※本記事は『あのこは貴族』の内容に関する記述が含まれています。あらかじめご了承下さい。
一人の男性を介して出会った華子と美紀。対照的な女性二人の邂逅
去年から今年にかけて、『ミセス・ノイズィ』『おろかもの』『私をくいとめて』『ファーストラヴ』『花束みたいな恋をした』など、女性の生き方についてフェミニズムやシスターフッドの視点を感じさせる日本映画が続けて公開されている。山内マリコによる原作をもとに、岨手由貴子監督が映画化した『あのこは貴族』もそんな一作だ。
門脇麦演じる東京生まれの榛原華子は、家族に言われるまま、それがごく自然な流れとでもいうように、お見合いを重ねる。そして弁護士・青木幸一郎(高良健吾)と出会い、他の相手に感じていたような違和感ではなく、ほのかな好意を感じ、自然な形で婚約する。それは幸一郎と初めて会って帰るときに華子が、「こんなことってあるんですね」と運命を感じたかのようにほんのりと上気したような顔で言う台詞からもわかる。もうひとつ、二人が自然に婚約できた理由には、お互いの家の階層や利害が一致していたということも大きかっただろう。それは家と家の結婚だったのだ。
ところが、幸一郎にはずっと交際している──と書くと単純であるが、交流を持っている時岡美紀(水原希子)という女性の存在があった。彼女は富山の封建的な家に生まれ、そんな窮屈な家から出たいという一心で勉強をして幸一郎と同じ名門大学に入る。しかし、ほどなく家業が傾き、学費が払えないせいで中退を余儀なくされる。その後、働いていたキャバクラで大学のときに見かけたことのあった幸一郎と再会し交流が始まるのだった。
こう書くと、一人の男性を介して、恋のライバルとなる二人の物語が始まるように見えるだろう。もしかしたら、『黒い十人の女』(ある男性の複数の愛人たちが、共に男性の殺害を企てるというあらすじの市川崑監督作。舞台やドラマでリメイクもされている)のように、二人が結託して幸一郎に復讐を企てる物語にだってなりうる。しかも、東京で何不自由なく暮らしてきた華子は、恵まれた環境にいるからこそ世間知らずで奥手な性質で、一方、田舎の出身で東京に出てくるも思い描いたような暮らしができず、それだけにそつなく社交的な美紀という、違いのありすぎる二人とあれば、この状況で対立するのは当然とも思える。しかし、そうならないのが2021年の東京の物語なのだろう。
ほんの少しだけ交わる二人の人生と、互いの女友達の存在
ではそれはなぜなのか。華子は、旧来「結婚適齢期」と言われてきた20代後半の年齢まで、家族が望む流れに身を任せながら、それでもどこかそこはかとない居心地の悪さや空虚さを感じていたのだろう。それは、彼女が結婚後も子供を産むことや幸一郎の仕事のサポートを期待され、その結婚が「家」の存続のためにあることを知ってさらに大きくなる。
一方の美紀は、同郷で同じ大学に行った友人の平田里英(山下リオ)ともども、勉強をして有名大学に入ったにもかかわらず彼女たちが自虐的に言うように、「東京の養分」にされてきたと感じている。だからこそ、やはりままならない思いをつのらせていたのだ。
実は華子と美紀の人生は、劇中で少ししか交わらない。美紀は同郷の出身の里英と強いシンパシーを感じあっていて、「東京の養分」にされた二人だからこそ、更に結びつきを強める。華子にもまた、学生時代からの友人であり、この中でも一番、先進的なフェミニストでもあるプロバイオリニストの相楽逸子(石橋静河)という存在がいる。
けれども、ほんの少しだけすれ違った華子と美紀にとって、お互いの存在が、彼女たちの人生を振り返らせ、それぞれを前に進ませる。そのことが、人生の中でほんの短い交わりであっても、彼女たちの間にシスターフッドを生んでいる。シスターフッドとは、何も目に見える熱いつながりや友情だけに宿るわけではないのだ。
この映画で、美紀は颯爽と自転車に乗っていたり、里英と二人乗りをしたりするシーンがある。華子も美紀も、どことなく自分の人生を生きている感覚が持てないでいるようなところが見えたが、美紀たちが先にそこから抜け出した。そして、力強く自転車をこいでいる姿を見て、華子は心を動かされる。この映画を見ている私たちも、具体的に説明がつかないにしても、どことなく自分の人生を生きている感覚が持てない経験があれば(それは悲しいことだが)、同じように共鳴してしまうのではないか。
この映画は、シスターフッドをうたっている。それは嘘ではないし、その思いは見終わった後にも変わらない。しかし、実は見る前に思い描いていたシスターフッドとは違うものが描かれていた。華子と美紀が出会い、反発しあうも、その後に友情を感じ、がっちりと手をとりあうようなわかりやすいものを想像していたのだ。しかし、実際には、彼女たちは、人生の一瞬が交差し、そこから何かを感じ合い前向きになる。そのゆるやかだけど確かな連帯こそが、この映画の良さのように思えたのだった。
「幸一郎」という人物に見る、男社会や家の呪縛にがんじがらめになる男性像
しかし、華子と美紀に繋がりをもらたす媒介となる幸一郎も不思議な存在だ。彼は美紀を階層の違いから正式な交際相手とは見ていないような男性であるし、そのことが美紀に対してだけでなく、華子に対しても不実であるともいえるのだが、美紀が彼のことを「ほんとはそんなにやな奴じゃないと思うんだけど……」「この十年間、幸一郎が一番の友達だったから」というシーンは彼女の本心だったように思う。幸一郎は、彼自身は根っからの悪人というわけではないようだ。彼が、二人の女性と不誠実なコミュニケーションをしてしまうのは、彼の環境にも理由があるようにも見える。また、自分から男社会や家に縛られようとしていたのではなく、その「家」の呪縛ががんじがらめすぎてそこからどうやっても逃れられない人でもあった。
だから幸一郎は、さまざまな呪縛から放たれた華子の、自分の人生を取り戻し、生き生きとした表情を見て(このとき、華子が逸子と三輪車に二人乗りしているのもいい)、少しだけ羨ましく感じたとしても、自分自身ではどうにも身動きすることはできない。そんな幸一郎の姿を見て、香港映画『インファナル・アフェア』のワンシーンを思い出した。この映画で、警察に潜入したヤクザが、警察学校をドロップアウトして退学になる警察官を見て「ああなりたい……」とつぶやくシーンがあるのだが、それは、警察に潜入したヤクザが、そこから逃れられない強い呪縛があることを表している。実際には、警察学校の学生もまた、潜入捜査をするためにドロップアウトしたように見せかけただけで警察組織に縛られており、二人は同じように縛られているということが、シンパシーを生むのだが、こういった男同士の物語には華子や美紀のような出口がないのが美学でもあり悲しみでもある。
幸一郎の場合はシンパシーを感じる男性の友人の存在も、北野武の映画『キッズ・リターン』の主人公たちのように男同士、自転車に二人乗りをする存在もなく、ただ呪縛から放たれた華子の表情を見て「ああなりたい……」と思ったのではないか。しかし、そう思ったからといって、そこから自分の意思だけで抜け出すことが非常に難しい環境にある幸一郎を思うと、現代の男性の「放たれにくさ」を象徴しているようにも思えたのだった。
- 作品情報
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- 『あのこは貴族』
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2021年2月26日(金)から全国公開
監督・脚本:岨手由貴子
原作:山内マリコ『あのこは貴族』(集英社文庫)
出演:
門脇麦
水原希子
高良健吾
石橋静河
山下リオ
佐戸井けん太
篠原ゆき子
石橋けい
山中崇
高橋ひとみ
津嘉山正種
銀粉蝶
配給:東京テアトル、バンダイナムコアーツ
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