※本記事は『82年生まれ、キム・ジヨン』のネタバレを含む内容となっております。あらかじめご了承下さい。
チョン・ユミとコン・ユの共演。日本でも発行部数21万部の小説が映画化
日本でも2018年に出版され、海外のフェミニズム小説としては異例の21万部の発行部数を記録している『82年生まれ、キム・ジヨン』の映画版が公開となった。
主演は、チョン・ユミと、コン・ユ。ふたりは何度も共演してきたが、特にコン・ユは、実際に起こった聴覚障害者の生徒への性的暴行事件を描いた小説『トガニ 幼き瞳の告発』を読み、自ら映画化に働きかけたり、『新感染 ファイナル・エクスプレス』では、娘と釜山行き列車に乗り、謎のウイルスによりゾンビと化した乗客と戦いつつ、父親としての自身の在り方を問う役を演じたりしてきた。今回も、現代の夫婦や家族の在り方、そして何より男性としての在り方を問う役柄を演じている。
小説版の物語は、1982年生まれで、結婚・出産により働いていた広告代理店を辞め、子育てをしている主人公のキム・ジヨンが、ときおり別の誰かが憑依しているような場面を夫のデヒョンが目の当たりにするところからスタートする。そして、彼女だけでなく、母親、祖母といった三代の女性の物語も綴られる。映画版は母親や祖母も登場するが、主にジヨンの物語として描かれていた。
小説ではどこに向かっていくのかわからない、闇の中で終わるような印象があり、それが深い印象を残し、読み手に考えさせる部分があると感じたが、映画版を最初に見たときには、キム・ジヨン自身がどのように前向きに生きていくのかが示され、ジヨンの変化については希望を感じながら映画館を後にすることができたと思っていた。また、小説でもぐっときた場面、例えばジヨンが学生だった頃にバスで男子学生につきまとわれ、それを見知らぬ女性が救ってくれるシーンや、就職がなかなか決まらぬジヨンに、父親の放った「嫁にでも行け」という一言に対して、母親が憤るシーンなども、丁寧に映像化されており、映画でもこれらの描写に感情を揺さぶられた。彼女を支える夫デヒョンも彼なりに一生懸命に考えているようだ。長男を重んじる母親の存在がありつつも、ジヨンの病気を案じ、彼女がなんとか良くなるようにも動いている。
しかし、映画を見て家に帰ると、どこかしっくりこないところが出てくるのだ。ジヨンは前向きに生きているのに、なぜこんな感情になるのだろう。デヒョンは「普通の良い夫」であるし、いつもジヨンのことを考えているというのに、ふたりの関係性を見ていて苦しくなってしまうのはなぜだろう。そういう視点を意識しながら、もう一度映画館に足を運んだ。
女性を追い詰める日常のさまざまな出来事。彼女の「憑依」を引き起こすもの
映画を再度見てみると、ジヨンがどんなときに他者に憑依しているのかがよりはっきりと見えてきた。一度目は、夫のデヒョンの実家に日本のお盆にあたる秋夕(チュソク)の連休に訪れ、家族にたくさんの料理をふるまいたい義母につきあい、ひとり椅子に座る時間もなく、常に気を使って料理作りや皿洗いなどに追われ、疲れ果てたときであった。
デヒョンの機転でそろそろここを後にしようと言われたあとに、デヒョンの姉夫婦がやってきて、その計画が実行されなくなったばかりか、義母はジヨンに姉夫婦のためにさらに働かせようとする。自分だって実家に帰りたいのに、どうしてこの家では自分だけが使用人のように働かないといけないのか。その瞬間にスイッチが入り、憑依するのだった。
また別の憑依は家の中で起こった。ジヨンは大学卒業後は広告代理店で働いており、子育てで一時は仕事を断念していたが、結婚前から仕事との両立を願っていた。ブランクを経て就職情報サイトを見ても希望の仕事はなく、近所のパン屋で短時間のバイトをしたいと夫に相談する。しかし、それに対してデヒョンが、君の本当に望む仕事なのか、自分が働けと言ったかと問いただし、「好きでもない仕事をしてほしくない」と言ったあとに、ジヨンの憑依のスイッチが入るのだった。
映画の終盤では、前職の女性上司が独立し広告代理店を立ち上げ、ジヨンはそこに再就職することが決定していたが、夫がその代わりに育休をとるということが義母に知られ、反対されて叱責されるというシーンがある。絶望していたジヨンのもとにかけつけた実母から「私が近所に越して子供の面倒をみる」と言われ抱きしめられたときにも憑依が起きるのだ。
ジヨンは、いつでも不規則に憑依するのではない。彼女にとって、ひとりではどうにもできない、理不尽なことがあったときに、強い憤りを感じたときに憑依してしまうのだった。
この憑依の理由には、現代の女性を苦しめる家父長制度や、性差別など社会に根付く構造的な不平等が関連している。だから、ジヨンの苦しみや憤りは、映画を観ている者とも繋がっているし、そんな世の中は変わっていってほしいと切実に願っているのはジヨンだけではないだろう。
これ以外のシーンでも、ジヨンを苦しめる出来事はちりばめられている。ジヨンの父親は彼女がバスで男子学生につきまとわれた際には、つきまとわれるのにはジヨンの態度に問題があり、安易に笑顔を見せるものではないと言うし、彼女が病気になったときにも、ぴんぴんしている長男のために漢方薬を買ってくるばかりか、ジヨンの好きなものすら覚えていない。また、夫のデヒョンも先に書いた通り、ジヨンの再就職に対しても、彼女が精神的に参っていることを知っているからではあるが、「好きでもない仕事をしてほしくない」と言ってしまう人でもあるし、また新婚当初は、彼女が仕事と子育ての両立について案じていても、彼女とはまったく別次元で子供を育てるということについて気軽に考えている部分も見える。
しかし、父親もデヒョンも普段は悪い人間では決してなく、家族に対して愛情も持っている。何が彼らをそうさせてしまうかというと、やはり家父長制や性差別的な制度、風潮が社会に当たり前のように深く深く根を張っていて、彼らが知らず知らずに影響を受けているということにほかならないだろう。それは、長男を溺愛するデヒョンの母やジヨンの父方の祖母などにも表れている。
前に進むジヨンと、根深く変わらず残り続けるもの
ジヨンは、さまざまな出来事を経て、最終的には、デヒョンから憑依の事実を告げられ、病院に向かう。女性の医師は、患者が病院に足を運んだ時点で半分は治療が進んでいると前向きなことを告げ、ジヨンも彼女を見守っていた観客もほっと胸をなでおろす。そしてジヨンは自ら声をあげ、ある手段を得て自分自身を取り戻していくというのが、この映画オリジナルの結末になっていた。
これまでは、その憤りを、誰か別の人になって発露していたのがジヨンの「憑依」であったのだが、その憑依した人物たちも、それぞれが憤りを抱えており、ジヨンは彼女たちの深い憤りと通じ合っていたようにも見えていた。だからこそ、現代社会でさまざまな憤りを感じている私たちとも通じ合っているように感じたのだと思う。
映画のジヨンは、きっと今後は少しずつ前に進んでいくだろう。それはハッピーエンドでもあるし、実際にも、女性たちが声をあげたり、自身の物語を語ることで社会を変えられるという側面は大いにある。ジヨンは何より自分の言葉で憤りを発することがなかなかできなかったのであるから、終盤で自分の声でそれを表明するということは、変化である。日本でも、声をあげることがまだ困難な人もたくさんいるだろう。
しかし一方で、彼女を追い詰めたさまざまな要素が何かしら変わる部分はまだ十分には見えていない。デヒョンは協力的でジヨンのことを思う夫だが、結局、「その間に読書したり勉強したりもできる」と考えていた育休を取ったのだろうか(劇中ではそれははっきりと示されていない)。ジヨンは変われたし、前向きに生きていくという兆しを見せて物語は終わったが、彼女を苦しめた構造的な問題はまだまだ社会に残り続ける。
それが現実といえば現実だし、これからも考えていくべき議題なのだが、見ている者がジヨンの前向きな変化を祝福したいと思っても、どこか引っかかりを感じてしまうのは、この根深く変わらない部分も残っていることが関係しているのではないだろうか。答えの出ていない議題を描き、物語にひとつのピリオドを打つということの意義と難しさを同時に感じた。この物語が多くの人々の反応を呼び起こしたように、まだまだ世の中に存在するたくさんの女性たちの物語が語られ続ける必要があるだろう。『82年生まれ、キム・ジヨン』の作家であるチョ・ナムジュの次作で、さまざまな世代の女性たちの声を取材して執筆した28篇の短編集『彼女の名前は』からも、そんな意思を受け取った。
- 作品情報
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- 『82年生まれ、キム・ジヨン』
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2020年10月9日(金)から新宿ピカデリーほか全国で公開
監督:キム・ドヨン
原作:チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)
出演:
チョン・ユミ
コン・ユ
キム・ミギョン
上映時間:118分
配給:クロックワークス
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