現実社会の問題とシンクロする野木亜紀子の脚本
現在、綾野剛と星野源のダブル主演で、警察の機動捜査隊の隊員たちが出くわす事件を描く『MIU404』がTBSで放送中である。このドラマと同じ、プロデューサーの新井順子、演出の塚原あゆ子、脚本家の野木亜紀子のタッグで手掛けた『アンナチュラル』も、Amazon Prime Videoで配信が始まり、話題となっている。
『アンナチュラル』を2020年の今、見返して驚くのは、1話で法医学者の主人公、ミコトたちが解剖する遺体の死因がMERSコロナウイルスによるものだということだ。ウイルスが蔓延したドラマの中の世界では、人々は街でマスクをつけて暮らしており、お昼のワイドショーでは関西弁の司会者とコメンテーターたちがこのウイルスについて議論し、また感染者は、いわれなき差別を受けている。クラスター感染の事実を隠蔽しようとするものまでいる。これはまるで今の世の中のことではないかということでも話題となったのだ。ちなみにこのドラマが放送されたのは、2018年1月のことであった。
野木亜紀子の作品にはこうした現実社会の出来事とのシンクロが散見される。『アンナチュラル』では、2話でも、自殺志望の若い女性たちにネットで声をかけ、監禁している犯人のことが描かれていた。この放送の数か月前に起こった座間9人殺害事件と重なって見えたという人も多かった。また『MIU404』では、ある女性が違法賭博にまつわる犯罪にまきこまれ、その後まっとうに生きようと就職するも、その企業はヤクザのフロント企業で、どんなに働いても月給は14万。それなのにテレビには汚職をしても罪に問われない政治家の姿が映し出される、という場面が流れる。ちょうど放送のこの日、現実社会では、コロナ禍で働く医療従事者の月給が14万であるというツイートがトレンドに入っていたのだった。
こうした世の中とのシンクロがあるのは、野木がなにも予言者であるということではなく、世の中に起こっている出来事をつぶさに見ているということにほかならないだろう。
個人的にも、誰かの勘がするどいというのはデータの集積の結果ではないかと以前から思っていたが、『MIU404』でも、勘の鋭い伊吹(綾野剛)のことを、相棒の志摩(星野源)が「動体視力や聴覚や嗅覚が鋭い分、人より多くの情報が脳に入る」「ところが思考力と語彙力が足りないせいで論理立てて説明ができない、うまく言語化もできない。その結果、『俺様の勘だー』みたいな、バカみたいな物言いになる」と語っている。これと同様に、人が何かを感じるということは、たくさんのデータを集積しての結果であり、野木が描く現実社会とシンクロしたエピソードも、こうした膨大なデータやインプットによって見える日本の未来だったのではないかと思うのだ。
野木亜紀子の作品には、ほかにも社会の動きを反映したエピソードがたくさん存在するが、特に『アンナチュラル』や『MIU404』には、実際の社会でももっと広く知られるべきテーマが込められている。それは、毎年作られる数々のドキュメンタリー作品が掲げるテーマともシンクロしている。
私は2016年から4年間の任期で『ギャラクシー賞』の選奨委員をしてきたが、近年は、日本の働き方、外国人労働者問題、優生思想から起こる犯罪、芸術や研究における助成金が削られているという問題、オリンピックや東北復興に関する話題、そして政治の腐敗などについてのものが非常に多かった。これらの番組が作られるということは、そこに製作者たちが問題意識を見出したということなのだろう。
『MIU404』の5話でも外国人労働者の問題とその背後にある汚職を描いていた。『アンナチュラル』に関して言えば、UDIラボは助成金の問題が常につきまとっており、このラボが不自然死の8割以上が解剖されないままという先進国の中で最低水準の解剖率である日本の状態を改善するために設立されたというのに、その存続は、元厚生労働省の神倉所長の尽力に大きくかかっているという状況である。
描かれるそれぞれの「分岐点」。絶望しても「法を犯してはいけない」という思い
こうした現実と重なる各話のストーリーからは、日本にある蓋をしてはいけない問題が見えてくるし、矛盾の中で暮らす人たちの怒りも見えてくる。そしてそれは人々の絶望にも繋がっている。5話でベトナム人実習生らを何人も日本に入れてきた日本語学校の事務員・水森(渡辺大知)が発した「外国人はこの国に来るな」「ここはあなたを人間扱いしない」「ジャパニーズドリームは全部嘘だ」という言葉にも、ドラマの中だけに留まらない絶望が込もっていると感じた。
また、2話の悪質な職場環境で真面目に働くも経営者から理不尽な扱いを受けた加々見崇(松下洸平)、4話で月給14万で働いていた青池透子(美村里江)など、このドラマには、ただただ普通に生きたいと願うのに、それすら叶わない、社会的に弱い立場の人たちの悲しみと絶望も描かれている。
3話のタイトルは「分岐点」というものだった。本作では伊吹や志摩にも近しい人――伊吹であれば自分を信じてくれた恩師のガマさんであり、志摩であればかつての相棒の香坂義孝である――の分岐点で何かできたのではないかという痛みがそれぞれあり、また、登場するすべての犯罪者たちにも分岐点がある。その別れ道を選ぶときに、誰かが良い方向に行くスイッチを押せていれば……ということが、全編を通じて重要なこととして描かれている。
そして、どんなに絶望しても、どんなに理不尽なことがあっても、またその憤りが自分の中では道理が通っていたとしても、犯罪に手を染めてはいけない、それでは負けだという強い思いも全体を通じて伝わってくる。そこに共通しているのが「法」を犯すか否かという問題である。
なぜなら、『アンナチュラル』は公益財団法人で働く法医学者が主人公だし、『MIU404』は公務員である。立場は微妙に違うが、法の下で働いている人々であるから、ミコトも神倉所長も志摩も、法をおざなりにしてはいけないことを、ひとときも忘れてない。
それは、さまざまな台詞から読み取れる。志摩は今の相棒の伊吹には「俺たち警察は権力を持ってるからこそ慎重に捜査しなければならない。そのための規則でそのための捜査手続きだ」と、かつての相棒には「警察は法律が定める手続きによってのみ個人の自由を制限できる。法を守らずに力をふるったらそれは権力の暴走だ」と告げる。また、ミコトは、同僚の中堂が自分の最愛の人を殺した秘密を握るフリー記者の宍戸に毒を飲ませたことに対しても、「戦うなら法医学者として戦ってください」「不条理な事件に巻き込まれた人間が、自分の人生を手放して、同じように不条理なことをしてしまったら負けなんじゃないですか」「私を絶望させないでください」と訴えかける。
『アンナチュラル』と『MIU404』の世界は繋がっており、UDIラボは『MIU404』にも登場する
野木は脚本を手掛けた映画『アイアムアヒーロー』でも、主人公の英雄を原作の表現はそのままに、より遵法精神の強いキャラクターとして描いているように感じた。英雄は、謎のウイルスが蔓延した世の中においても、猟銃の免許を携帯し、法律に従って猟銃を扱っていたし、ZQNという無法者のゾンビのような存在に対してでも、猟銃を向け発砲することを最後までためらう「優しい」キャラクターであった。
私は個人的には、絶望した世の中を変えるには、反権力やアウトローになるしか道がないと思っていた。韓国映画などは、軍事政権から民主政権に国民の力でもって変えてきた事実もあるから、こうした「反権力」「アウトロー」を描く物語も多い。
一方、日本の場合は、是非はともかく、どうしても人々が一丸となって何かを転覆させるというイメージがしづらいというのも現実ではないだろうか。それは、『アイアムアヒーロー』で英雄の持っていた「優しさ」ともつながっている。しかも、市井の人々は小さな罪すら裁かれる中で、等しく裁かれるべき権力者の汚職や不正などが裁かれていないという現実もある。そんな世の中においては、『MIU404』で志摩が何度も言ってきたように「権力を持つものこそがその力についての責任を持ち、暴走させないこと」こそがまず基本的なこととして重要だと思えてくるのである。
国政をつかさどるものや権力を持つものが法を守らなければ、我々の住む社会は混乱を極めてしまう。勝手にデータを書き換えたり、証拠を破棄してしまうなんてもってのほかだ。そう考えていくと、国家や、そのなかで仕事をする人々が法を守ること、そしてそこに暮らす人々が等しく法に守られることが、大きな意味では、絶望している人を、ひとりでも減らす手段のような気もしてくる。何が正解かはわからないが、『アンナチュラル』や『MIU404』を見ていると、我々の住んでいる国と法について考えてしまうのだ。
- 番組情報
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- 『MIU404』
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2020年6月26日(金)から毎週金曜22:00~TBS系で放送
演出:塚原あゆ子、竹村謙太郎、加藤尚樹
脚本:野木亜紀子
音楽:得田真裕
主題歌:米津玄師“感電”
出演:
綾野剛
星野源
岡田健史
橋本じゅん
麻生久美子
ほか
- 『アンナチュラル』
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Paraviほかで配信中
演出:塚原あゆ子
脚本:野木亜紀子
出演:石原さとみ
井浦新
窪田正孝
市川実日子
松重豊
ほか
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