※本記事は映画本編の内容に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
錆びついた街ロックフォードの閉塞した若者たちのストーリー
アメリカ合衆国、イリノイ州ロックフォード。通称「ラストベルト」(=錆びついた工業地帯)と呼ばれるこの地は、長きに渡りアメリカの製造業や重工業を支えたことで知られている。言わば「五大湖メガロポリス」のひとつとして、1970年代ごろまでは豊かな街の象徴ではあったものの、1980年代に入ると、自国産業の中心が金融業やIT産業へと移行したことで、ロックフォードは大きな「脱工業化」のうねりに直面することとなる。地場産業は停滞し、それに変わる産業も育たず、将来を嘱望された人材たちは、見る見るうちに街を離れていく。また現代においても、低賃金で働く労働者の問題、あるいは企業の撤退による失業状態の長期化が喧伝されたりと、ネガティブな情報がメディアによって取り沙汰されている。2016年の大統領選に時を戻せば、民主党と共和党の支持者が混在した地域として、僅差ながらも共和党のトランプ政権に勝利を献上したことは記憶に新しい。産業、社会、政治とともに錆びついてしまった「行き止まりの世界」。それが本作の舞台となるロックフォードだと言えるだろう。
『行き止まりの世界に生まれて』は、そんなロックフォードで育ったザック、キアー、そして撮影兼監督であるビンの12年間をめぐる物語だ。スケートボードを通して出会った青年たちは、ビンが回すカメラを前にして、それぞれが抱える「閉塞さ」をまざまざと露呈していく。兄貴肌のザックは若くして恋人のニナとのあいだに長男のエリオットを授かり、屋根職人の傍ら、休日を削っては子育て中心の生活を送っている。当初はこれまでの自堕落な生活を改めていくかのような働きぶりを見せていたが、やがて日々の子守りや家事から生じるストレスをニナに暴力でぶつけるようになる。その後ザックは出先のデンバーで恋仲となったサムとの同棲を始め、目の前の現実を直視しない日々へと舞い戻り、ニナやエリオットとはつかず離れずの関係性を維持し続けている。
黒人のキアーは、頭ごなしにしつけられた父親との過去に苛まれている。ザックを始めとしたスケートボードのコミュニティに入り浸ることで、仲間たちとの時間に自らの居場所を見出していたが、そんな矢先に訪れた父親の突然の死は、その後もキアーの胸を深くえぐり続ける。白人の友人たちと遊んでいる時でさえ、「白人の仲間がいても黒人であることを忘れるな」という父親の声がリフレインする。そうして瞳の奥に父親への嫌悪と後悔のまなざしが宿ることで、過去を捨てきれずにいる彼の姿が画面を通してみなぎってくるかのようだ。
中華系アメリカ人のビンも、彼らと同じように閉塞した状況の只中を生きている。再婚した継父からの暴力に対し、助けてくれなかった母親への恨みを持つ彼は、この映画を通してその真意を彼女に問いただす。ところが、継父の暴力は自身や弟だけではなく、母親に対しても向けられたものであったことを知る。「できるものなら今からやり直したい」と涙を流すカメラの前の彼女に対し、ひどくうろたえるビン。この映画に漂う閉塞に迫るためのたんなる目撃者ではなく、彼もまた、紛れもなく閉塞を背負う当事者なのだ。
監督さえも、自身の人生が抱える閉塞した状況と向き合う、誠意のある映画
ロックフォードが抱える閉塞さとともに、滲み出てくる三者三様の閉塞感。その多くは個々の家庭不和や暴力に起因している。しかし彼らは、この映画を通して己が抱える閉塞さと向き合うことを選んでいく。ザックはニナに暴力を振るう理由を素直に打ち明けるとともに、「自分のようにはなってほしくない」と息子のエリオットに対する想いを吐露する。逃げ道のない混沌とした状況を選びつつも、変えることのできない自らの過ちと向き合うこと。それは彼なりの誠意であり、最低な人生であることを受け入れるための大きな決意にほかならない。またビンは、家族への想いを打ち明けるザックやキアーを追い続けるばかりでなく、あえて撮影者としての自己を放棄し、継父から受けてきた暴力について、彼らに対しても打ち明けるようになる。そのことで母親が秘めていた痛みさえも、己の痛みとして共有していくことになるのだ。「あなたを楽にしてあげたい」と語る母親に対し、こぼれる涙を拭うビンの光景は、まさにこの映画のエモーショナルな調べとして深く響いてくるだろう。
そしてキアーも同様に、変えられない過去の痛みを受け入れようと試みる。当初は理解できなかった父親の発言も、黒人としてのアイデンティティ、さらには歴史が招いた人種差別の代償に触れていく中で、その発言の裏側に隠された真意までをも汲み取ろうとしていくのだ。まるでそれは、父親が遺した「黒人であることに誇りを持て」という言葉の捉え方に変化が生まれたように、本編の前半と後半とに映し出される「ボード壊し」の場面においても顕著となる。他者に対しての怒りをぶつけるようにしてスケートボードを壊してしまう幼いキアーと、自立した生活を手にした後にボードを壊す青年キアーの姿は、同じようで全く異なる様相を呈しているはずだ。変えることのできない過去の痛みを理解し、その痛みを受け入れた彼なりの大きな一歩として。だからこそ父親の墓石を訪れる場面は、キアーが確実に前へと進んだことを明瞭に示唆している。
とは言え、ここに映る12年間とは、果たして特別なできごとなのだろうか。産業、社会、政治といった国家レベルの問題から、家庭内暴力、人種、離別といった個々の問題に至るまで、一見すると私たちとは距離のある他国の問題だと思うかもしれない。だが、本作を通して思うのは、むしろ私たちの問題でもあるのではないかということだ。私たちの国にも産業があり、社会があり、政治がある。そして虐待や差別、あるいは離別といった経験は、図らずとも私たちの日常に潜んでいることだろう。つまりここにはびこる閉塞さとは、何ら特別なことではない。脱工業化によって廃れていった街も、私利私欲のために腐敗した政治も、まるで後を絶たない暴力も、私たちの暮らす国や地域には存在する。そのことをひとたび自認したとき、『行き止まりの世界に生まれて』は普遍性を帯びた私たちの映画として、強く心を震わせることになるのだ。原題は『Minding the Gap』。一般に列車のドアと駅とのホームに生じる、空間の隔たりに警鐘を鳴らす「電車とホームの隙間に注意してください」という意味のフレーズだ。だから時には、その空間につまずいたり、転んでしまうこともあるだろう。ただそれでも、ザック、キアー、ビンはそこに生じた隔たり=閉塞を受け入れ、しっかりとその空間を跨ごうとする。行き止まりの世界さえも肯定するために、自らが信じるボードを見つけた彼らは、追い風に乗ってその一歩を確実に踏み出していくのだ。
- 作品情報
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- 『行き止まりの世界に生まれて』
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2020年9月4日(金)から新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国で順次公開
監督・製作・撮影・編集:ビン・リュー
エグゼクティブ・プロデューサー:スティーヴ・ジェイムス(『フープ・ドリームス』)他
出演:
キアー・ジョンソン
ザック・マリガン
ビン・リュー
ほか
上映時間:93分
配給:ビターズ・エンド
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