秘密ロッカーのヒミツ大捜索
Special Feature
Crossing??
CINRAメディア20周年を節目に考える、カルチャーシーンの「これまで」と「これから」。過去と未来の「交差点」、そしてカルチャーとソーシャルの「交差点」に立ち、これまでの20年を振り返りながら、未来をよりよくしていくために何ができるのか?
人に歴史ありとはまさにこのことか。HIROKI氏は「適当な人生だろ?」と軽く笑って話すが、その裏に壮絶な苦労があったことは明らかだ。見た目はちょっとコワモテだけど、何事もトコトン追求する努力の人を裏付ける、こんなエピソードがある。
―じゃあ、STROBOをやりながら、プロデューサー業も兼務して?
HIROKI:そうだね。新人アーティストをプロデュースしつつ、STROBOはどんどん山のほうに行って、『フジロック』とかも出れるようになって。でも、プロデューサーのほうは大変だった。新人プロデューサー候補生がいろんなスタジオに送られるんだけど、小僧が行っても誰も相手にしてくれなかったから。音楽のことも機材のことも知らないから、「もっとこうしたいんです」とか言っても、形にできない。それがすごい悔しくて。
―それをどうやって乗り越えたんですか?
HIROKI:当時は、打ち込みなんかを担当するマニピュレーターと言われる人たちがいたんだけど、「こんな感じでお願いします」って言っても適当にあしらわれて。それがどうしても許せなかったから、もう「自分でやる!」って。そういうのに詳しい友達に「教えてくれ!」って頼んで、100万くらいかけて機材を揃えたんだよ。そこからひたすら勉強したら、社長からも認めてもらえるようになったんだけど、プロデューサーとしてはまだまだ新人だから、他の人がやりたがらない、何かしら問題のあるアーティストばっかりまわってくる。実はDt.もその問題のあるアーティストのひとつで。
―Dt.はHIROKIさんが組んだバンドじゃなかったんですか?
HIROKI:最初はプロデューサーとして関わってたんだけど、ちょっとした問題が起きて、ボーカルが歌えなくなっちゃって。それで「どうしよう?」ってなったときに、社長が「お前の好きなようにやっていいから、そのまま続ければ?」って言ってくれて。それで残ったミュージシャンを集めてアルバムを作ることにしたの。あのときめちゃめちゃ金使っちゃったんだよね。3,000万は絶対に使ってると思う。
―サ、サンゼンマン!
HIROKI:それでリリースをしたら、イベントの話が来て、ライブをやらなきゃいけなくなったんだけど、ライブなんか想定してなかったから、どうしようって。そのときにセンチメンタル・バスのなっちゃん(赤羽奈津代)がちょうど辞めたらしいから声をかけて、JASONSの辞めたボーカル(HIDE)にも1回でいいからやってくれって。でも、やってみたらけっこう手応えがあったんだよ。だから、がっつりミクスチャーロックに振って続けてみようということになったんだけど、その矢先にアンティノスが潰れて宙ぶらりになっちゃって。
―なかなかうまくいかないっすね。
HIROKI:まぁ、もともと寄せ集めだし、最後に1枚出して終わろうよって話して、リリース元を探してたの。それで当時のマネージャーがavexの新人発掘のところに行ったらしいんだけど、アポも取らずに押しかけたから、結局会えずに「そういう人はここに入れてください」っていう箱にデモを入れて帰ってきたんだよ。俺はマネージャーに「なんでちゃんとした会社同士なのにアポ取って行かないの? そんな箱に入れて聴くわけないじゃん」って言ってたんだけど、そこから連絡が来て「ウチで出したい」と(笑)。「えええ! 決まっちゃったの!?」みたいな。
―ちゃんと聴いてたんですね(笑)。
HIROKI:ただ、その頃にはもうDragon Ashのメンバーにもなってて。さらに(Dragon Ashの)桜井さんとendiveっていうユニットも始めたから、STROBO、Dt.、Dragon Ash、endiveで1年に4枚アルバムをリリースしなきゃいけない状況になっちゃって。だからツアー中に楽屋で曲作ったりしてたよね。
メジャーデビュー目前にして、まさかのバンド消滅。そこから新人プロデューサーとして過酷な修行を積み、気づけば4つのバンド / ユニットで八面六臂の活躍をすることとなったHIROKI氏。しかし、同時に4つものプロジェクトを並行して活動させることは、容易に想像できる通り、肉体的にも精神的にも耐え切れるものではなかったようだ。
―Dragon Ashはどういう経緯でメンバーに?
HIROKI:ちょうど『Viva la revolution』を出して、kjがギターを弾かずにハンドマイクで歌ってる状況だった頃に、馬場さん(IKUZONE)と共通の知り合いから、「ギター探してるんだけどやってくんない?」って。とりあえず「リハ入ろうよ」ってなったから、オーディションみたいな感じなのかと思ったら、それがツアーリハだったという。
―既に加入する前提だったんですね(笑)。
HIROKI:で、あれよあれよといううちに『FACTORY』の収録ですって、テレビ局に連れて行かれて、ツアーも始まって。その年に『ROCK IN JAPAN FES』が始まったんだけど、フェスとか出るんだなぁって言ってたらトリで。「トリなの!?」って(笑)。その年は『SUMMER SONIC』も出たのかな。
―ほんと、あれよあれよという間に。
HIROKI:裏方でプロデュースとかやりながら、自分は自分で好きな音楽を別でやってればいいと思ってたんだけど、なんかそういうところに呼ばれて行くようになって、「俺でよければ」みたいな。もちろん、そういう状況はうれしかったんだけど、やっぱりキツかったよね。Dragon Ashも『Harvest』を出したときは、最初ずっとkjと二人で作ってたの。「いついつ来れる?」みたいな感じで、昼の2時くらいに呼び出されて、朝の4時くらいまで作業して。あいつ、メシも食わないから、次の日から毎日俺がおにぎりとかお茶とか買って行って。それで朝の5時くらいに帰ってから自分の曲をやって。「もうダメだ!」って倒れて、起きたらまたスタジオに行く。
―もう頭がこんがらがりそうですね。
HIROKI:メンバーからも「死ぬよ」って言われてたけど、楽しかったから。でも、Dt.の契約がなくなってからは、とりあえず1年くらいライブハウスで地道にやってたんだけど、精神的にもキツくなっちゃって、1回休ませてくれって。それからはSTROBOをマイペースにやりつつ、endiveも桜井さんがひとりでDJをやることが増えたからちょっと余裕もでてきて。それで、自分のバンドとかプロジェクトじゃなくて、楽曲提供とかプロデュースとか、そういうことをやりたいなと思って。