大前粟生は映画『ドリーム・シナリオ』をどう見たか。A24×アリ・アスターが示す「普通」ゆえの恐怖

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「私は差別主義者ではない」「日常生活で、誰のことも不快にせず、恐怖を与えていない」。こう言い切れる人がどれだけいるだろうか。知識を持ち、あらゆる人に対して無害であろうと努力すればするほど、「無意識の加害の可能性」が見えてくる。

ある平凡な男性が、多くの人の夢に現れる。始めは何もせず、ただ夢のなかにいるだけだったが、やがて暴力や性加害に及ぶようになる。実在の男性は、夢のなかの自分に翻弄され、人生そのものが変わっていく。11月22日に劇場公開された『ドリーム・シナリオ』は、加害性への潜在的恐怖をグロテスクに浮かび上がらせる。A24&アリ・アスターが製作、監督を務めるのは『シック・オブ・マイセルフ』(2022年)でSNS社会の承認欲求を描いたクリストファー・ボルグリだ。

鑑賞中に浮かび上がってくる「気まずさ」、自身のことを言い当てられたかのような居心地の悪さから、なにを学びとるべきか。1980年代からハリウッド映画界の最前線に立ち、時代ごとの「男らしさ」「男性の悲哀」を演じてきたニコラス・ケイジが本作で主演を務める意味とは。小説『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)、『物語じゃないただの傷』(『文藝』2024年冬季号掲載 / 河出書房新社)などで「有害な男性性」に向き合ってきた作家・大前粟生が、本作を読み解いていく。

映画『ドリーム・シナリオ』予告編

※本記事には映画『ドリーム・シナリオ』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

「普通の男性」が内包する「恐怖」。主人公・ポールはなぜ夢に現れ、キャンセルされるに至ったか?

ニコラス・ケイジ演じるポール・マシューズは「どこにでもいる男性」だ。だからこそ誰もの夢に現れるようになったのかもしれない。

ポールは20年以上大学教授を続けある程度の地位を確保しているが、周囲からは軽んじられている。授業では学生たちから白けた態度を取られ、大学の友人が開催するディナーパーティーには「つまらないやつ」とされ招待されたことがない。妻のジャネットとは舞台を見に行くなどある程度良好な関係を保った中年夫婦として落ち着いた時間を過ごしているが、2人の娘とのコミュニケーションはうまくいっているわけではない。周囲には目標や夢として「本を書く」と言っているが、出版社も決まっていないし、そもそも書き始めてすらいない。実行しない、ということがポールにとってなによりも大切なことなのだろう。

目標に向かって努力せず、「明日から本気出す」状態の自分で居続けることで、夢が叶わない未来がくるという挫折をあらかじめ防ぐことができる。「自分は本当は本を書くべき人間なのに」といまのこの人生への言い訳を持ち続けることで、なけなしのプライドを保ち続けていられるのだ。

平凡で良識的ではあるのだが、理想の男性像のようなものを持っていてことあるごとに見栄を張ってしまうポールは、「普通の男性」や、うだつの上がらない「おじさん」像を担わされていると言っていいだろう。

そのようにイメージとして思い浮かべやすい人物だからこそ、ポールは誰も彼もの夢に現れるようになったのではないか。ある日ポールがSNSをチェックすると、「どうして夢に出てくるんだ」との問い合わせが殺到していた。誰の夢のなかでもポールは、ただ立ってこちらを見ているだけだという。

一体どうして? どうして自分が他人の夢に? しかも、なにもしないだなんて。ポール自身にも理由はわからない。見知らぬ人々の夢に出まくるなんて不気味な事態であるはずだ。けれどポールは、ただ大量のまなざしを向けられていることそのものによって、自分がひとかどの人物になったと思い込む。実際、ニュース番組に出てからのポールの評判はうなぎのぼりだ。「バズった」人物として学生たちから好かれ、娘からも関心を抱かれるし、広告代理店からインフルエンサーとして声をかけられる。

一躍人気者の日々を過ごすポールだったが、彼にとってのあるショッキングな出来事とタイミングを同じくして、周囲からの評判は一変してしまう。どういうわけか、人々の夢のなかでポールはもはやなにもしない男ではなく、加害者として暴力行為に及ぶようになってしまったのだ。

そのせいでポールの評判は地に落ち、まるで現実の彼自身が加害をしたかのような目で見られるようになる。学生たちの手によって車にLOSER(負け犬)と落書きされ、「あなたがいるとほかの客が怖がるから」とダイナーからは追い出され、しかもぼこぼこに殴られ、娘の学校での劇には保護者たちが不安を抱くからと出席を拒否される。

妻との関係も悪くなり別居するのだが、頼りにした友人の家では埃っぽい地下室をあてがわれる。彼はあらゆる場所からキャンセルされてしまうのだ。ポールは夢のなかで暴力を振るうが、彼は評判という名の「数の暴力」を受けている。

この映画は一貫してイメージが現実を覆ってしまう様を描いている。夢に出始めた当初のポールは、なにもしない、なにが起きても素知らぬ顔をしているただ「傍観者」としての「普通の男性」だった。しかし、注目の的になってしまった彼がやがて夢のなかで体現することになるのは、「普通の男性」への恐怖だろう。

ポールは夢のなかで拷問、殺人、性加害などを行なうようになるのだが、それは思うに、「普通の男性」がなにかするかもしれない、危害を加えてくるかもしれない、という人々のイメージによってではないだろうか。

想像してみてほしい。中年の男性が、ただ立ってこちらをじっと見ている。その時間が続くところを。彼がなにをしたというわけでもないのに、なにかが起きるのではないかという不安に駆られはしないだろうか。そうした不安が積み重なることで、夢のなかでの加害へと変貌していったのではないか。

気の毒な話だ。夢でポールに襲われた人たちも、ポールも。現実のポールはなにもしていない。ただひそかに「男としてこうありたい」とささやかな理想像を掲げてきただけだ。けれどその「男として」というイメージが、ポールというどこにでもいる中年男性と周囲とでは、決定的に違ってしまっていたのだろう。

ポールはおそらく、甲斐性のある男性だったり、よい父親、よい家長でいたいのだ。それがポールにとっての理想の男性像なのだが、#metooやポリティカル・コレクトネス以後を生きる周囲にとってはそうではない。

画と演技に散りばめられた、映画という「夢」に観客を引き込む仕掛け

イメージ通りの人物であるがゆえに評判がすべてという資本主義的な価値観に巻き込まれたポールだが、そんな彼の炎上状態はおかしなルートで収束する。

どうしても娘の舞台を観たいポールは学校に乗り込むことにした。その際に劇場の扉付近で女性教師と言い争いになる。扉を押したり引いたりとどちらも譲らないのだが、その拍子に教師の手がドアに挟まって彼女は怪我をしてしまう。彼女はこう叫ぶ。「He attacked me!」この事件以後、やはり突然に、ポールは人々の夢には現れなくなる。

どういうことか考えてみたい。現実での加害事件が、ポールという男のイメージよりも広がりを持たない出来事であったことは見過ごせない。怪我をさせた、という噂が広まっても、それは夢のなかでポールが行なってきたことと比べると大したことはないし、世間にとって誰かの評判の上がり下がりは、それが事実かどうかということとは関係がない。どれほどインパクトがあり、いかに感情を動かされるか、ということが重要なのだ。

現実において相手の手を怪我させる程度の事故の当事者となり、言うなれば加害者として「スケールダウン」してしまったポールは、それ以降人々の夢に現れなくなる。悪人としてポールの夢を見ていた人々は、身も蓋もなく言えば彼の「しょぼさ」に目が覚めたのではないだろうか。

事態が収束してからのポールは、「少し前に有名だった人」くらいの立場に落ち着く。それでも評判を回復するほどには至らず、休職し、妻とも別れたポールは代理店の人間とともに出版ツアーとしてフランスを回ることとなる。そう、かねてからの夢であった本が出たのだ!

しかし、おそらくはろくに本人のチェックも経ずに刊行されたと思われるその本は、ポールの望むようなものではなかった。薄く、陰気で、タイトルに至っては彼が希望した『ドリーム・シナリオ』ではなく『悪夢の男』。けれど、どんなかたちであれ本は出てしまった。夢を叶えたポールはもう、見栄や「本当のオレはこんなはずじゃないのに」というバリアをなくし、自らと向き合うしかなくなっていく。彼は身の程を知ったのだ。しかしそれは、ポールのこれからの人生にとっては希望なのではないか。少なくとも筆者にはそう思える。

さて、理想像に縋れなくなり、1人の個人として立っていくしかなくなったポールは、妻の夢に出ようとする。これまでポールは、イメージとしてではなく彼のありのままを見抜いているジャネットの夢だけには出ることがなかったのだ。

ポールは、「ノリオ」という夢旅行ができるSF的なデバイス(ポールが夢に出る騒動がきっかけで、他人の夢に入って広告として商品を宣伝するためにインフルエンサー向けにつくられた)を使って、妻の夢に出現する。ポールは火炙りになっているジャネットを救い出し、夜明けの路上でロマンチックに踊る。ポールが着ているジャケットは極端に肩幅が広く、どこか滑稽な男性性をポールが身にまとっているということが可視化されているのだろうか。

ジャネットはやはりそのことに特別なにかを感じているようではない。ずっとずっと、ポールのことを身の丈に合わないジャケットを着ているような人として見てきて、そのような人として愛してきたということだろう(中盤でジャネットがごく軽い感じで電話越しに言う、「アピールしなくても愛してる」という台詞は胸を打つ。ジャネットにはそれは強調するほどでもない当たり前のことだったのだ)。

ポールはジャネットの愛を、「理想像」という憑きものが落ちてようやく実感する。だが、もう遅い。ここは夢のなかなのだ。

ジェンダーイメージ、評判や世間の残酷さ、ある平凡な男の自己実現(または意味のある失敗)とすでにそこにあったはずの愛に気づくまでの物語、と筆者はいくつかテーマを読み取ったのだが、この映画の周到なところは、画のおもしろさが前面に押し出され、どのような意味解釈もあくまで読み取ることができる、というレベルに留めてあることだ。つまりはこの映画全体がイメージを、夢を見るようなものであり、ポールを演じるニコラス・ケイジやジャネットを演じるジャリアンヌ・ニコルソンの名演がそこに解釈の余地をつくってくれている。

たとえば物語序盤、まだ夢の騒動が起こる前のシーン。ポールは「あなたのこと最近何度も夢に見る」と自分に気があるのではないかと思わせてきた元恋人とお茶をすることになる。ポールは「男として」のひそかな期待と優越感を持って出向くのだが、じつは元恋人は単に夢のことを雑誌の連載に書いてもいいかと許可を取るために呼び出しただけだった。その際のニコラス・ケイジの演技は素晴らしい。プライドを傷つけられた––––しかも相手は自分が夢見た書き仕事をしている!––––ことをうっすらと仄めかすために、口を何度か開くだけでなにか言いそうで言わずに言葉を呑み込むのだ。なにかがある、と思わせるような名シーンの連続は観客を映画という夢のなかに誘う。

あらゆる立場の人が不安に駆られる時代だからこそ見るべき作品だ。

作品情報
『ドリーム・シナリオ』

2024年11⽉22⽇(⾦)新宿ピカデリーほか全国公開
監督・脚本:クリストファー・ボルグリ
出演:ニコラス・ケイジ、リリー・バード、ジュリアンヌ・ニコルソン、ジェシカ・クレメント、マイケル・セラ ほか
配給:クロックワークス
© 2023 PAULTERGEIST PICTURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED
プロフィール
大前粟生
大前粟生 (おおまえ あお)

小説家。1992年、兵庫県生まれ。2016年に『彼女をバスタブに入れて燃やす』が「GRANTA JAPAN with 早稲田文学」の公募プロジェクトで最優秀作品として選出され、デビュー。著書に『回転草』『私と鰐と妹の部屋』『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』『おもろい以外いらんねん』『きみだからさびしい』『死んでいる私と、私みたいな人たちの声』などがある。



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