彼女の死は防げたのではないか。韓国映画『あしたの少女』監督が向ける社会と幼き者たちへのまなざし

『あしたの少女』は、2017年1月、韓国全州市で大手通信会社のコールセンターで現場実習生として働き始めた高校生が3か月後に自ら命を絶った実際の事件に基づいている。私たちが目撃するのは、顧客からの解約を阻止することを命じられた少女が、企業、学校、家族それぞれの要望と圧力に晒されながら、資本主義の歯車にどんどん蝕まれていく姿である。

監督を務めるチョン・ジュリは、少女が継父から性的虐待を受けていることを村人や警察が見過ごしている閉鎖的な地域社会を糾弾した前作『私の少女』(2014年)に続き、8年ぶりとなる新作で企業や学校だけでなく、労働庁や教育庁といった公機関、そして警察も責任転嫁/逃れに終始し、誰もが問題があることを認知していたにも関わらず、放置していた実態を照射する。搾取や虐待を解決できたかもしれない立場にあるあらゆる大人たちが、見て見ぬふりで共犯関係を生んでしまった結果、人を死に追いやったのではないか。誰にも気にも留められずひとり耐え忍ぶ少女を注視し、彼女たちを辛苦に至らす構造の根源を探究するチョン・ジュリは、大人が社会で果たすべき役割を問い質すために映画をつくる。

昨年の『第23回東京フィルメックス』で審査員特別賞を受賞した際、彼女は「韓国社会の小さな話だと思っていた」と語ったが、定量的に業績の数字を評価する成果主義も体裁が悪いことを隠蔽する官僚主義もすべてそのまま日本でも当てはまるだろう。誰かの犠牲の上で成り立つ慰めのない社会をそれでもまだ温存させるのか──これ以上の犠牲者=「次のソヒ」(原題)をもう生み出さないために、本作は私たちに問いかける。

※本記事には映画『あしたの少女』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

コールセンターで感情労働を強いられる女性たち。ペ・ドゥナ演じる警察官に託した想いとは

─コールセンターで実習生として働くソヒ(キム・シウン)は電話の向こうの見知らぬ相手から性差別を受けます。同じく韓国映画『おひとりさま族』(2021年)でも若い女性の精神を摩耗させる仕事、非人間化させるシステムの象徴としてコールセンターが出てきたように思います。女性が多く働く感情労働であるコールセンターという職場をどのように捉えましたか。

チョン:じつは本作をつくるまで、まだ未成年の若い学生たちがコールセンターの業務をしているということさえ私は知りませんでした。過酷な感情労働をしなければならない劣悪な労働条件下で、最も脆弱な子どもたちが容赦なく勤務するしかない状況があることを知って、問題意識を持つようになりました。

コールセンターの労働者は、圧倒的に女性たちが多いのが現実です。日本の状況は詳しくわかりませんが、女性は感情労働であるこの仕事に最も適切だと雇用側が判断しているのです。多くの女性労働者が劇中と似たような状況に置かれていることを知っています。

─『私の少女』でも『あしたの少女』でもペ・ドゥナさんが警察官を演じ、少女が虐待や搾取されている実態を発見していきます。彼女に警察官を演じてもらい、その目を通して社会の大きな構造を浮かび上がらせる意図について教えてください。

チョン:当初からそのように企画していたわけではなかったのですが、いまとなっては大きな枠組みでのなかで2作を一緒に見てほしいと感じています。両作ともペ・ドゥナさんが演じる警察官の役は、よく韓国映画に出てくるような典型的な警察官とは異なります。

彼女の役は、ある職業に従事している人で、その仕事の中身がより公的である人物、と見た方が正しいと思います。ある意味、私が公職者に対して期待していることや、質問してみたいことを表現したくて、特別に警察官という仕事を選んだのかもしれません。

チョン:そしてペ・ドゥナさんだからこそ、典型的ではない警察官を見せることができたのだと思います。彼女は普通に暮らす私たちに似た姿でありながら、警察官であることに説得力を持たせることができる。ペ・ドゥナという俳優が持っている現実性が、主人公たちに投影されることで、観客はまっさらな状態で、彼女を通して、自分にもこういったことが起こり得るかもしれない、こういう感情を抱くかもしれないということを経験することができる。稀有な俳優です。

「映画を通して、公職に就いている方たちに対して、私なりの問いかけをしてみたかった」

─一方で、どちらの映画でも警察が問題を放置していたことも明らかにしています。今回は被害を追及する人物を実際のジャーナリストから警察に置き換えていますが、社会における警察の役割についてどのようなものを望んでいますか。

チョン:警察官がこんなふうに動いてくれたらどれほどよかっただろうかという気持ちを作品に反映させている部分があるかもしれません。ほとんどの警察官はそうしてくれていないという現実に対するある種の嘆きも含まれています。もし警察が意志を持って向き合ってくれていたら、いくらでも対処できたのではないか。映画を通して現実を見せながら、警察官に限らず、公職に就いている方たちに対して、私なりの問いかけをしてみたかったのです。

おっしゃる通り、実際の事件で調査したり、状況を訴えたりしたのは、警察ではなく、記者や労働活動家、遺族の方たちでした。それを映画では事件の捜査という過程に置き換えました。最初に事件現場に現れて捜査をしていく人にも同じことができたのではないかと考えたわけです。事件が起きてもなかなか解決に至らない現実があり、その絶望やもどかしさ、無力感を、彼女が演じるユジンという一人の警察官を通して、観客に同じように感じてほしいと思いました。

─そのなかで、両作ともに彼女が子どもたちに「何かあったら誰かに話して」と告げる姿が印象に残ります。そのように寄り添う大人の存在を映画で見せることを重要に感じていますか。

チョン:はい、重要だと思っています。『私の少女』のドヒも、『あしたの少女』のソヒも、まだ若く子どもです。彼女たちは、自分がいまどのような状況に置かれているのか周りに打ち明けたり、自分で状況を認識してそれを克服する何らかの努力をしたりすることが、若すぎてまだできない。そういうことを大人たちが知る必要があると思います。そして大人に限らず、社会全体がそれを認識してほしい。

現実にはなかなかそうはできないものでもあるからこそ、映画には両作とも、誰かが彼女たちの置かれている状況を知って、気づいて声をかけてあげる人がいてくれたら、という願いが投影されています。

─『あしたの少女』において、ソヒとユジンは、同じ空間、別の時間のなかで問題と向き合うことになります。本作の二部構成は、アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』(1960年)を思い出させますね。

チョン:その通りです(笑)。私は、『サイコ』やミケランジェロ・アントニオーニ『情事』(1960年)のような、前半と後半で違う様相を見せる構造の映画が好きなのです。周囲から、このような構成は観客が見慣れていないだろうし危険じゃないかと心配もされたのですが、この構成は非常に映画的な表現ができる、適した方法だと思いました。

─ソヒとユジンはダンスという接点を持ちますが、なぜそれを二人の共通項としたのでしょうか。

チョン:ユジンがダンスを習っていた設定にしたのは、二人がほんの束の間ですが、じつはすれ違っていたという状況をつくる必要があると思ったためです。というのは、もう一つの理由にもつながりますが、ユジンは、中盤から登場するもう一人の主人公になるため、観客にどういう人物か事細く説明することができない。なので、多くの説明や補足なしでも、十分に彼女が自分の人生を生きてきた人だと観客に伝えるためにダンスをしている設定にしました。

ユジンは、これまで非常に辛い人生を生きてきて疲れた状態にあるのですが、その複雑な内面も表現できると思いました。彼女は警察官で一見すると殺伐としてドライな雰囲気があり、「あの人がダンスしていたの?」とあまり想像できない部分もあると思いますが、それがまさにユジンが抱えている現実のなかでの複雑さを表してくれ、面白い設定だと思ったのです。

二人の女性をつなぐ「ダンス」という接点。踊ることは「生きていること」を表現する

─ソヒは一人でダンスの練習を繰り返しています。前作のドヒも一人でK-POPのダンスをしていましたが、彼女たちにとって、踊る行為はどのような意味を持っているのでしょうか。

チョン:私自身はダンスが特に好きなわけではないのですが、なぜ私にとって踊る姿が大事なのかを考えてみると、言葉を何ら使わずに全身を動かすことによって、その人が置かれている状況や感情を表現できるからだという気がします。身体を動かしてその瞬間に完全に没頭しているので、端的に「生きていること」を表現するものだと思います。

本作でダンスが重要だった理由は、ソヒが後に亡くなってしまうからです。オープニングとエンディングで踊っている彼女の姿を見せることで、こんなふうに断固として生きていた子がいたこと、生きていることを全身で表現していた子がいたんだけれど、もういまは死んでしまっていない──生きていたという事実と、死んでしまったという事実を同時に見せることができると思いました。

──しかし、ソヒはダンスの最後にいつも転んでしまいます。それは、新自由主義的な社会で成功が難題であることを象徴しているのでしょうか。

チョン:そこまで考えてくださったらその通りだと言いたいです(笑)。私はそこまで考えが及んでいたわけではありませんでしたが、ソヒは大好きなダンスを一生懸命に完成させたいと思っているごく平凡な女の子なので、それを表すために映し出しました。でも、映画全体から見ればそのような解釈もできるかもしれませんね。

─ユジンは最後にスマホのなかに残された動画を通して、ソヒが遂に転ばずにダンスのフィニッシュを決める姿を見ますね。

チョン:最後に彼女が上手に踊っている姿を見せることで、オープニングで見たソヒの姿を観客が思い出してくれることも期待しました。その姿だけを残したまま、彼女は世を去ってしまった。

私たちは、最初は失敗し続けていたダンスが後々できるようになった姿を見ることになります。その違いが明確になることで、観客はより無念さや切なさを抱いてくれるでしょう。それは、先ほども言ったように、ソヒは確かに実在していたのだと一瞬にして再び想起させられるからです。しかし同時に最後のダンスの姿に触れることで、いまはもういないという事実が観客の心に押し寄せ、より無念の気持ちが大きくなっていく。そして願わくばエンディングでその映像を見るユジンと同じように、涙を流す人もいるかもしれないと考えました。

韓国で高い自殺率。「これは社会全体の構造やシステムの問題」

─ユジンはソヒを「自殺」ではなく「労働災害」だと考えます。韓国では自殺が死因の上位と言われていますが、自殺の問題をどのように認識しましたか。搾取や隠蔽に加担してしまった自責の念、あるいは周囲に迷惑をかけてはならないという恐れなど、ソヒやチーム長が追い詰められる要因には「恥の文化」も感じられる気がします。

チョン:多くのさまざまな理由のために、人は自ら命を断つのだと思います。この映画におけるソヒの死は、彼女が自ら死を選んだというより、孤立が原因だったと考えています。どんなに声を上げても、どんなに助けを求めたいと願っても、なかなかそうすることはできずに状況は改善されず、孤立が深まるばかりの状態にある場合、人はもう死を選ばざるを得ないときがある。

恥の文化についてですが、おそらくソヒは周りではなく自分のせいだというふうに思い詰めてしまった。そのような自分を責めてしまう傾向は、韓国社会独特の文化というより、社会全体の構造やシステムの問題だと思います。個人がなかなか全体の問題として認識したり、構造を批判したりすることができず、その結果、こういった状況を打開できない自分のせいだと罪悪感を抱いて、自分自身を仕方なく責めるようになってしまう。これは社会的な問題であり、社会の側から問題を見つめ直す必要があると思います。

─そのような状況を生む職業訓練プログラムの背後にある構造的な問題を暴きながら、長時間労働と成果主義の圧力に人が蝕まれていく姿を告発する姿勢は、英国の名匠ケン・ローチも彷彿とさせます。簡単な答えを提示せず、むしろ憤りの感情に観客の身を置かせることで、物語を現実にまで広げて向き合あわせようとするかのようです。

チョン:本作の公開後、申し訳なく恥ずかしくなってしまうぐらいその名前を出していただくのですが、もちろんケン・ローチ監督は大好きです。特に本作は、実話からすべてが出発したので、おっしゃる通り、現実的であることが最も重要でした。最後まで現実性を手放さないことで、扱っている事件や主人公の感情を観客も現実のものとして受け止めてくれると考えました。そうして初めて映画として具現化され、架空の物語で架空の人物であっても、ささやかながら力をもって、その後もずっと観客の心のなかで生き続けてくれる。そう信じています。

「私が関心を持っているのは、女性主人公が引っ張っていく物語。そういう意味で、当然、私はフェミニスト女性監督だと思います」

─前作でも今作でも社会構造全体に存在する体系的な性差別を暴き出しています。家父長制に抑圧された女性たちのつながり、あるいはそのなかで彼女たちが受ける被害者非難に目を向けていますが、これらはあなたの映画に不可欠なテーマでしょうか。ご自身の映画をフェミニスト映画と認識していますか。

チョン:映画をつくるときにあえてそういった状況を意識しているわけではありませんが、結果的に入っていると思います。私が映画をつくる最大の動機は、ある状況に置かれた主人公たちが経験する感情を描くこと。感情が最も大切で、それを表現するためにさまざまな状況や条件をつくり上げていきます。

例えば、『私の少女』の場合には、二人の女性のある種の孤独という感情を集中的に扱ったのに対して、『あしたの少女』の場合は、それをさらに深化させ、孤独が肥大して孤立に至る状況を描写しようとしました。私は、映画に登場する人物の感情や出来事のすべてをあくまでも現実的に描きたい。現実のなかで実際に女性が経験するような状況や条件にはどんなものがあるのか、それに伴って彼女たちはどんな感情を抱くのかということを大切に考えて、リアリティを重視することに心を傾けています。それは、私自身のある種の現実認識が基盤になっています。

チョン:また、韓国社会において女性がどのような構造のなかで差別を受けているのか、またどのような不条理な状況に置かれているのかということを現実意識に照らし合わせて考えているため、映画にもそれが結果的に反映されているのだと思います。私は女性作家なので、女性の立場から物語を身近なものとして表現することができると思う。私が関心を持っているのは、女性主人公が引っ張っていく物語です。そういう意味で、当然、私はフェミニスト女性監督だと思います。

本作公開後に国会本会議を通過した「次のソヒ防止法」。映画が世論を動かす

─本作の影響で現場実習生の保護を求める世論が高まり、今年3月に業者側の責務を強化する「職業教育訓練促進法」の改正案、通称「次のソヒ防止法」が国会本会議で議決されたそうですね。一方で、韓国政府が労働時間の上限を現在の週52時間から69時間まで延長する計画も公表されました。映画公開後の韓国社会の動きをどう見ていますか。

チョン:本作の公開後、「次のソヒ防止法」という通称で呼ばれた一つの法案が国会を通過したことには、非常に嬉しい気持ちがある一方、複雑な気持ちもありました。

じつは、この法案は、この映画によってつくられたものではありません。ソヒのモデルとなった方が亡くなったのが2017年でしたが、その後、2021年10月にも現場実習生が死亡する事件がありました。そのときにも全国的に話題になり、国民が怒り、法案が発議されました。しかし、一時期は関心が高まるのですが、すぐに人々の気持ちが離れてしまう。その法案はずっと国会を通過できず、きちんと議論もなされず保留されたまま、消滅の危機に瀕していました。

しかし、本作が公開されたときに、まるでこれが最後のチャンスだと言わんばかりにある国会議員が「次のソヒ防止法」という名前をつけて国会に再提起したことで、ようやく幸いにも与野党の合意を得て可決に至りました。現在に至るまで、継続してこういった問題に対して批判的な意見を提起したり、問題意識を持って動いている人たちがいます。先日、それまで散在していた80余りの団体が一致団結して、問題解決のために努力をしていこうと公式に一つの団体を発足させるという動きもありました。過去のように何か問題が起きるたびに一時的に話題になって終わるのではなく、今後、根本的な論議が続くことを願っています。本作によってその土台を整える一翼を担うことができたことを誇りに思っています。

─「トガニ法」(『トガニ 幼き瞳の告発』(2011)公開後、障害者や児童への性暴力を厳罰化し、時効の撤廃を定めた改正案が制定された)など韓国では映画が世論を動かす政治的な力を持っているように感じます。なぜ韓国ではそのような動きが巻き起こると思われますか。

チョン:あくまでも個人的な意見ですが、私が思うに、韓国社会はすべてにおいて政治的です。韓国の人たちは日常の領域でも何か起きると、いつも政治的に受け止めたり、政治的に問題化したりすることに慣れているのです。韓国社会は変化も非常に早く、変化のたびに誰がどのように利益を得るのかということを政治的に分析する傾向が大きいと思います。なので何か問題が起きると、つねに社会的な問題として捉えて、政治的に見て対応したり、解決しようとしたりするのではないかと個人的には感じます。

─本作では労働環境の問題が扱われていますが、韓国では#MeToo運動の広がり以降、韓国映画・ジェンダー平等センターという機関ができたそうですね。最後に韓国映画界の現状について聞かせてください。

チョン:前作を撮った10年前と現在を比べると、随分よくなったのは事実です。それには2017年以降の#MeToo運動が重要な役割を果たしています。ジェンダー平等センターができて、現場にも積極的に働きかけてくれているので、何かあれば依頼をして助けを得ることができるようになりました。

そういった一連の変化や流れを見ると、映画界に限らず社会全般でも制度がまず整備されることが重要だと感じます。それが後から現実を導いていってくれる。そのように意識的に制度を整えて、現実を変えていく努力が今後も続いてほしいと願っています。

『あしたの少女』予告編

作品情報
『あしたの少女』

2023年8月25日(金)からシネマート新宿ほか全国公開
監督・脚本:チョン・ジュリ
出演:
ペ・ドゥナ
キム・シウン
チョン・フェリン
カン・ヒョンオ
パク・ウヨン
チョン・スハ
シム・ヒソプ
チェ・ヒジン
配給:ライツキューブ
プロフィール
チョン・ジュリ

1980年、韓国麗水市生まれ。成均館大学校映像学科を卒業後、映像メディア全般の学問的な特性を研究するなかで自然と映画に出会う。韓国芸術総合学校に入学し、映画を専攻した。その後、2007 年に『わたしのフラッシュの中に入ってきた犬』、2010 年に『影響の下にいる男』と 2 本の短編映画を発表。2014 年には、初長編監督作品『私の少女』が、第 67 回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門に出品され、多くの海外メディアから関心を集める。



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