荘子itが執筆 『スパイの妻』の「軽さ」が持つ倫理的な意味とは

濱口竜介・野原位・黒沢清が脚本、黒沢清が監督した『スパイの妻』。『第77回ヴェネツィア国際映画祭』で「銀獅子賞」(監督賞)を受賞した本作を、ラップグループDos Monosのトラックメイカー / ラッパーの荘子itが論じる。気鋭のラッパーは、本作をどう見たのか。また、本テキストを受けて行なった、彼のインタビューも掲載する。

現代を生きる私たちの自画像として描かれた「妻」

「夫」が「亡命だ」と囁くとき、それが、例えば現代日本を舞台にしたラブロマンスで発せられる「駆け落ち」という言葉とは比べようもなく甘美な響きであるかのように、窓からの照明とレンズフレアが、「妻」のクロースアップを包み込み、映画のような夢見心地にさせ、これに素直にうっとりしていいのかと、「居心地の悪さ」を感じさせる『スパイの妻』の舞台設定は、1940年、太平洋戦争前夜の神戸である。

最初の企画段階では、神戸をテーマにした映画という、「場所」の指定のみをプロデューサーから与えられていた脚本担当の濱口竜介・野原位コンビが、この「時代」を選んだ真の経緯を筆者が知る由はない。しかし「黒沢さん(=監督の黒沢清)に興味を持ってもらわないと始まらない」と濱口がインタビュー(注1)で語るように、以前、黒沢が着手してけっきょく頓挫した『一九〇五』(2013年製作 / 公開予定だった歴史モノの映画企画)を意識してというのが発端だったようだ。師を意識する濱口と、気づかぬうちに忖度されている黒沢という、世代を代表する二人の天才映画監督の間の、師弟関係を象徴する微笑ましいエピソードである。と同時に、この世のありとあらゆる創作物がそうであるように、その存在の根拠が、究極的には恣意的で無根拠な「軽い」思いつきであることが示されてもいる。とはいえ、それでも観客は、作品の設定や細部からなにかを読み取ろうとすることになる。これまた微笑ましくも、どこか「居心地の悪さ」を感じさせる作り手と観客との非対称性である。

戦後民主主義をぬるま湯とも思わずに、もはや自明のものとする日常の中で生を繋ぐ現代の我々が、戦時中の動乱期を描くフィクションにおいて、「夫」の立場ではなく、残された「妻」、時代ゆえにジェンダーの非対称性もことさら大きく、はっきりと上下関係の劣位で庇護される立場に身を重ねることによって、我々はその自己像をありありと浮かび上がらせてきた。それを確認するためには、近年の作品ではひとまず片渕須直監督 / こうの史代原作『この世界の片隅に』(2016年)を思い浮かべてみればよいだろう。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』として昨年にアップデート版も公開され、その疑いようのない完成度と説得性で我々を「感動」のどん底に落とし込んだ同作は、現代日本の日常的感性で受容されうる最高級の「感動作」の好例だろう。同作に対して行われてきた数少ない批判の軸は、「あまりにも我々の現状を肯定し慰めることに奉仕しすぎている」ということくらいだ。むしろ、それゆえにこそ、その筋から批判しようと試みても、それを心の底から自信を持って実行できる立場にいる者は我々の中にはほとんどいないということが問題であった。

また他方、「被害者としての映画は作れない」「まさに自分たちこそ加害者であったという映画しか作れない」(『スパイの妻』の劇場公開に際して行われた対談より(注2))という黒沢の発言と、その発言を意識して脚本を書いた濱口を、直ちにリベラルな感性から手放しに擁護する必要もないだろう。そのような認識は、もとよりこの世界のどんな事象も被害 / 加害のような二項対立で峻別できるわけがないという絶対的な真理からすれば相対的なものだ。とはいえ、そうした、「マクロで抽象的な真理が、結局のところ、戦争責任やジェンダー、人種差別等々、それぞれの当事者間にあるミクロで具体的な場面では、都合のいいように解釈され利用されてしまう」という世俗的問題(=「戦争中は誰もが苦しかった」、「男も差別されている」、「All Lives Matter」等々)にこそ意識的であろうとする、最低限の「道徳的」な態度として彼らの真意を汲むべきだ。

「ありのまま受動的であれ」「元来全ては同一である」という高尚な思想が至上のものとされ、だがその実、人間は文字通り完全に受動的になどいられるはずもなく、相対的に大なり小なり、能動的に受動的であったり、受動的に能動的であったりしながら、物事にも区別をつけ続けているのが世の常だ。荘子の「無為自然」や「万物斉同」の思想が、いかにお手軽にその場限りの気休めとして、物質的には豊かだが、精神的にストレスフルな日常の中で生を繋ぐ現代の我々への処方箋として消費されているかを見れば明らかである。それで筆者は荘子にitをつけて、「so shit=そんなものはマジでクソである」と名乗り続けている。荘子の認識から出発しつつも、絶えず具体的な問題に向き合い続けなければいけないからだ。

蒼井優(右)に演出する黒沢清監督(左)/『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

ともかくそんな背景もあり、『スパイの妻』における「スパイ」という設定には、「妻」という隠喩にしか見出しえない我々の自己像を、無垢な被害者としてのみならず、加害者として捉えうる可能性が込められている。ここでさらに注意すべきなのは、『スパイの妻』というタイトルにあと一字残された、「の」という連体修飾格の格助詞の機能が、権利的には、ふつうに連想され易い「スパイ(の夫と婚姻関係にある)妻」ばかりでなく、「スパイ(そのものである)妻」をも意味しうるということだ。劇中後半のシーンで、「ぼくはスパイじゃない。ぼくは自分の意志で行動してる。スパイとは全く違うものだ」と主張する夫に対して、「どちらでも結構。わたしにとって、あなたはあなたです。あなたがスパイなら、わたしはスパイの妻になります」と妻が言う。作劇上は何気なく聞き流しそうな発言だが、ここで妻は、受動的にではなく能動的に、自分たちを「スパイの夫婦」、そして自らを「スパイの妻」と認めたがって暴走し始めている。ここで、「いや、だからスパイじゃないって言ってるだろ」と夫が言うことはない。なぜなら、作劇上の焦点は夫や妻がスパイか否かという次元にはなく、「妻」がそうであるように、「スパイ」もまた、映画的な記号として提示されるものに過ぎないからだ。

他でもない自分自身で、「スパイの妻」と名指すそのときの妻の顔は誇らしげだ。それもそのはず、劇中前半では、夫や夫の協力者から、安穏と暮らす無垢な妻として、秘密を共有されず、夫が祖国に反旗を翻すきっかけになる「国家機密」を見たときも、「君はなにも見ていない」と言われる始末だった。その妻にとって、秘密を共有し、スパイとなって亡命するという想像は、まるで映画のようにロマンチックで胸ときめくことであった。前述の「国家機密」も、現実の光景を見た夫と違い、それをフィルムで見た妻は、「安穏とした暮らしを謳歌する妻」からは一段階覚醒したとはいえ、未だ日常性の延長で生を繋いでおり、どこかで映画のようにしか戦時下の過酷な現実に向き合えない。まだこの時点では、「すごい映画を観て開眼した気になっている」レベルの状態である。そしてそれゆえに、スリルやロマンスを無責任に欲する我々の隠喩であり続けている。

聡子役を演じた蒼井優 / 『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

「重い」濱口と「軽い」黒沢清のマリアージュ

エリック・ロメールの晩年の傑作『三重スパイ』(2003年)にプロット上の類似が見て取れる『スパイの妻』は、その独特な軽さをこそ受け継いでいる。撮影前に「ここだ」と決めたところでしかほとんどクロースアップを用いない黒沢の画面作りや独特の長回しが、まさにロメールや、ときにテオ・アンゲロプロスなどの画面を想起させることは周知の通りである。しかしそれは、日本映画らしからぬ、欧州映画的な厳かな雰囲気を醸し出す(=深みを偽装する)といった類のものでは一切なく、奥行きや、薄皮隔てた向こう側には、なにかあるようで、実際にはなにもないということの、その深みのなさそれ自体を示し続けてきた。ロメールにおける諧謔性、アンゲロプロスにおける叙事詩的崇高さとも別種の、現代日本的空虚さを描き続けてきたと言っていいだろう。しかもそのような表現が「目的」として目指されたというより、リチャード・フライシャー的な、B級映画早撮りの経済性を追求する上で「結果的に」もたらされたということが重要である。

8Kを押し出した(「8Kだ!」と本気で喜ぶ映画ファンは果たしてどれくらいいるのだろうか)企画や、いかにも黒沢映画的な様相を見せつつ同時に大河ドラマも彷彿させるような無菌化された画面もまた、そのような黒沢映画の特質を損なうことはないだろう。むしろ、映画製作のままならない現実的事情そのものこそを、「作家性」を越えた「フィルモグラフィーの奇妙な一貫性」に変えてしまうところに、黒沢映画の本質がある。音楽においても、ペトロールズ長岡亮介の劇伴は、得意のギターを排して「いかにも映画音楽」というサウンドになった結果、黒沢映画の音楽がいつもそうであるようなシリアスさと滑稽さの境界で、独特の「軽さ」の印象を倍加させている。前述のインタビューや対談を読む限り、当初脚本の濱口は、例えば主人公の妻の造形に関して、もう少し増村保造的な、ドロドロとした情念の深い女性像を目指していたようだ。その片鱗は映画にも確かに残ってはいるものの、これは黒沢との描き方 / 捉え方の違いが如実に出た一例かもしれない。黒沢はそのような情念の底知れない深みのようなものを掘り下げることをしない。そのほかにも、正しく黒沢イズムを受け継ぎつつ、その先で野心を燃やす濱口が「打倒CUREを目指したんですよね」と語り、黒沢に笑ってあしらわれるなど、「重い」濱口と「軽い」黒沢の微笑ましい落差が随所に見て取れる(注2)。そして本作においてその落差は、空回りとは別種の奇妙なマリアージュを生んでもいる。

『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

太平洋戦争前夜という時代設定にあって、「スパイ」モノの「サスペンス」と、夫を愛する「妻」の視点からの「ラブロマンス」という、ジャンル映画的な「軽さ」を徹底的に押し出した本作は、原理的に「娯楽映画」しか撮りえない現代の我々の実情をどこまでも自覚的に、かつ誠実に体現した作品だと言える。批判的な意味ではなく、端的な事実としてそうであるし、むしろそれは、一貫してジャンル映画への愛着を持ってきた黒沢にとって矜持ですらあるのだろう。脚本段階では、「この世の果て、地獄のような場所にたどり着く話」(濱口談)だった物語が、行き止まりとしての地獄ですらない、今も続く、我々にとってよりリアリティのある生き地獄として、永遠化された「ラブロマンス」の「サスペンス」として、改変されたのだ。改変後のラストは、娯楽映画として着地させたことによって、見かけ上は「軽やか」で「面白い」。だが、現代の日常を生きる我々が、太平洋戦争時代を舞台にした作品を観て得る感慨が、そのような「軽さ」や「面白さ」であって、「重さ」や「感動」ではないことは、どことなく「居心地の悪さ」を生じさせないだろうか。

重たく、感動的な物語に隠蔽されていた、「居心地の悪さ」

「感動」ではなく、現代の我々が生きる世を映す鏡としての乾いた「面白さ」が与える「居心地の悪さ」を提示することの意味について、もう少し語ろう。前述の『この世界の片隅に』は、当初少ない公開規模ながら、口コミでじわじわと館数を増やしたという作品外の背景が同作のテーマとも相まって、「これまで物語にならなかったような、名もなく慎ましい細部を掬い上げる」という「物語」の「感動」をより強固なものとした。「感動」こそがもっとも求心力の強い要素であり、だからこそ、それは「物語」にならないような「細部」ですら、改めて「物語」に回収してしまう強い作用をもつ。

現在、『スパイの妻』と共に日本の劇場で上映中の作品では、『Fate/stay night [Heaven's Feel] 』や、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、そして『鬼滅の刃』などが、恋人や家族の愛を描くことで大きな「感動」を与え、観客から支持を得て大ヒットしている。直近の目立った例を挙げたらたまたまアニメ映画になったが、多少の恣意性は認めつつ、実写とアニメそれぞれの表現に、ある種の傾向を見て取ることができるだろう。アニメはアニメで、様々な現実とも呼応した表現上の困難の中で、実写映画とは別の課題に向き合ってきた。例えば、「漫画やアニメのキャラクターは記号でしかないので死(=現実)を描けない。にも関わらずそれを描こうと模索する」という評論家・大塚英志の有名な「アトムの命題」がある。これは、『この世界の片隅に』や、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の、「我々自体が交換可能な代替品である」という世界観に寄って立ち、「だからこそ」という論理で、直接には過酷な現実(=死)に出会い損ねた我々が、代替品で補い合うこの日常を肯定するというテーマに直結している。そのような、「だからこそ」で支えられた逆説的なロジックは、「重い」「感動」を生む。さらに言えば、太平洋戦争ならいくらか過去の歴史になりつつあるとしても、東日本大震災や、昨年の京都アニメーションでの事件などを、作品の外部の背景にある、ごく最近の痛ましい記憶として想起すれば、「感動的な」作品が、「グリーフワーク=死別の苦しみを克服するプロセス」となることの意義を一蹴することはできない。だが同時に、『スパイの妻』が、太平洋戦争の時代を舞台にして、ジャンル映画的な「面白さ」を自覚的に追求していることは、我々が常にそれと共にある「軽さ」を自覚させ、「居心地の悪さ」を感じさせるものとして評価されねばならない。そのような「軽さ」と「居心地の悪さ」は、「重さ」と「感動」によって、現代の我々の間で絶えず隠蔽され続けているのだから。

『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

さて、現代の我々、と無防備に書き続けてきた本稿だが、それはいったいどのような、つまり、どの時代までの人間たちを対象にしていたのか。劇中で引用される『河内山宗俊』(1936年)の監督である山中貞雄は、28歳で戦病死した。まさに『スパイの妻』で描かれた苛烈な時代を生きたこの監督が、後世に残した3本の現存する長編フィルムや、託した意志が、『河内山宗俊』のラストシーンに呼応し、「感動」を誘うことは否定し難いだろう。だが同時に、山中貞雄こそ、ありとあらゆる人の営みや感情を、「百万両の壺」や「将軍家から譲られた小柄」といったマクガフィンの本質的空虚さを通して、「紙風船」の「軽さ」に還す作家であったことを記憶しておくべきである。彼は、「面白さ」が生じさせる「居心地の悪さ」を、あの時代の只中で、すでに体現していた者の一人なのかもしれない。

注1:『CINEMORE』『スパイの妻』を作った師弟愛。黒沢清・濱口竜介・野原位インタビュー【Director's Interview Vol.84】

注2:『文學界』11月号【鼎談】蓮實重彦×黒沢清×濱口竜介「歴史業の妻先へ----『スパイの妻』をとことん語る」

『スパイの妻』予告編を見る

荘子itが語る、「軽さ」の意味

―今回はテキスト、ありがとうございました。そもそも、黒沢清監督の作品を見始めたきっかけはどんなものだったのでしょう。

荘子it:BSでたまたまヒッチコック(イギリスからハリウッドに渡った映画監督、1980年逝去)の作品が放送されていたときがあって。それを観たのが映画にのめり込むきっかけになったんですね。僕の育った世代からすると、サスペンスやホラーって大どんでん返しが当たり前なんですよ。しかも、時間がループするとか、ストーリーが凝ってるものばかり。それに比べて、ヒッチコックの作品はあらすじに書かれたことくらいしか起こらないというのが逆に新鮮で。『サイコ』のラストとかも、影響を受けたであろう後続の作品を散々観ていたので、正直そこに驚きはなかった(笑)。でもその代わりに、むしろ映像や演出の強度のほうに惹きこまれ、古い映画も面白いかもしれないと思って、掘り下げ始めました。

自分は1993年生まれで、物心ついたときにはすでに黒沢清監督の代表作はソフト化された状態だったので、そうした古い映画を掘る過程で、黒沢作品も触れていったんです。『CURE』(1997年)や『カリスマ』(1999年)『蛇の道』『蜘蛛の瞳』(ともに1998年)は強烈な映画ですが、物語や映像のギミックとして驚くことが起きているわけではない。しかも、アンディ・ウォーホルのコンセプチュアルアートみたいに「なにも起きないこと」をテーマにしているわけじゃなくて、一見緩慢だけど緻密になにかが起きているんですよね。ギミックに溢れた作品と比較して情報量が少ないんじゃなくて、情報量の「質」が違う感じがして、そこが自分にとっては新鮮でした。

荘子it(そうしっと) / 撮影:垂水佳菜
トラックメイカー、ラッパー。TaiTan(Rapper)、没(Rapper,Sampler)からなる、3人組ヒップホップユニットDos Monosのメンバー。荘子itの手がける、フリージャズやプログレのエッセンスを現代の感覚で盛り込んだビートの数々と、3MCのズレを強調したグルーヴで、東京の音楽シーンのオルタナティブを担う。2020年8月に2ndアルバム『Dos Siki』をリリースした。

―大どんでん返しとかが作品の核にはなっていないですもんね。

荘子it:そこで、物語を楽しむものではないんだなと認識して。そのあと、蓮實重彦(フランス文学者、映画批評家)の「表層」を捉える批評などを読んで、初めて「こういうことか」と腑に落ちました。自分たちの世代からするともう過去の文化遺産だったはずの「表層批評」というものが、自分にとっては新鮮で。ただ、積極的にコミットするというよりは、一昔前に流行した変わった文化として、興味深さを感じていました。

―作品の時代背景や、登場人物の内面などではなく、画面で起きていることから、作品を論じる批評のあり方ですね。

荘子it:だから黒沢作品は、画面で起きる運動を捉える、作品内在的に観る映画の極北として捉えられていますが、今回のテキストでは、そういう作品を目指している黒沢映画が無意識に持ってしまう「軽さ」の外在的意味に着目しています。この「軽さ」は、太平洋戦争という出来事も相対化してしまうし、愛や郷愁を伴って、感動的で重いものとして戦争を描いてしまうアニメと対極的だなと感じたんです。アニメのほうが本来は虚構で、実写のほうが現実を映し出せるはずなのに、実写の黒沢清のほうが軽やかで、アニメは重たい物語を目指している印象があります。アニメを腐しているわけではなく、むしろ自分の世代にとってはアニメの描き方に親近感があるのですが、それゆえに黒沢清の映画は今も自分にとって新鮮であり続けている気がしますね。

―今回、「作品内在的に観る映画」として捉えている黒沢作品の、外在的意味に着目しようとしたのはどうしてでしょう? それは内在的批評に限界を感じられているからでしょうか。

荘子it:蓮實重彦系の内在批評が持っていた外在的価値って、すごく簡単に言うと、それまで支配的だった「物語や作品背景の読解への批判」だと思うんです。「表層批評」を僕らの世代からいきなり振り返ると異様に見えるけど、時代的必然性はすごくあったんだと思う。ただそれを今ベタにやっても時代的に限界がきていて、そこで黒沢清の映画でも、例えば宮台真司さんのように、表層の微細な差異は無視して、根本的な作品構造を精緻に抽出して、思想 / 哲学源流のタームを援用する批評のほうが説得力ありますよね。ただ、それだとやはり作家の実情と少し離れてしまう面はあって、今回のテキストで書いた「軽さ」のような適当さを、それ自体で肯定的に論じる必要があるんじゃないかと思いました。「天才黒沢清がやってくれた!」みたいな神格化をしないということです。

―「神格化」が、逆に作家の本来の価値に目を向ける妨げになっているとお考えなのでしょうか。

荘子it:「神格化」すること全てがダメだと思ってるわけじゃないんです。僕が尊敬する先輩である孔子it(ジャズミュージシャン、文筆家の菊地成孔を指す)などは、マイルス・デイヴィスやジャン=リュック・ゴダールを意識して、「ミスティフィカシオン(はぐらかし、自己神秘化)」を肯定的に論じていますよね。ネット以降、公人の私生活やらなにからなにまで全部の裏側をみせて、発言の公平性や一貫性やエビデンスばかりが重視され、個人崇拝が不可能な時代にあって、不可能性にぶち当たりながら、その文化的可能性の中心を指摘する、優れて批評的な態度だと思います。

とはいえ、自分の世代としては、もう少し下方修正した感じにはなりますね。いわば、「神秘化」ではなく、「キャラ化」の方向に可能性があると思っています。個人の纏うオーラを「すごい!」と言って崇めるのではなく、その存在に対する「愛で」を生み出すことって、一個人でしかない作家が大きな作品を生み出すために必要なプロセスだと感じています。それこそ、僕は現実の黒沢清という映画作家についてなにも知らないし、交流を持ちたいとも思わないわけですが、ある種の「キャラ」としてすごくリアリティーを持って接してる感じはありますね。

『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

―一方で、今回、脚本を担当した濱口竜介さんはいかがですか。

荘子it:濱口監督は、その表層を志向する黒沢イズムを受け継いだ上で、黒沢清の世代が一回、相対化しきった「重さ」とか「掘り下げ」「人間の内面」とかに改めて取り組もうとされている印象があって。本来は、そうした「ドラマ」を描くことって、表層に留まることと相反するものに感じるんですよ。僕は、そこがものすごく面白いバランスになっていると思うんですけど。濱口監督は、そうした「表層を描く」ことと、「人間の内面を掘り下げる」ことを同時にやろうとする、スリリングな作家だと思っています。自分がやってる音楽も、表現としては表層でしかないわけですが、やはりその裏には意図を込めたい作家の情念もあるわけで、そういう欲望を完全になかったことにしない濱口監督の姿勢に共感するところが大きいです。

ただ今回の場合は、テキストに書いた通り、黒沢清の「軽さ」が効いてたと思います。濱口監督が思い通りに撮るバージョンも観てみたかったですが、それはきっと今後自分の作品で追究なさると思うので、注目したいですね。

―「重さ」「軽さ」の話は、先ほど言われていたアニメとの対比の話でもありますよね。

荘子it:アニメは、過剰にコントロール可能な「絵」でしかないからこそ、物語の重みにこだわっていますよね。代替可能な自分たちが埋め合わせ合うことによって、過酷な戦争を乗り越えて、まがりなりにも今の生活を手にしているじゃないかと、現代を肯定するというテーマは、その最も顕著な例です。それと対比すると、あっけらかんとした黒沢の「軽さ」は、逆説的に今の自分たちの生活を肯定するようなものにはなっていなくて、そこがいい。アニメが「重さ」によって隠蔽していたものを、すべて明らかにしていますよね。「現実」を重いものだと信じたがっているけど、実際には、「現実」も「軽い」のだと突きつけてきますし、それまで信じていたものが揺るがされる感覚になります。だからこその「居心地の悪さ」があるんでしょうね。「こんなに軽くていいはずがない」と。黒沢清はあくまで表層に留まりながら、それによって波及する観客への効果というのがたしかにあると思います。観客が見たいと思っているはずの「重い」「感動」の物語を提供せずに宙吊りにするという。今回は、そういう効果に着目したつもりです。

『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

―そして、それを描くときの視点が「妻」であることにもテキストでは着目されてますよね。

荘子it:僕らからすると、性別問わず、蒼井優さんが演じる妻に自分を投影できるというか、妻が現代人の自画像になっていると思いますね。妻は夫から取り残されて日本にポツンといる立場ですが、それが自分たちの姿なんですよね。三島由紀夫が残した「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」という言葉のとおりに、僕たちはなっているじゃないですか。それくらい、僕らって空虚な国に取り残されてるんですよね。

―その「空虚さ」って、荘子itさんはどういうところにあると思いますか。

荘子it:信じられる理想や目的、つまり大きな物語が喪失したあと、タコツボ化した趣味趣向=小さな物語しかないというのがまず前提ですよね。そうなると高度経済成長とかバブルとか、浮かれたことでもない限り自分たちの日常が肯定されないから、もう「空虚」しか残ってないんですよ。1990年代以降の日本ってほとんどそうですし、僕なんかの世代は空虚な時代に生まれて、その空虚さを抜け出せないまま、今に至ってます。ただモードとしてはむしろ、「空虚だ」と言うことにすら飽きてきていますよね。それで、ポピュリズムや資本のルールに乗っかったりするのは動物的に当然の判断ですが、それとは別の回路があると思って、Dos Monosみたいな音楽活動をやってるわけです。

―そんなことを考察したテキストの最後では、山中貞雄(『人情紙風船』などで知られる映画監督、1938年逝去)について書かれて、締められています。

荘子it:山中貞雄も、自分たちと同じなんじゃないかって可能性を示唆しているんですよね。この『スパイの妻』の舞台である時代を、どうしても僕らは「重い」ものと捉えがちですよね。でも、そんな時代に映画を撮っていた山中貞雄は「軽さ」を獲得していた。黒沢清やアニメなどの現代文化の比較から引き出した抽象的なキーワードが、普遍のものとして適用できるのかもしれない。だとしたらそれがどんな意味を持つのか、今後も考えていきたいですね。

『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
作品情報
『スパイの妻<劇場版>』

2020年10月16日(金)から全国で公開

監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
出演:
蒼井優
高橋一生
坂東龍汰
恒松祐里
みのすけ
玄理
東出昌大
笹野高史
上映時間:115分
配給:ビターズ・エンド

プロフィール
荘子it
荘子it (そうしっと)

トラックメイカー、ラッパー。TaiTan(Rapper)、没(Rapper,Sampler)からなる、3人組ヒップホップユニットDos Monosのメンバー。荘子itの手がける、フリージャズやプログレのエッセンスを現代の感覚で盛り込んだビートの数々と、3MCのズレを強調したグルーヴで、東京の音楽シーンのオルタナティブを担う。2020年8月に2ndアルバム『Dos Siki』をリリースした。



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