『ヒロアカ』は徹底して「社会」を描いてきた。「ヒーロー」の存在に向き合い続けた物語の完結によせて

メイン画像:© 2024 「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE」製作委員会 © 堀越耕平/集英社

漫画『僕のヒーローアカデミア』が、2024年8月5日発売の『週刊少年ジャンプ』で完結した。

約10年にもわたって、同雑誌で連載された本作。長い間を作品とともに過ごしてきた読者は、その熱が冷めやらないどころか、完結した物語を身のうちでさらに温めている最中かもしれない。本作に熱い思いを寄せる読者の一人で、映画・アニメ・ドラマを中心に執筆するライターのSYOさんに『ヒロアカ』の物語を振り返るコラムを寄稿してもらった。

SYOさんは本作について、「ヒーロー×異能力×学園」という漫画の王道を進むように見えながら、徹底したリアリズムで「社会」を見つめ、描いてきたと評する。免許制であり職業として設定されたヒーローをどう捉えるか? 本作における「ヴィラン」とは何だったのか? 本作が一貫して描いてきたテーマを紐解く。 

※本稿は作品のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。

少年漫画の「王道」? 徹底して「社会」を描き続けた

堀越耕平の漫画『僕のヒーローアカデミア』が、2024年8月5日発売の同雑誌にて完結した(全430話)。同作は、2014年7月7日発売の週刊少年ジャンプで連載をスタート。10年にも及ぶ「最高のヒーローになるまでの物語」は、国内はもちろん海外でも圧倒的な人気を博し、完結のタイミングで「The New York Times」に広告が掲載され、全世界人気投票企画が発表されるなど、ワールドワイドな盛り上がりを見せている(ちなみに『ヒロアカ』は2024年4月4日に発売された第40巻をもって世界累計発行部数1億部を突破。その内訳はデジタル版を含めて国内6000万部以上・海外4000万部以上と海外人気が非常に高い)。

最終第42巻は12月発売予定、テレビアニメ7期と劇場版第4作が放送・公開中であり、来夏には大規模な原画展も控えているなど、この先も熱が衰えそうにない『ヒロアカ』。本稿ではその物語の歩みと作品の「個性」を改めて振り返りたい。

まずもって『僕のヒーローアカデミア』は、少年漫画の人気ジャンル「異能力バトルもの」と「学園もの」を掛け合わせ、そこにアメコミテイストを注入した作品だ。そのため「王道」というパブリックイメージが強いのだが、じつは第1話から徹底してシビアかつリアルに「社会」を描き続けている。

この特徴について語る前に、『ヒロアカ』の前身であり“原点(オリジン)”である読切作品『僕のヒーロー』(2008年)を振り返りたい。同作は、怪人とヒーローが日常に存在する世界が舞台。ヒーローは免許制であり、厳しい体力訓練をパスした者だけが「職業」として名乗ることを許される。病弱でヒーローになれない主人公・緑谷弱はヒーローの活動をサポートするアイテムを製造・販売する会社の営業マンとして勤務しつつ、夜な夜な無免許で自警活動にいそしむ——という物語が展開するのだ。

この設定はのちの『ヒロアカ』にも受け継がれ、世界総人口の約8割が特異体質「個性」を宿した社会で、法と秩序を守る国家公認の職業「プロヒーロー」が台頭した、というものに進化。混乱を避けるため、この世界の住人は基本的には「個性」の使用を制限されており、出生したタイミングで「個性届」の申請が必要であるなど、法によって管理されている。

そんななかで、主人公の中学生・緑谷出久はヒーロー養成校の最難関・雄英高校に入学し、同級生と切磋琢磨しながらプロを目指して勉学に励んでいく。ヒーローの活動内容は「ヴィラン」と呼ばれる犯罪者の退治に留まらず、災害救助や芸能活動と多岐にわたり、雄英高校には「ヒーロー科」「普通科」「経営科」「サポート科」がある。コスチュームやサポートアイテムを開発したり、マネジメントを学んだりと、専門知識や技能を習得できる。

これらは一端の説明に過ぎないが、『ヒロアカ』が「異能力が発現した場合、社会はどうなるか」を細やかに設定していることがわかるだろう。バトルにしたって、ヒーロー候補生はただ戦闘術を学ぶのではなく「被害を最小限に抑えるため、周辺の住民は当然ながら建物等を破壊しない戦い方」や「人々を安心させられる振る舞い」を求められる。劇中に「ヒーローは守るものが多い」というセリフが登場するが、本作はヴィランとの大迫力のバトルシーンであっても、人命を優先し、被害を最小限にするという意識が行き届いている。

「死穢八斎會」編での治崎、2度にわたる死柄木との決戦で出久は空中戦を選ぶ。その理由は近隣住民や仲間、建物を巻き込まないため。社会の治安と秩序を守るのが、ヒーローの役目だからだ。「目の前の敵を倒す」だけでなく「被害を出さない」ことまで考慮したバトル漫画は、国内の漫画史においても極めて異端といっていいだろう。一方で、スーパーヒーローの戦いによる二次被害を追及した映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年)、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)などとのリンクを感じられるつくりになっており、『ヒロアカ』の海外人気の高さも頷ける。

社会が成したヴィランの存在と、対話を試みる主人公たち

この「社会」というキーワードは、設定だけでなく「ヒーローとは何か」という大きなテーマ、さらには「偏見や差別」「対話と相互理解」という内容にまで踏み込み、最終話付近で描かれた「憎しみの連鎖をどこで断ち切るのか」「真に平和な社会とは」という命題に帰結していく。

そのフックとなるのが、『ヒロアカ』におけるヴィランの存在だ。「世界中の未来を阻みたい」という野望を持ったオール・フォー・ワンや、破壊衝動を抑えられず「血と闘争」に生きるマスキュラーなどの極悪人は登場するが、本作におけるヴィランは「社会から孤立した結果、暴走してしまった」側面が強い。

ヒーローに憧れていたのに周囲の大人によってねじ曲げられた結果として生まれた死柄木や荼毘、愛情表現が他者を傷つけるものだったために誰にも理解されなかったトガ、異形の個性ゆえに迫害されたスピナーら——表面的な善悪二元論ではなく、突如発現してしまった「個性」に振り回される被害者として描かれるのだ。

そのため、出久や同級生のお茶子たちは、死柄木やトガらヴィランの凶行を止めようとするだけでなく、根本的な部分――なぜそうなってしまったのか、どうしたら止められるのかを考え、戦いの中で何度も「対話」を試みてゆく。

マスキュラーとの再戦時に出久がつぶやく「戦うことには変わりない…でもせめて心の奥底を」や、オール・フォー・ワンに人格を乗っ取られた死柄木にかける「泣いていた君を見なかった事にはしない」、お茶子からトガへの「ただ触れたい あなたの中にある悲しみに」「教えて…思った事…思ってきた事…全部!」などなど、ただ「戦う」だけではない対話のドラマが徹底して掘り下げられるのだ。その結果、バトル漫画の定石ともいえる「敵を一人倒しても、さらなる強敵が現れる」インフレを破壊する展開に最終的に向かっていくのが興味深い。

かつてはプロヒーローだったが、ヴィランに身をやつしたレディ・ナガンは、出久について「あいつは心をこじ開けるんだ 悪人にとって一番嫌な事をしてくるんだよ」と評する。「その面があまりに必死なもんだからついつい応援したくなっちまう」のだと。

もともと出久は個性を持たない「無個性」として生まれ、超常社会の中でマイノリティとして肩身の狭い思いをしてきた。 “平和の象徴”であるNo.1ヒーローのオールマイトは、出久が自らの危険を顧みずに同級生の爆豪をヴィランから救おうとした姿に胸を打たれ、自らの後継者として育成しようとするのが『ヒロアカ』冒頭のストーリーラインだ。そのあとオールマイトは、宿敵オール・フォー・ワンとの死闘で力を使い果たし、事実上の引退状態となる。象徴の不在によって世の中に不安が広がるなか、死柄木たちが台頭してさらなる混乱が訪れてしまう。

つまり、ヒーローたちには目下「死柄木たちを止める」というミッションがあるものの、倒したとて課題はまだ残っている。オールマイトという拠り所を失った状況で「みんなが笑って暮らせる世の中」は実現しないからだ。

では出久が2代目オールマイトを襲名するかといえば、本作はその結末を辿らない。彼は死柄木/オール・フォー・ワンとの最終決戦で個性を失ってしまうのだ。その代わりに、先に述べたレディ・ナガンの言葉に象徴されるように――彼の必死な姿を目撃した皆の心に勇気の灯がともされていく。「僕が最高のヒーローになるまでの物語」から「皆が最高のヒーローになるまでの物語」への変化――出久に薫陶を受けた各々が隣人愛を発揮し、他者に手を差し伸べることで孤立をなくし、社会全体からヴィランの存在自体を大幅に減少させていくのだ。

エピローグに宿るテーマ。戦いのあとの社会の歩み

長きにわたる戦いが決着した数日後を描く第424話が掲載された『週刊少年ジャンプ』の巻末コメントで、堀越は「結は短くが基本ですが倒してお終いができない漫画なのでもうしばし。タイトルに戻って」と書いた。かつ、劇中では「子どもの頃は戦いが終われば世界は自動的に平和になると思ってた けれど僕らの物語は終われない 戦いのあと僕らが明るい未来を示せるまで」という出久のモノローグが挿入され、第424話から最終話となる第430話まで、じつに単行本1巻弱のボリュームを費やして「明るい未来を示す」取り組みが描かれていく。

「教科書に載る戦いの後には必ず教科書に載らない混乱がある」との言葉を胸に、復旧活動に加えて治安悪化防止のために全国を回る姿が描かれたり、出久が生き残ったスピナーに死柄木の遺言を伝えたり、テレビでは「死柄木弔とはなんだったのか」という討論番組が放送されたりと「その後の社会の歩み」がさまざまな側面から映し出されるのだ。倒してお終いにしない――これもまた、従来の長期連載のバトル漫画とは一線を画す『ヒロアカ』の特徴であり功績といえるだろう。

本作のエピローグにおいて2つ、象徴的なシーンがある。

1つは、出久とスピナー、そしてお茶子の対話。スピナーは出久に吐き捨てる。「おまえたちはこれからも戦い続けるんだろう? そしていずれ死柄木弔も敵連合も忘れて笑うんだろう」と。それに対して出久は「心配しなくていいよ。一生忘れない」。また、皆に心配をかけまいと明るく振る舞っていたお茶子が出久の前で「ヒミコちゃん私のせいで死んじゃった」「もっと子どもの時に会えてたら違ったかなぁ!?」とトガの死を引きずっている姿も描かれ、戦いを終えても心の傷は残り続けるさまが示される。そもそも『ヒロアカ』は歴戦で負った傷を消さない(出久をはじめ、戦うほどに各キャラクターの傷が増えていく)という堀越のこだわりがあるが、徹頭徹尾リアリティをないがしろにしない。

もう1つは、最終決戦の裏で起こっていた出来事。家族から虐待を受け監禁されていた少年が脱出を成功させるのだが、大変な目に遭ったはずの皆が痛みを受け入れて笑っていたことで「何で 僕だけ こんなに‼」と暴走しかけてしまう。その際に声をかけるのはヒーローでなく、通行人の老婆。オールマイトの名ゼリフをもじった「もう大丈夫だからね “おばあちゃんが来た”からね」の言葉で少年は落ち着き、ヴィラン化しなかった――という顛末が描かれる。ちなみにこの老婆は街で見かけた少年時代の死柄木に対して手を差し伸べきれなかった悔恨を抱えており、かたちは違えど報われた格好となる。そして8年後を描く最終話ではその少年が雄英高校の生徒になった姿が確認でき、「ヴィラン発生率が激減してヒーローも少数精鋭化した」未来が映し出され、終幕を迎える。

従来のバトル漫画は「新たな敵が出現し、さらなる戦いに向かう」姿でフィナーレを迎えることも少なくない。しかし『ヒロアカ』はその可能性をにおわせたうえで、一市民がその芽を摘み取る解答を示す。ヴィランを単なる悪役という「装置」でなく、何らかの事情で道を分かたれてしまった「人間」として捉えているからこそだろう。

一方で、出久と塚内刑事の「どうすればこんな事なくなるんでしょう」「なくならんよ」との対話にある通り、根絶することはできないという現実も直視する。出久によって社会が良い方向に向かったのは間違いないが、人が人であり続ける限り、衝突は生まれてしまうもの。ゆえに、「形質差別をなくす」活動や、「個性カウンセリング拡張計画(個性による悩みを打ち明けられる機会を増やす)」など、よりよい社会に向かうための継続的な行動が描かれていく。

『僕のヒーローアカデミア』は「皆といつまでも いつまでも 手を差し伸べ続ける物語」という出久のモノローグで締めくくられる。対話を諦めず、理解を諦めず、他者に手を差し伸べ続ける存在——。10年間「ヒーロー」という存在に向き合い続けた同作がたどり着いた定義は、あまりにも美しく、どこまでも愚直。出久/デクの由来となった宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の精神を背負い、更に向こうへ(PLUS ULTRA)と向かう傑作として、この先も語り継がれ、次代へと紡がれていくことだろう。

作品情報
『僕のヒーローアカデミア』
著者:堀越耕平
発行:集英社
作品情報
『僕のヒーローアカデミアTHE MOVIE ユアネクスト』
2024年8月2日(金)公開

原作・総監修・キャラクター原案:堀越耕平(集英社「週刊少年ジャンプ」連載)
監督:岡村天斎

© 2024 「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE」製作委員会 © 堀越耕平/集英社


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