政治・経済・民族・宗教……さまざまな理由で人々を分断する「壁」
京都のとある大学で大きな問題が起きている。100年以上の歴史を持つ学生寮の老朽化をめぐって、住人である寮生たちと大学側が激しく対立しているのだ。戦争や学生運動の時代を経て、これまで数え切れない人数の学生たちを社会に送り出してきた日本最古の寮は、見た目だけなら廃墟同然で、もし大きな地震でもきたらひとたまりもないだろう。そこで大学側は取り壊しと高層建築への建て替えを主張しているのだが、いっぽうで寮生たちは木造建築の文化的価値を訴え補修と耐震補強による維持を求めている。また、これまで学生による自治を不文律としてきた寮にとっては、大学当局による介入も避けたい。そのため両者の関係はもう10年以上も平行線で、歩み寄る可能性も見えなくなってきている。そんな背景を持って、この映画『ワンダーウォール 劇場版』は始まる。
架空の学生寮「近衛寮」を舞台にした『ワンダーウォール』は、そもそもNHK制作の地域発ドラマとして2018年7月に放送されたものだ。SNSなどでの反響を受けて公開が決まった映画版は、いくつかの新規カットを追加した「完全版」的な仕上がりになっているが、物語が大きく変わったわけではない。
前述した寮生と大学側の対立が続くある日のこと、交渉の窓口になっていた大学事務局のなかに真っ白な壁が建つ。カウンターを囲んで激しくやり合うこともしばしばだった交渉のスタイルを嫌い、壁を立てることで大学側は寮との関係を断ったのである。
このエピソードとともにドラマに挿し込まれる映像が、東西冷戦の終わりを象徴するベルリンの壁崩壊(1989年)、そしてアメリカとメキシコのあいだに壁を作ると宣言したトランプ米大統領(2016年)なのが象徴的だ。前者の時代には16しかなかったという境界線としての壁は、2018年には建設中のものも含めると世界中で65に増えたという。トランプの壁はもちろん、シリアなどからの移民流入を抑制するためのハンガリーの壁、モロッコからの移民排除のためのスペインの壁、イスラム教の異なる勢力を分けるためのシリアの壁など、世界には政治・経済・民族・宗教などさまざまな理由によって人々を「分断」する壁が、2000年代以降に新設された(参考:人、都市、国を分断する、世界の16の巨大な壁 | Business Insider Japan)。『ワンダーウォール』の壁もまた、同じ学び舎でともに生きてきた者同士を分断するための壁だ。その建造以降、寮内で盛り上がっていた運動も往時の勢いを失いつつあり、これまで近衛寮を支えてきた協働と自治の精神の決定的な空中分解がドラマでは暗示されている。
経済優先の論理を掲げる「あちら」側と、だらしなさやめんどうくささも許容する「こちら」側の対立
3年前に東京から京都へ引っ越してきた私はこのドラマを妙に偏愛していて、録画して何度も見返してきた。だから今回の劇場版について書けるのをとても嬉しく思っているのだが、新型コロナウイルスと、そこから派生する人的・政治的な脅威が地球を覆いつつある現在では、正直に言って筆が重い。ドナルド・トランプの米大統領就任、EU離脱以降、2010年代を象徴する言葉として「分断の時代」が多用されるようになったが、現在の状況は二分化というよりも、分断がさらに細分化された、個々人が点的に孤立して生きることを強いられる「点の時代」であるように思うからだ。
『ワンダーウォール』では、白い壁によって二分された世界の、「こちら」側である寮内の生活が丁寧に描かれている。壁ができて以降の不穏を通奏低音のように響かせつつ、それでも変人揃いの寮生たちの自由で雑多な生き方、それをおおらかに許容する近衛寮のコミュニティとしての魅力に比重を置いている。
<歴代の寮生たちが残そうと努力し続けてきたっていうことは、案外ここには人間の幸福にとってすごく必要ななにかがあるんじゃないかって気がするんです。寮の人たちにとってだけじゃなくて、もっと世の中の、大勢の人にとっても必要な……>
登場人物の一人が終盤で語るこのセリフは、脚本を担当した渡辺あや、また彼女が「四方八方にずらずら並んだハードルを全てクリアし」と賞賛した放送時のプロデューサー・駒井幹士ら製作陣の熱い想いを代弁するものだろう。二分された「あちら」側の世界が掲げる経済優先の論理の過酷さに対して、だらしなさやめんどうくささも含めた人間らしさを恢復するための「空き地」「寄り道」として、近衛寮のような場所はどんな時代でも必要なのだと『ワンダーウォール』は唱えている。
「集まる」ことすら許容しない、つながりたくもつながれないという危機に陥った今日の世界
しかし、いまの状況はまったく違う様相を見せている。1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災では、震災直後の衝撃や喪失感が、たとえか細くとも人々につながることの必要を思い起こさせた。被災地でそれまで話をしたこともなかった者同士で囲んだ食事や、大勢がただ集まって焚き火を眺める経験を、ある種の「人間性回復のチャンス」(これは、1995年の震災時に島袋道浩という現代美術家が壊れた家屋の屋根に掲げた、看板型の作品のタイトルでもある)として受け取った人々は少なくない。
だが、新型コロナウイルスがもたらす感染の恐怖は、「集まる」というシンプルな経験すらも許容しない。誰もが自宅やそれに類する場所に息を潜めて閉じこもり、不要不急ではない食料品の買い出しや気晴らしの散歩のために外出しては、危機的だと盛んに喧伝される状況と世界のあまりの平穏さのギャップに現実感を見失いそうになっている。パソコンかスマホがある人なら可能なオンライン飲み会や、映画や演劇の特別無料配信でこの鬱屈を晴らそうとしても、それが鎮静剤的に効くのはいっときばかりのことで、ネットワークを介して得られるつながりよりも、それが矩形のフレームに映された仮の像を見る体験でしかなく、自らの孤立に気づかされるリアリティのほうが、痛切に響く。
『ワンダーウォール』の魅力が、てんでばらばらの他者同士が寝食を共にし、議論したり喧嘩したり雑談したりすることの根源的な喜びそのものであったことを思えば、つながりたくてもつながれない、点であることを強いられる今日の状況は、人間社会がかつて経験したことのなかった危機だ。もちろんヨーロッパ全人口の1/3が死んだとされる14世紀のペストの大流行と比較すれば、このコロナ禍の被害は大きくはない。けれども、高度に発展したインターネットの情報網は流言蜚語や偏見の想像を撒き散らし、「情報のパンデミック」とでも言うべき、新たな恐怖の風景を露わにしている。ウイルスによってもたらされる死、また自分が媒介者となってもたらしてしまう死は具体的で恐ろしいが、終わりの見えないその想像によって動けなくさせられる心の死こそ、私は怖い。
なだらかに変化していく、京都の街の描写。曖昧な境界を地続きに往き来して暮らすということ
このご時世に、不特定多数の人間たちが出入りして寝食をともにする近衛寮の前時代的な共同生活を肯定するのは不謹慎かもしれない。大学がやったように隔離のための壁を築いて、対話を控えるのがいまは正しいのかもしれない。それでも『ワンダーウォール』について書きたい。冒頭のこのモノローグを紹介することで、閉じこもるためではなく、開いていくための想像力を恢復したい。
<河原町通りは自転車が停められないから、バイトはバスで通っている。四条河原町から百万遍行きのバスに乗り、東大路通を北上すると、だんだん人が減ってゆく。光の数も減ってゆき、夜が夜らしくなる>
この、なだらかに変化していく都市の描写が好きだ。まだまだ新参者の自分が持っている京都の感じがとてもよく表れている。錦市場や祇園からもほど近く、観光客だけでなく若者が集まる河原町は、東京で言えば新宿や渋谷のような繁華街だ。けれども煌々とまばゆいのは街のほんの一部でしかなく、バスで10分弱も走れば本当に「夜が夜らしくなる」。喧騒から静寂へ。光から闇へ。街がこのようなグラデーションを持っているのだという発見の驚きは、いまも新鮮なままだ。
東京で暮らしていた頃は、自宅、その時ごとの仕事場、いくつかの趣味の場所が、それこそグーグルマップをタップして刺す情報のピンみたいに、点として頭の中にインプットされている感じで、そのあいだを意識することはほとんどなかった。もっぱら移動は、それに費やされる時間を体感的に「なかった」ことにするためにカナル式のイヤホンで音楽に没入したり、読書をして気を紛らわせたりするための時間でしかなかったけれど、いまはバスに揺られてただ街を眺めることが楽しい。いろんな人がいて、いろんな文化があって、それらの曖昧な境界を地続きに往き来して暮らすということ。そこで意識されるのは、「点」ではなくおそらく「線」と呼ぶべき動きであり、あり方だろう。
4人の話者のモノローグで繋がる『ワンダーウォール』の物語。4つの「点」が、太い「線」になる
『ワンダーウォール』のシナリオを読むと、4人の話者のモノローグで物語がつながっていくのがわかる。三回生のキューピー(須藤蓮)、四回生の志村(岡山天音)、一回生のマサラ(三村和敬)、そして四回生の三船(中崎敏)へと。キューピーと三船のモノローグは、物語のなかで対照的な存在として描かれていることもあって判別しやすいが、キューピー、マサラ、志村の声を、ドラマを初見で聞き分けるのは少し難しい。これが脚本家や演出家の意図した効果でなかったなら見立て違いだが、この素敵な混濁は、期せずして『ワンダーウォール』や近衛寮の多様性や併存を体現しているように思う。
それぞれ個性の違う4人は「点」的な存在である。しかし、それらの点が結びつき、ときに重なり合いもしてバトンリレーするように物語をつないでいくとき、『ワンダーウォール』は太い「線」になる。そして、その線はドラマ版ラストのあの素晴らしい合奏シーンへと視聴者を導くのだ。
「人間の幸福にとってすごく必要ななにかがある」集いや文化が取り戻されることを願う
4月7日の緊急事態宣言を受けて、東京都は複数業種に休業要請を出した。そのなかには大学もライブハウスもバーも漫画喫茶も含まれていて、『ワンダーウォール』に登場するほぼ全部の場所が当てはまる(近衛寮内の漫画部屋や、合奏した場所を漫喫やライブハウスと解釈するならば)。そこで働き、暮らす人たちの生存が脅かされないように国や地方自治体がしっかり補償する限りにおいて、この決定を受け入れるのはしかたのないことだろう。しかしいっぽうで、そういった場所で営まれてきた集いや文化には、「人間の幸福にとってすごく必要ななにかがある」のも間違いないことだ。いま続いている長く閉じた時間を終えたとき、これらの場所が帰ってくること、取り戻されることを心から願う。
『ワンダーウォール』ドラマ版の最後のナレーションは、近衛寮について「そして2018年、世界から消えようとしていた」と結ぶが、2020年公開の『劇場版』ではその後の様子がわずかに語られている。私たちそれぞれの近衛寮は、この世界から容易には消えない。もし消えてしまったとしても、孤立した点ではなく結ばれた線としてつなぎ開いていける人の心は、消えてしまったものを新しく甦らせることもできるはずだ。Stay home. Our mind can travel free.
※参考文献:『ワンダーウォール』(2018年、株式会社BJ、誠光社)
- 作品情報
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- 『ワンダーウォール 劇場版』
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2020年4月10日(金)から全国順次公開中 ※詳しくは公式サイトを参照
監督:前田悠希
脚本:渡辺あや
音楽:岩崎太整
出演:
須藤蓮
岡山天音
三村和敬
中崎敏
若葉竜也
山村紅葉
二口大学
成海璃子
上映時間:68分
配給:SPOTTED PRODUCTIONS
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