「東京のサグラダ・ファミリア」三田の蟻鱒鳶ル、完成へ。建築家・岡啓輔が笑顔で語る奇跡のような20年

2024年10月、東京、三田。東京タワーにほど近い聖坂の一角にて、蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)がついにその全貌を現した。蟻鱒鳶ルとは、建築家の岡啓輔によって、20年間にわたりセルフビルド(設計から施工まで自分自身で行なうこと)でつくられた、異形の建築物だ。

「東京のサグラダ・ファミリア」と呼ばれ、永遠に完成しないかと思われたこの建築も、竣工まであと一歩となった。これから約1年は、都市再開発との兼ね合いで10メートルほど曳屋(建物を解体せずに移動する工法)を実施。そののち、さらに手を加えてから完成する見通しだという。

きわめて装飾的で、人間の根源的なエネルギーに溢れた建造物が、東京のど真ん中に屹立しているさまに、ただただ圧倒されてしまう。では、そんな唯一無二の建築は、一体どんな目的で、どんな手法で、そしてどんな想いでつくられてきたのだろうか? いまだ普請の音が響く蟻鱒鳶ルのなか、「三田のガウディ」こと岡啓輔に話を聞いた。

原点には、図面と同じ建物が立ち現れることへの疑問。「考える」「つくる」の両立がセルフビルドだった

―岡さんがこの建物をつくり始めたきっかけを教えてください。まず、セルフビルドで建てようと考えたのはなぜだったのでしょう?

岡啓輔(以下、岡):建築を学んでいた学生時代から、描いた図面と全く同じ建物が立ち現れることに疑問を持っていました。図面と実物が寸分違わず同じであれば、いい施工だと褒められる。でもどこかおかしいんじゃないか。建築というものには、現場の職人さんを含め、たくさんのつくり手がたずさわっているのに、どうして設計者の意思だけが反映されるのか。建築って、なんだか全然豊かじゃないなと思ってたんです。

ただ、モダニズム以降は「現場で誰がつくったかなんて関係ない」「誰がつくっても同じようにできるものじゃないといけない」という考えが主流。実際、設計者は施工者に会ったこともないし、施工者も設計者なんて「ああ、立派な先生ね」くらいの感覚しかない。この距離の遠さが問題なんです。それなら逆に、距離を近づけることでなにかが起こるんじゃないか。それで「考えること」と「つくること」を両方やろうと思い、セルフビルドという手法を選びました。

―蟻鱒鳶ルは即興的なつくり方をしているそうですが、全体像のイメージはもともと頭にあったのでしょうか。

岡:2000年にこの土地を買ったんですが、その頃はまだ「普通の四角い建築になるのかな」程度のボンヤリした考えでした。そんなとき、僕が尊敬する建築家の石山修武さんからワークショップのお誘いが来たんです。テーマは「都市住宅を考える」。なんてタイミングがいいんだと、ビビりながら参加しました。朝から晩まで、2週間のワークショップで、講師陣は安藤忠雄さんや磯崎新さんなど、石山さんが全力で集めたすごいメンバー。周りの参加者も意識の高い人たちでした。

2日目に突然「自分が本気でつくりたい住宅を設計してプレゼンする」という課題が出た。そのときに蟻鱒鳶ルの原型みたいな4枚の絵を描き、「何かの完成である。と同時に次への舞台である」という言葉を添えて発表しました。全員のプレゼンが終わると、石山さんがこう言うんです。「君たちのレベルは大体わかった。このなかに一人だけ価値のある絵を描けている男がいる。それが岡だ」

―蟻鱒鳶ルのプロトタイプを提示して、石山修武さんに大絶賛をもらったわけですね。

岡:でも、最終日にまたプレゼンをしたところ、今度は石山さんからボロクソに怒られました。「すごく期待してたのに、全然ダメじゃないか!」と。いま思えば最初のプレゼンでは、恐ろしい石山さんになんとか褒められたい一心で、実現する可能性をすっ飛ばした理想的な絵を描いた。一方で最後の発表では、土地もあるし着工もしなきゃならなかったから、どこか現実的なプランに落とし込んでしまった。おそらくそれがおもしろくなかった。

みんなが打ち上げパーティーをするなか教室の隅でしくしく泣いてたら、建築家の難波和彦さんという優しい先生が声をかけてくれました。「君の今日のプレゼン、もし点数をつけるなら、僕は100点満点で130点あげたい。ただね、君の最初の発表や、この2週間話していたことは、1000点満点くらいの問題意識なんだ。この落差がわかるかい?」「わかりません」ってまた泣いて(笑)。その「1000点満点の問題意識」がなんなのかよくわからないまま、とにかく着工しました。

コンクリートは、200年もつという独自製法。「踊るように」装飾を楽しむ

岡:ただ、蟻鱒鳶ルをつくりながら少しずつわかってきたことがあります。一つは、なにより楽しむこと。そのワークショップでは、建築史家である鈴木博之さんの講義もあった。そのなかで、「楽しんでつくったものは美しい。嫌々ながらつくったものは美しくない」という、美術評論家のジョン・ラスキンの言葉を教わったんです。それを聞いたとき「そんなバカな」「それなら誰も苦労しないよ」と思ったけど、だんだん「あの言葉は本物だ」「ラスキンの言葉を信じて進むぞ」と感じるようになりました。

―楽しみながらつくることで美を目指すという。

岡:一時期、僕は和栗由紀夫さんという舞踏家のもとで踊りをやっていたんですが、舞踏もそうなんです。上手い下手じゃなく、本当に楽しんで踊っているかどうかがすごく大事で、そういう人の踊りが一番おもしろい。そこで「踊るような建築」を志向しながら、目一杯楽しんで蟻鱒鳶ルをつくっていきました。

もう一つわかってきたのは、装飾の重要性。建築の世界で、僕はずっと「装飾とはつまらないもので、考えなくていいものだ」と教わってきました。装飾を喜ぶなんて前近代的だと。正直、僕も昔はそう思ってましたが、この現場で装飾の魅力に気づいた。同時に、建築界のなかで装飾というのは僕がやらなきゃいけない係というか、そういう使命だと考えるようになったんです。

―装飾にのめり込むようになったのは、やはりコンクリートによる独自の製法を見出してからでしょうか。

岡:そうですね。まず、コンクリートを流し込む型枠をどうするか悩みました。一般的に型枠には、コンパネ(コンクリートパネル)と呼ばれる木材を使います。ただ、これには防腐剤がたくさん入っています。僕は現場仕事の蓄積で化学物質の過敏症になっていたので、コンパネは使えないという前提で作業を開始しました。

とはいえ、コンクリート工事はコンパネと共に進化してきたようなもの。エジソンが発明したというから、古くから定番の工法です。そこで新しい手法を発明する必要がありました。試行錯誤の末、コンパネの代わりに板をビニールで巻いて使えばいいと気づきました。しかも板とビニールの間にモノを仕込めば、コンクリで自由自在に模様を描ける。そこから一気に作業が楽しくなりましたね。

―そのコンクリートも独自の調合で練ったもので、200年以上もつ強度だと聞いています。

岡:コンクリに関しては、できるだけ長持ちすることを想定して、土木学会が提示する最も密度の高い指針を参考に自分で練り始めました。手探りのままスタートしてから、地下室ができたあたりで見学に来た専門家が「このつくり方であれば数百年はもつ」と教えてくれましたよ。

日本の鉄筋コンクリートの建築寿命は約35年だそうです(※)。つまり、40年ほどでだいたいの建物はダメになってしまう。木造であれば20数年と、その寿命はもっと短い。これは先進国のなかでも極端に短いんですよ。おそらくそれは、敗戦後の日本が復興するために、土木と建築で内需拡大を図ったからだと考えています。もし建築の寿命が100年あれば、人は一生で一つの住宅しか建てません。でもそれが3、40年ならば、一生のうちに2つ3つと家を建てる必要が生じますよね。

―建築寿命を短く設計することで、スクラップ・アンド・ビルドを加速させ、高度経済成長を促したと。

岡:もちろん、そのおかげで日本経済は復興したんでしょう。それに100年、200年もつものを庶民がぽこぽこ建ててしまえば、国が困るのも理解できます。ただ、庶民がそんなことまで心配しなくたっていいし、建築が40年でゴミになってしまうのはやっぱり間違ってる。そう思ってコンクリートを自分で練るようになったんです。

そんなとき、雑誌『建築と日常』で「建築は誰のものか」というテーマの論考を依頼されました。反射的に「そんなの、お金を出す施主のものに決まってるじゃん」と思ったけど、ふと考えてみる。

たしかに建築の寿命が40年ほどしかなければ、それは施主のものだろう。でも、一つの建築が200年もつとなると話が違ってくる。建築の寿命が人間の寿命を越えるわけだから、「建築は誰のものか」を、より大きなスケールで捉えなければならない。そこから、建築は施主だけでなく、つくった人たちのものであり、見ている人たちのものであり、そして未来の人たちのものでもあると考えるようになったんです。

※税法上の鉄筋コンクリート造の耐用年数は47〜39年。

仲間たちのもたらす偶然も包み込んで。再開発の波から救ってくれた人たちの存在

―また、蟻鱒鳶ルは大勢の協力者とともにつくりあげたものですよね。「岡組」というか、その集団制作としての側面についてうかがいたいです。

岡:最初は岡画廊関係の仲間たちに手伝ってもらいましたが、お金もないのでほぼ一人で作業していました。ただ、最後の3年間は再開発に参加したことで状況が変わりました。完成の期限や曳屋などの要求を呑むことで、ある程度の工事費が出るようになったんです。それでたくさんの人を呼べるようになりました。蟻鱒鳶ルには図面がなく、時々指示を出すぐらいで、あとはみんなに自由にやってもらいましたね。人に任せるのがどんどん楽しくなり、マエストロのような気分でした(笑)。

とくに工期の最後のほうを担った人たちはかなりの暴れん坊で、たとえば屋上のパラペット(建物の外周部に設けられている低い立ち上がり壁)。仕上げの部分だから本当は僕がやりたかったんですが、再開発への対応で時間を取れなかったので、ほとんど若い人たちに任せるしかありませんでした。潰したペットボトルを型枠にしちゃうとか、僕だったらやらないようなことを平気でやるから心配だったけど、完成した全体像を外から眺めて「いいものができたな」と思えましたね。

―ハート型のキュートなコンクリート装飾や、鉄製の扉と窓も印象的です。

岡:天井のハート模様のきっかけは、その頃よく手伝いに来ていた早稲田の学生です。彼が朝ニヤニヤしてるから理由を聞いたら、「彼女ができました」と。それで「岡さん、ハート入れましょう、ハート」と言うから、「なんで君の初恋記念を僕の大切な建築に入れるの」とツッコミながらも、結局入れちゃって(笑)。

1階にあるふたつの扉をつくったのは、建築家で工学博士の山口純さん。彼はなんでもつくれる人で、「最近溶接を始めたので、なにかやらせてください」と言うから頼みました。また、鉄の窓枠は建築家の佐藤研吾くんを筆頭に、大工の潮ちゃん、近所に住む有馬さん、主婦の中村さん、美術家の後藤くんらがつくりました。しかもガラスをカットしたのは、蟻鱒鳶ルのドキュメンタリー映画の撮影・編集をしている辻井さんなんです。

聞けば映画の世界に入る前、建具屋で働きガラスを切っていたそう。金属の網入りガラスを曲線でカットするなんて、本職の人でも難しい技術なのに、見事にやってのけましたからね。

―本当にさまざまな人たちの手が入っているんですね。一方で、蟻鱒鳶ルは三田界隈の再開発の影響も受けてきました。一時はその存続すら危ぶまれたと聞いています。

岡:現在、蟻鱒鳶ルは再開発に協力するかたちで残されることになっています。最初に再開発の話が持ち上がったのは、いまからもう12、3年前。それから蟻鱒鳶ルが解体を免れてきたのも、たくさんの人たちのおかげでした。

岡:まずは古い友人でもあり、弁護士である丸山冬子さんとパートナーの小林大晋さん。ふたりの的確なアドバイスはずっと心の支えでした。丸山さんたちから「広報活動を頑張れ!」とアドバイスをもらい、テレビや新聞などの取材を受けることにしました。

なかでも「タモリ倶楽部」の影響は大きく、それを見た編集者の柴山浩紀さんが連絡をくれ、2018年には『バベる!自力でビルを建てる男』(筑摩書房)を出すことができました。ほかにも、冒険ドラマみたいにピンチを救ってくれるヒーローが次々と現れて、手を差し伸べてくれた。だからこそ、いままで蟻鱒鳶ルをつくり続けることができたんです。

売ったあと、賃貸で住みながらつくり続ける

―そんな再開発の波に揉まれながら、ついに蟻鱒鳶ルの全貌が明らかになりました。SNSやメディアなどでも注目されていますが、移り変わっていく東京の風景のなかにこの建築が建ったことの意義を、あらためてどう思われますか。

岡:強い意志があったわけではないけど、この都市開発の動きには「なんかイヤだなぁ」という思いがありました。このどこかつまらない流れに抗う一本の杭を打つんだという気持ちはずっとありますね。

いま大勢の人が蟻鱒鳶ルを見に来てくれていて。ネットに書かれた感想を読むと、そんな気分がちゃんと伝わってる感覚があります。よく聖坂を通る、昔から顔見知りのおじいちゃんとおばあちゃんも、「変なものができると思ったけど、これはこれでおもしろいじゃない」と言ってくれた(笑)。いいと思ってくれる人が増えるのは、素直に嬉しいですよ。

―これから曳屋に1年かかるそうですが、それが終わるといよいよ完成ということなのでしょうか。

岡:じつは、それでも完成にはまだ遠いんです。曳屋工事の後、完了検査に向けた工事があり、そのあとも詰めなければいけない箇所がいくつか残っています。さらに、これから僕は蟻鱒鳶ルを売り抜くつもりです。それを新たな資金源にして、最後までこの建築を仕上げたいんですよ。

ただ、建物を売っても、僕が死ぬまで購入者と賃貸契約を結んで、ここに住みながらつくりたいと思っています。2、300年はもつ建築なので、最初の2、30年くらい別にいいじゃないかと(笑)。このプランを現代美術家の杉本博司さんに話したところ、「美術館がアート作品を買うようなものですね」と理解してくれました。2022年から雑誌『月刊 蟻鱒鳶ル売り鱒』を刊行しているのも、その一環なんですよ。

―なるほど、蟻鱒鳶ルを文化財として販売するという。それこそ2、300年先までこの建築が受け継がれるとして、一体どんなレガシーになってほしいでしょう?

岡:一番の望みは、未来でこんな会話が交わされることかな。

「ねぇねぇ、君はどんな建築が好き?」「私は蟻鱒鳶ルかな」「あんなにショボくて小さいビル? そんなものより、あの100年かけてセルフビルドされた超高層とか、ある一族が300年間つくり続けてる村のほうがすごいじゃん」「バカね。あの建築が全ての原点なのよ」

……本当にそうなるかはさておき、そのくらい影響を与える建物になってほしいですね(笑)。とにかく、少しでも世の中におもしろい建築が増えてくれればいいなぁ。それが僕の願いなのかもしれません。

サイト情報
『蟻鱒鳶ル売り鱒』

蟻鱒鳶ルの「いま」を伝える月刊誌『月刊 蟻鱒鳶ル売り鱒』をはじめ、完成大パーティーの招待券である蟻鱒鳶ル小などを販売中。
プロフィール
岡啓輔 (おか けいすけ)

1965年、九州に生まれる。一級建築士。有明高専建築学科卒業。会社員、鳶職、鉄筋工、型枠大工、住宅メーカーの大工などを経験し、1995年から2003年まで「岡画郎」を運営。20代、舞踏家・和栗由紀夫に師事し踊りを学ぶ。2003年、「蟻鱒鳶ル」案が「SDレビュー」入選。05年、「蟻鱒鳶ル」着工。



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