《自画像》1904年、東京藝術大学康本雅子と行く『没後100年 青木繁展ーよみがえる神話と芸術』
ロマンティシズムに満ちた洋画で明治画壇に颯爽と登場した青木繁。明治を代表すると言っても過言ではない彼の絵画は、教科書で目にしたことがあるかもしれません。28歳の若さで夭逝した青木繁の没後100年を記念して、ブリヂストン美術館では「没後100年 青木繁展ーよみがえる神話と芸術」が開催中。この展覧会の魅力を、世界を股にかけ活躍するダンサー・振付家の康本雅子さんとともに探ってみましょう!文:橋本倫史 撮影:西田香織
康本雅子
これまでに自作品<ナ花ハ調><夜泣き指ゅ><ブッタもんだすって>などを日本国内12都市とイタリア、韓国、マレーシア、タイ、インドネシア、NYにて上演した。また、ダンス公演のみならず、演劇、音楽、映像、ファッション界等、多岐に渡るジャンルにおいて活動している。次回出演作は、『吾妻橋ダンスクロッシング2011
』8月19日(金)〜21日(日)@アサヒ・アートスクエア。
康本雅子(やすもとまさこ)公式ウェブサイト | Masako Yasumoto Official Web site1. 朱色の線に込められた理想の姿伝説的な画家の回顧展ということで、ドキドキしながら会場に足を踏み入れた康本さん。最初の部屋に入ると、学生時代の作品が出迎えてくれました。《自画像》1903年、石橋財団石橋美術館第1章のタイトルには、「画壇への登場――丹青によって男子たらん」とあります。「これは自画像なんですね。でも背景と自分の姿が溶けてて、朱色の線が入ってる。この朱色がポイントなんでしょうね。この線を描かなければそのままの自分だけど、朱色を入れることで『ホントの俺はこうなんだ!』っていう理想を込めているんじゃないですかね」この部屋には、青木が友人と一緒に出かけた写生旅行で泊まった宿の「宿泊人届簿」も展示されています。まだ学生だというのに、肩書きに選んだのは「画伯」でした。「そういう気持ちって大事ですよね。まず、自分が自分を認めないと。私もダンスを始めたとき、知り合いから『まずダンサーという肩書きで名刺を作れ』って言われたんですよ。そうやって自分の尻を叩くようなところは私にもありました。ただ、青木さんはまだ20歳の学生だったのに『画伯』って書いてる。よっぽど意志が強かったんでしょうね」2. 日本の海のしょっぱさ第2章のタイトルは「豊饒の海」。1904年、写生旅行に出かけた青木繁は、千葉県館山市に約一カ月半滞在しています。その時期の代表的な作品が、『海の幸』です。《海の幸》1904年、石橋財団石橋美術館作品に登場する魚のつもりになってポーズを取る康本さん。絵の感想を伺ってみると?「横長で高さが低くて、壁画のような雰囲気がありますね。かついでる魚は鮫なんですか? 『海の幸』っていうことは、この鮫、食べるんですよね…それにしてもすごい迫力」。一人だけこちらを向いている白い顔の人物は、恋人をモチーフにしていたという説もあるそう。「恋人をこんなふうに描くなんて…やっぱり激しい性格ですね、青木繁は」青木繁の作品には、シンプルな日本語のタイトルが多くみられます。康本さんの作品も、日本語のタイトルをよくつけていらっしゃいますが?「特に和風にしたいと意識しているわけじゃないんですけど、タイトルって、作品を観るための道案内みたいなものなので、分かりやすいほうがいいですよね。それなら、記号的なものよりも、具体的にイメージできる言葉を選ぶのが好きなんですね」。タイトルによって、見る側の想像力をかき立てる作品が多いのは、青木繁と康本さんに共通したところなのかもしれません。《海景(布良の海)》1904年、石橋財団ブリヂストン美術館青木の作品には、海がモチーフとなった作品が多くあります。「こうして見ると、日本の海ってほんとにゴツい感じがしますよね。しょっぱそうっていうか」海を描いた荒々しいタッチの絵は、青木の心模様をそのまま映し出しているかのように感じられます。では続いて、さらなる大作も登場する、次の展示室へと向かいましょう!2/3ページ:時間とともに変化する芸術家のモード 1 | 2 | 3 | 次のページ橋本倫史1982年東広島市生まれ。ライター。07年、リトルマガジン『HB』創刊、編集発行人を務める。『en-taxi』(扶桑社)、『マンスリーよしもとPLUS』(ヨシモトブックス)等に寄稿。向井秀徳初の著書『厚岸のおかず』(イースト・プレス)制作にも携わる。
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