るのか——映画で物語られるのは、女性たちの未来を賭けた話し合いなのである。
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』予告編
ただひとり「赦し」を主張し、早々に話し合いの場から立ち去る女性(スカーフェイス)も存在するのだが、スカーフェイスを演じるのは本作の製作も手がけたフランシス・マクドーマンドである。『スリー・ビルボード』で娘をレイプされて殺害され、復讐心に燃える母親を演じ、『アカデミー賞』主演女優賞を獲得した人物が、ここでは加害者に「何もしない」ことを選択する女性を演じるのだ。
スカーフェイスの退場により、選択肢は二つに絞られ、話し合いは続く。
クレア・フォイ演じるサロメとジェシー・バックリー演じるマリチェは、激しい怒りを、つまり抑圧され傷つけられた人々の声として最も重要な感情を体現する。ルーニー・マーラ演じるオーナは、信仰や取るべき選択肢についての知的な議論を穏やかに展開するが、ある意味では彼女が最もラディカルな変革を求めているとも言えるだろう。
意見の異なる女性たちが織りなすアンサンブル——語っても軽んじられ、聞き入れられず、語る言葉を奪われてきた女性たちの、話すという営みにこそ、映画は光を当てるのだ。
#MeToo運動の精神を継ぐ、実話をもとにした寓話
だが、原作小説でまず初めに語り始めるのはオーガストなる男性だった。
映画のなかで話し合いを行なう女性たちは読み書きができないため、大学を出て村に教師として戻ってきたオーガスト(ベン・ウィショー)を書記として迎えるのだが、小説は書記であるオーガストによる記録、という体を取っていたのだ。言語芸術である小説では、読み書きのできない人の声を語るために代弁者を設定せざるを得ない。この意味で、映画は小説ではできなかったことをしている——女性が自ら語る様を、それもさまざまな女性が語る様をこそ重視するということを。
映画が行なうこの重要な変更は、主題にとって必要不可欠なものでもある。
何しろ性犯罪では、被害を訴えた人が嘘をついていると疑われ、被害の存在そのものが否定されることがあまりに多いのだから。
たとえば原作小説『Women Talking』は2005年から2009年にかけてボリビア多民族国のキリスト教一派の村で起きた連続レイプ事件をもとにしているが、もしも最初から女性の話が重く受け止められていたら、およそ4年間にわたって数百人に及ぶ被害者が出ることなどあっただろうか? 女性たちの話を妄想だと軽んじて、被害を拡大させたのは誰だろう?
事件は、単に特殊で限定的な出来事などではない。実際、世界に拡大した#MeToo運動が物語るのは、どれほどこれまで女性たちが沈黙を強いられ、一方で加害者が大手を振って力を行使し続けてきた/いるか、ということなのだから。
タラナ・バークが性暴力被害者支援のために用い始めた「MeToo」というスローガンは、ハーヴェイ・ワインスタインに対する告発をきっかけに世界に広まったものである。
そして、まさしくこのワインスタイン告発を描いた映画『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(2022年)が描いたのは、複数人の俳優やスタッフに対して数十年に及ぶ加害が行なわれながら、被害を公に語る人を探し出すことがいかに困難を極めたかである。多くの人々は巧妙に口を塞がれており、あるいは声を上げても聞き入れられないと絶望させられていたのだ。
だからこそこの映画は、出来事を寓話化する。
彩度の低い画面はノスタルジックで、電気を用いない屋内は差し込む陽光にのみ照らされ、現代とは遠く離れた過去の情景のようである。映画は近代技術を排した架空の村を舞台に設定することで抽象度を高め、あくまで話し合いに焦点を当てることで、地域や宗教の特殊性などに事件が還元されないよう気を配り、普遍的な寓話として提示する。これはどこか遠くの物語ではなく、いまここの物語、私自身の物語でもあるのだと。
女性の想像力——現実を突きつけ、未来を夢見る力
映画は初めにこう言う。語られるのは、女性たちの想像力が生み出した行為である、と。
強烈な皮肉であり、奪われた言葉を取り戻す鮮烈な宣言である。
というのも、加害者らは牛に用いる催眠剤を使い、家の全員を気絶させたうえで犯行に及んでいた。だから被害に遭った女性たちにも、その晩の記憶はまるで存在しなかったのだ。目覚めればたとえば足の間に血痕が、痛みが、身体に異変があったにもかかわらず。被害を語る言葉は聞き入れられず、女性たちの想像力の為せる業のように扱われていたのであった。
これは事件に限った話ではない。たとえばサラ・ポーリーが脚本を務めた別の作品、マーガレット・アトウッドの原作小説をドラマ化した『またの名をグレイス』(2017年)では、殺人犯とみなされている女性と精神分析医の男性が描かれる。緊張感に満ちたこのドラマは、精神分析がいかに女性を「狂気」の枠に押し込め、偏見に満ちた姿勢によって抑圧から生じる苦悶の叫びを「ヒステリー」として封じ込めてきたのか、その歴史をまざまざ思い起こさせるものである。「女性の想像力」は、まさに抑圧のための手段だったのだ。
Netflixドラマ『またの名をグレイス』予告編
だが、『ウーマン・トーキング 私たちの選択』が描くのは、事件を経て、求める未来像を探り当てようとする女性たちの類稀なる力である。たとえばオーナは、村に留まるのであれば、男性たちへの要求を示した声明を出すべきではないかと言う。男性と女性がともに意思決定の場に携わり、少女たちは読み書きを学び、考えることを許されるようになることを求めるべきではないかと。実現こそしなかったものの、その未来は民主主義の誕生を予感させるものである。いやむしろ、彼女たちが話し合う様そのものが民主主義の最も善き実践である。
より良い未来を思い描き、実践しようとする「女性たちの想像力」——加害を覆い隠すための侮蔑に塗れたその言葉は、見事なまでに覆されるのだ。
なお、寓話めいた映画が観客に、これが現代の物語であることを知らしめるのは、村の外からやってきた自動車が大音量でザ・モンキースの“Daydream Believer”を流す場面である。1967年のヒットソング、みんなの憧れの的である女性を射止めて幸福の最中にあるが、同時に幸せを打ち破る現実の予感に幾許かの不安を覚えてもいる男性視点の歌——甘やかな白昼夢にまどろむその曲は、とびきりの皮肉を込めて観客を現代に連れ戻すだろう。
夢見心地のままではいられない。あなたが何の不安もなく過ごす傍にも、暴力に脅かされている人は常にいるのだから。加害者は幽霊などではない。現実の人間が罪を犯したのであり、それを可能にしたのもまた、性差別的な構造に他ならないのだから。
ところで幽霊と悪魔が蔓延る村で暮らす男性たちは、一体どんな夢を見ていたのだろう?
2人のキャラクターが示す新たな男性性の可能性
ただ映画は、女性たちが加害されるシーンを直接映さず、加害者の顔をわかりやすく映すことも拒否しているため、女性たちの言葉を否定する男性は明確には登場しない。
むしろこの映画に登場する男性は、たとえば書記を務め、女性たちの手助けをするオーガストである。彼はこう言う。教育の力を信じていると。少年たちは力を持ち、好奇心にあふれ、自らを制御する仕方を知らないかもしれない。けれども彼らは学ぶことができるはずだと。
あるいは、映画に登場するもうひとりの男性、オーガスト・ウィンター演じるメルヴィンは、かつて女性として生活していたが、被害に遭ったことをきっかけに子ども以外と話さなくなった人物である。映画は簡潔にこう言う。彼は被害に遭ったことがきっかけで男性として振る舞うようになったわけではない、もともと女性を演じることが限界だったのだと。
女性たちがさまざまに言葉を交わすこの映画のなかで、トランスジェンダー男性であるメルヴィンが概ね沈黙していることは示唆的である。その沈黙は、被害に対する反応であると同時に、「女性たちの話し合い」に安易に包摂されてしまうことへの拒否のようでもあるのだ。
実際、彼の沈黙を通じて表現されるのは、変化するべきは彼ではなく、周囲のシスジェンダーの人々に他ならないということである。
オーガストとメルヴィンは、それぞれいままでとは異なる男性性の可能性を象徴している。より良い未来を夢見るために、彼らは是非とも必要だったのだ。
一枚岩ではあり得ない「女性」たち。フェミニズム史としての『ウーマン・トーキング』
それでは、どんなふうに未来を思い描けば良いだろう?
留まって戦うか、それとも去るか、という二つの選択肢に絞り、どちらを選ぶかを話し合う女性たちの姿は、論争の歴史としてのフェミニズムをまざまざ思い起こさせる。
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、望ましい未来を想像=創造しようとするフェミニズムの営みを凝縮して映し出しているとも言えるのだ。
たとえば映画のなかの女性たちは、当初は村の外の地図さえ持たないまま、それでもなお「去る」選択肢を考えざるを得なかった。加害者とともに同じ場所で暮らすことなどできないと。
そして彼女たちと同様、過去には女性だけで自給自足の村をつくり、暮らそうとしたフェミニストもいた。レズビアン分離主義フェミニストとして知られるこうした人々のなかには、女性原理に基づく豊穣な世界を夢見て実験的なコミューンをつくり出す人もあったのだ。村の外を知らないまま、それでも「去る」選択肢を検討する女性たちには、数多の女性たちの姿が重なるだろう。
あるいは、あらゆる男性を排して出発することを望む意見に反対するオーナは、分離主義を批判した過去のフェミニストのようでもある。当初のオーナは、村に留まるならば、より平等で民主的な体制へと村が変わることを望んでいた。分離主義を批判した過去のフェミニストにとっても、必要なのは個人的な解決策——女性たちが出て行くこと——ではなく、構造的変化——不平等と暴力をつくり出す構造そのものを変えること——だったのだ。
異なる立場、異なる考えを持つ女性たちの話し合いが時に不協和音を奏でる模様は、「女性」が一枚岩ではあり得ないことを物語る。その余りある複雑さは、映画のなかでは被害を受け、怒りに燃える人同士がしばしば対立する場面にとりわけ象徴されている。
発作を起こすメジャル(ミシェル・マクラウド)に対して、マリチェはなぜ皆同じように被害を受けたのにメジャルばかりが発作を起こすのか、とむしろ責め立てるのだ。あるいは、長年夫の暴力に耐えてきたマリチェに、夫を止められなかったことを責めるような言葉が発され、マリチェが苦痛を露わにする場面もある。
被害者同士で責め合うシークエンスは、現実社会で幾度となく目にするありふれた光景であり、血が滲むような生々しい痛みがある。ともにあるために、同じ傷を持っているだけでは足りない。同じ傷を持つからこそ、より一層傷つけあうことはままあるのだ。
映画はその苦しい現実を見据えている。だからこそ、自分には選択肢などなかった、と激昂するマリチェに対して、マリチェの母・グレタ(シーラ・マッカーシー)が言葉をかけるシーンは、この映画の最も重要な場面のひとつであるだろう。世代から世代へ、未来へと手渡されていく女性たちの歴史が詰まっているのだから。
#MeToo運動を経て、人々のなかには性暴力を問題視する視点が育ったと同時に、困惑も育ったかもしれない。特に男性のなかには、しばしばこんなふうに言う人がいる。以前は許されていた振る舞いが許されなくなり、世界のルールがいきなり変わってしまったようだ、と。
けれども彼らは、本当は聞き落としていただけではないだろうか? 「幽霊」「妄想」だと片付けていただけではないだろうか? 女性たちは語っている。なぜ聞かないのか?
- 作品情報
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『ウーマン・トーキング 私たちの選択』
TOHO シネマズ シャンテ、渋谷ホワイトシネクイントほか全国上映中
監督・脚本:サラ・ポーリー
原作:ミリアム・トウズ『WOMEN TALKING』
出演:
ルーニー・マーラ
クレア・フォイ
ジェシー・バックリー
ベン・ウィショー
フランシス・マクドーマンド
ほか
配給:パルコ ユニバーサル映画
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