1968年はどんな年? THE BEATLESが“Revolution”を、THE ROLLING STONESが“Street Fighting Man”をリリースした年であることからもわかる通り、世界的に社会変革が人々の間で語られ、またその挑戦がなされた季節でもありました。そしてこの1968年は、日本の写真界でもそれまでの価値観に収まらず、ときにそれを挑発し、覆すような動きが同時発生した時期。半世紀近くを経たいま、これを見つめ直す展覧会が、東京都写真美術館での『日本写真の1968』展です。激動の季節に起きた4つの写真史的「事件」とは? それは現代にどうつながるのか? 企画を手がけた金子隆一・同館専門調査員に伺いつつ探りました。
写真家たちが自ら動いた『写真100年―日本人による写真表現の歴史展』
読者の多くがそうかと思いますが、これを書いている僕自身、1968年にはまだ生まれていません。試しに「1968年」でWikipediaしてみると……(ちなみにWikipedia設立者のひとり、L・サンガーも同年生まれ)。チェコで「プラハの春」が、パリでは「五月革命」が勃発。アメリカではベトナム戦争や公民権運動のただ中で、キング牧師やR・F・ケネディの暗殺が世に衝撃を与え、秋にはニクソンが大統領に選出。日本では、続々開通する新交通網、初の超高層建築・霞が関ビル完成などが目立ちますが(ほか『少年ジャンプ』創刊、川端康成の『ノーベル賞』受賞も)、東大闘争、三里塚闘争といった言葉が踊るものものしさもあります。
展示風景
今回の『日本写真の1968』展では、この年に起こった写真界の大きな動きを4セクションに分けて紹介します。最初の「事件」は1月早々、西武百貨店で開催され、いまも語り継がれる写真展でした。その名も『写真100年―日本人による写真表現の歴史展』。幕末・明治から太平洋戦争終結までの日本写真の歩みを、ほぼ初めて体系化した試みだったそうです。さらに注目したいのは、実現のための調査に奔走したのは、東松照明、多木浩二、内藤正敏、中平卓馬など、後に巨匠と呼ばれるものの、当時はまだ中堅〜若手の写真家たちが多かったことです(主催は日本写真家協会)。
撮影者不詳 武士と従者 1871-1880年頃 (写真一〇〇年展複写パネルより) 日本大学藝術学部
今回の展覧会では、この『写真100年』展の一部を再現するような一画が出現。明治期に撮られた有名・無名の肖像から、アラーキーも影響を受けたという近代写真のパイオニア・野島康三がとらえる野性的な女性の美まで。歌舞伎スターの写真と名台詞を組にした『俳優写真競』から、原爆投下後の長崎を象徴する写真が世界的に知られる山端康介まで。何せ100年ぶんの厳選・濃縮なので、被写体も技法も本当にさまざまです。展覧会名にもある「写真表現」という言葉の意味合いと、その変遷を考えさせられます。
撮影者不詳 アイヌ 1871-1880年頃 (写真一〇〇年展複写パネルより) 日本大学藝術学部
今回『日本写真の1968』展を手がけた金子隆一・東京都写真美術館専門調査員も、写真青年だった大学時代にこの『写真100年』展に衝撃を受けた1人でした。
金子:とにかく全体の質と量が生む厚みに圧倒されました。企画メンバーは日本中を分担調査し、50万枚超の写真を見て展覧会を作り上げたそうです。さらにこの試みは、日本写真の本格的な収集・保存への議論のきっかけにもなりました。それは後にこの東京都写真美術館が生まれ、収集を始めていく流れとも密接につながります。私自身にとっても、写真を研究するうえで根底にある出来事の1つなんです。
(右)土門拳 一億一心歯車のように (左)真継不二夫 海軍兵学校
1943年 (写真一〇〇年展複写パネルより) 日本大学藝術学部
いまでは日本全国の美術館・博物館やギャラリーで「写真史」が語られ、日々新たに積み重ねられています。それをさかのぼれば、気鋭の写真家たちが高名な評論家や研究者に任せず、自らの手で紡ぎ出したこの『写真100年』展がある。当然、彼らにはその延長線上で自らの写真を正当に位置づけたいという動機もあったかもしれませんが、そこに捧げられたパワフルな熱量はいまなお色褪せません。『写真100年』展の功績は、それまで全国区で評価されていなかった田本研造(開拓期の北海道を記録。土方歳三のポートレートも有名)らの「発見」にもあったそうです。2013年を生きる僕らは、ここに何を発見できるでしょうか。
たった3冊+αで伝説となった写真雑誌『プロヴォーク 思想のための挑発的資料』
1968年の2つ目の「事件」は、この年の11月に出現した、ある同人写真雑誌。それが『プロヴォーク 思想のための挑発的資料』です。『写真100年』展にも関わった中平卓馬と多木浩二に加え、高梨豊、詩人の岡田隆彦を同人に創刊。2号からは森山大道も参加。従来なら御法度とされる「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる表現で、それまでの写真の枠組みを破壊するような内容が論議を巻き起こしました。いまでこそこうした荒い粒子やピントのズレた写真も「表現」としてふつうに見られます。しかしその原点は、この時代特有のラディカルな思考やザワザワ感にあったようです。今回は貴重な雑誌現物および、掲載写真のオリジナルプリントも展示されます。金子さんは『プロヴォーク』創刊時をこう振り返ります。
金子:高梨さんのスタイリッシュな写真は好きでしたが、その彼が「政治的な写真雑誌を作るらしい」と噂に聞き、驚いたのを覚えています。実物を手に入れてみると政治的というより、写真の常識を一度まっさらにして考えるような態度がまさに挑発的で、また驚かされましたね(笑)。
『プロヴォーク』第三号
『プロヴォーク』は1969年8月に刊行された3号、および1970年刊行の総括的な書籍『まずたしからしさの世界をすてろ』で短い活動を終えますが、そのインパクトは多大なものでした。なお、森山大道は以降も個人写真誌『記録』を発行、これも本展で展示されます。個人・同人による出版物が、旧来の大手メディアとは異なる勢いを発揮した時期でもありました。
多木浩二 1968・夏(『プロヴォーク』第一号より) 1968年 個人蔵
当時の森山さんは個展会場にコピー機を持ち込み、コピーした写真をシルクスクリーンの表紙に包んでホチキス留めで来場者に渡したりしたそうです。現代で言えばZINEや、ネット上での個人発信のはしりでしょうか。今回も、元の写真から変貌した荒いテクスチャーの作品が見られますが、金子さんいわく「むしろこちらが『オリジナル』と言いたくなる」とのこと。自分たちに使えるスモールメディアの可能性にも意欲旺盛に挑む姿は、時を超えていまの写真家たちにも受け継がれている?
森山大道(『プロヴォーク』第三号より)1969年 東京工芸大学
なお金子さんは2万冊(!)を超える写真集コレクターとしても知られるお人。今回も、プリントが消失したという作品も見てもらおうと、自身の持つ『プロヴォーク』現物をバラして展示するという、思い切った形で展覧会に奥行きを与えています。
多木浩二 1968・夏(『プロヴォーク』第一号より) 1968年 個人蔵
ちなみに、荒木経惟が自らの新婚旅行を記録した私写真集『センチメンタルな旅』を自費出版で世に送り出したのもこの近辺、1971年のことでした。本展では『プロヴォーク』セクションに続く「インターリュード」(間奏曲)として、同写真集と、渡辺克己によるアンダーグラウンド色満載の『新宿群盗伝66/73』から数点が展示されます。「既成概念への異議申し立て」がこの時代のキーワードだとすれば、これらはその「変奏曲」とも言えそうです。
渡辺克巳 あいさつする人(「新宿群盗伝 66/73」より) 1969年頃 個人蔵
日常性への静かなる挑戦? 「コンテンポラリー写真」ならぬ「コンポラ写真」
3つ目の出来事は、前2者ほど明確な形を持たない、逆に言えば多様性を持った現象でした。「コンテンポラリー写真」ならぬ「コンポラ写真」と呼ばれた一連の写真表現の潮流です。ベンチで佇む女性たちや街頭のワンシーンなど、日常の何気ない瞬間をとらえた写真の数々。決定的瞬間というわけでもなく、一見、何かに挑みかかる雰囲気も希薄です。しかし金子さんはこう言います。
金子:『プロヴォーク』の写真を「何が写っているのかわからない写真」とするなら、コンポラ写真は「何が写っているかはわかるけど、何を撮ったのかわからない写真」と言える。それは日常性への挑戦と言ってもいいかもしれません。
関口正夫 (「日々」より) 1967-70年 作家蔵
コンポラ写真という呼び名の由来は、1966年にアメリカで開かれた『コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景に向かって』展。私的視点で世界を撮る写真に注目したもので、1968年に雑誌『カメラ毎日』も日本のこうした動向を取り上げました。同誌上で大辻清司(畠山直哉らも師事した写真家)がこれを『コンポラ写真』と紹介し、この言葉が流行のように使われ始ました。
秋山亮二 夜の国道二号線のトイレ(「旅ゆけば・・・」より) 1970-71年 東京都写真美術館
今回は、その代表的存在と言われる牛腸茂雄や新倉孝雄、また稲越功一や石黒健治らの写真が多数並びます。ここで金子さんから「実はコンポラ写真という言葉は、常に褒め言葉として使われたわけでもないんです」と気になる発言。ときには蔑視的ニュアンスでも使われ、そう呼ばれるのを拒む写真家も多くいたそうです。「ムーブメント」で括られると起こることは、いまも昔も変わらないようですね……。
金子:でも、いまでは海外の日本写真研究者にも「Konpora」として注目される潮流なのも事実なんです。美術館図書室でも、海外の若い研究者が嬉しそうに昔の雑誌を積み上げている姿をよく目にしますよ(笑)。そこで今回はあえてそのまま用いました。また、日常性とひとことで言っても、例えば田中長徳は近所の町並みと全共闘のものものしい集会を並列にとらえ、稲越は通学途中の女学生も、原爆によりケロイドを負った女性も撮る。田村彰英が写す横田基地の飛行機に「ベトナムで爆撃してきたんだろうか」と想像する一方で、同時に格好良さも感じてしまう。コンポラ写真にはそういう顔もあると思います。
田村彰英 横田(「BASE」より) 1968年/2012年 東京都写真美術館
声高な証言写真ではなく、ラディカルな表現の模索でもなく――しかしだからこそ、写真家と時代の皮膚感覚をいまに伝えてくれる。写真家たちの意図もそれぞれでしょうが、コンポラ写真は、そんな一筋縄ではいかない顔も持つようです。「日常」との関係は、写真を語るうえでいまなお続くテーマ。後にインスタントカメラ、デジカメ、ケータイ、そしてブログやSNSの登場……と続く日常写真の拡散を経たいま、現代(同時代)=コンポラの写真が持つ被写体との距離感を改めて考えさせられました。
大学生写真家たちが撮った日本「写真の叛乱(はんらん)」
4つ目の出来事は、若き学生写真家たちによる活動でした。中心になったのは「全日本学生写真連盟」。国内各地の大学写真部を軸にした学生写真家たちのネットワークです。彼らは当時激しかった学生運動のリアルな現場を間近で記録しただけでなく、自らの問題意識をもとに、1968年には広島、北海道などを各々の視点で撮影していく「集団撮影行動」を始めます。いまどきの写真サークルの「撮影ツアー」と違う雰囲気は、字づら的にも伝わりますね。それぞれの地域に、被爆問題や近代開発の矛盾を見つつ、それを単純化せず生身でとらえようとの思いが、多くの学生を現地に向かわせました。実は金子さんも大学の写真部在籍時代、北海道への集団撮影行動に参加したそう。
全日本学生写真連盟北海道一〇一実行委員会 美唄 (「北海道一〇一」より) 1968年
金子:撮影地域を10数ブロックに分け、数人のグループで撮影に出かけることを20回近く行いました。総計では数百人が参加したと思います。そうして撮られた写真は、各地で行った合宿で厳選しましたが、未だ本にはなっていない「未完のプロジェクト」です。僕にとってはここで多くの優れた学生写真にふれたことで、自分に撮る才能は無い、別の形で写真に関わろうと決めるきっかけにもなったんですけどね(苦笑)。
全日本学生写真連盟北海道一〇一実行委員会 オホーツク (「北海道一〇一」より) 1968年
展示写真は、北井一夫(『第1回木村伊兵衛写真賞』受賞者)による学生運動の記録なども含みますが、多くは撮影者名も明らかでなく、金子さんが地道に探し集めたものです。
金子:特に学生運動では激しい衝突や取り締まりもあったし、当時はもちろん、その後も「自分が撮った」と公表する人はほとんどいません。しかしそれも含めて、ここには匿名の写真家たちが勝ち取った、ひとつの表現世界があると思うんです。
北井一夫 (「バリケード」より)1968年/2010年 東京都写真美術館
既存の価値観を疑う「主体」であろうとしながら、声を大きくするためには集団性・匿名性を帯びていく学生運動の複雑さ。思いはそんなことにも及びましたが、一方では『写真100年』展セクションで見た日本写真の黎明期における「撮り人知らず」な写真群の底力も思い出されます。金子さんも「写真におけるアノニマス(匿名性)は、現代にもつながるキーワードのひとつでしょうね」と言います。それは、写真は何のため、誰のために撮られるのかという永遠の問いにもつながります。
渡辺眸 (「東大全共闘」より) 1968-69年 作家蔵
かつて・いま・これからの『写今人』たちに捧げる展覧会
実は、同展には4つの出来事ごとのセクションと別に、「プロローグ」と「エピローグ」が展示されています。前者では広告写真をモチーフに世相を斬る篠山紀信の1966年の作品などが見られる通り、それぞれ1968年前後の動向を示す作品が展示されています。そしてこの両方に登場するのが、昨年亡くなった写真家・東松照明です。金子さんは「日本写真の1968年を考えるとき、東松に始まり東松に終わるようなものを感じています」と打ち明けてくれました。
篠山紀信 スチーム・アイロン(「アド/バルーン」より) 1966年 東京都写真美術館
金子:『写真100年』展での役割はもちろん、そこで関わった中平や多木が『プロヴォーク』を生んでいる点。さらにドキュメンタリーへの考え方など、陰に日向に、当時の写真動向へ東松さんが与えた影響を感じます。晩年を過ごした沖縄での写真は、社会に訴えるというより「沖縄へ返すために撮る」と語っていたのも印象的です。このことは、東日本大震災時に、泥まみれになった写真を洗浄した人々の行為ともつながると思うんです。写真とは誰のためのものなのか。東松さんには本展のためにインタビューを考えていたのですが、ついに叶いませんでした。ぜひ展覧会を見て頂きたかったですね。
東松照明 波照間島(「太陽の鉛筆」より) 1972年/1989年 東京都写真美術館
その東松は生前に『写今人(しゃこんじん)』というエッセイを残しています。写真という言葉に対し、「真とは何か、相対的にして掴みどころがない」「たとえ被写体が千年の時を刻んでいても、カメラが写すのは千年を経て『いま』あるところの事物である」と言いました。一瞬の光の記録である写真=写今。常にその時々の「いま」しか写らないとすれば、2013年に生まれる写真と、1968年に問いかけられたものの間には当然隔たりもある。しかし、形を変えて受け継がれたもの、忘れ去られたものを探すことはできます。金子さんは「この展覧会は私にはよく馴染む世界ですけど、当時を知らない世代にはちょっと暑苦しいですかね」と苦笑いしつつ、こうも話してくれました。
東松照明 開いた海―奄美(「われらをめぐる海」より) 1966年 東京都写真美術館
金子:でも、この時代を共有した人々も、当然これだけで生きてきたわけではありません。今回、館の休憩スペースを「ラウンジ1968」として当時のポピュラー音楽を聴けるようにもしていますが、井上陽水やピーター・ポール&マリーの雰囲気と、当時の写真は私の中でどこかでつながってもいます。そして、いまだからこう色々振り返って語れるし、現代なら、たとえば川内倫子の写真もいいなぁと思いながら写真を研究し続けるわけです。今回の展覧会が、広く時代や社会状況と、写真との関係を考えるきっかけになればと思います。
「ラウンジ1968」で流れる当時のポピュラー音楽のジャケット
自分の見知らぬかつての大きな転換点を通していまを見つめ直すひとときは、貴重な体験となりました。1968年は激しい時代だったのだなと思う反面、いまも形は違えど「激動の時代」かもしれない。また「歴史は繰り返す」と言うけれど、それが単なる堂々巡りでないとしたら、写真はその違いをどう残していけるのか。50年後に「日本写真の2013年」を考える人々には、この世界はどんなふうに映るのでしょう。そんなことも考えながら、会場を後にしました。
- イベント情報
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- 『日本写真の1968』
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2013年5月11日(土)〜7月15日(月・祝)
会場:東京都 恵比寿 東京都写真美術館2階展示室
時間:10:00〜18:00(木、金曜は20:00まで、入館は閉館の30分前)
出展作家:
東松照明
森山大道
中平卓馬
高梨豊
田本研造
武林盛一
桑原甲子雄
牛腸茂雄
鈴木清
新倉孝雄
田中長徳
田村彰英
渡辺眸
ユニット69
ほか
休館日:月曜(月曜が祝日の場合は開館し、翌火曜休館)
料金:
当日 一般600円 学生500円 中高生・65歳以上400円
前売・団体 一般480円 学生400円 中高生・65歳以上320円シンポジウム
『日本写真の1968』
2013年6月15日(土)14:00〜17:00(開場13:30)
会場:東京都 恵比寿 東京都写真美術館1階ホール
出演:
倉石信乃(明治大学教授)
金子隆一(東京都写真美術館専門調査員)
ほか
定員:190名(事前予約不要)
料金:無料
※同展覧会の半券をお持ちの方に当日10:00より整理券を配布担当学芸員によるフロアレクチャー
2013年6月14日(金)、6月28日(金)、7月12日(金)16:00〜
※同展覧会の半券(当日有効)を所持の上、会場入口に集合
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