「フジワラノリ化」論 第11回 小林聡美 「何気ない日常」の創造主 其の一 「小林聡美っぽい」が氾濫する現在

其の一 「小林聡美っぽい」が氾濫する現在

いきなり当人の話題から脱線するようだが、フィンランドの自殺率は、人口10万に対して18.8人と、世界各国の中で15番目に自殺者が多い(WHO調べ・2009年度)。同調査で日本は24.4人、これは世界で6番目となり、日本が自殺大国であることは周知の事実だ。では自殺率が低い国はどこかと調べてみると、ヨルダンやエジプトが0.0人、イランが0.2人、クウェートが2.0人となる。つまり、自分で死のうと思うなんてのは、とりあえず明日が保証されている国でしか生じない感情なのかもしれない。皮肉である。明日が見えている人しか、今日で人生を絶ち切る選択肢を持てないのだ。フィンランドの自殺率の高さをデータで示されて、驚いた人は多いだろう。なぜならば、日本から見える昨今のフィンランドは、もっと朗らかで、オシャレで、人情から建築物までナイスな国のように捉えられているから。ここから少しだけ自分の専門分野の話になってしまうが、北欧地方には、デスメタルバンドが多く存在する。デスメタルを一言で表すのはいずれにせよ本意ではないが、ヘヴィメタルという音楽をより混沌とさせ退廃的な歌詞を乗っけていく、音楽形態として極致にあるジャンルである。フィンランドのデスメタルバンドのインタビューで、何故デスメタルをやるのかと問われ、こう答えていたのを記憶している。「ここにいる若者は自殺するか、デスメタルをやるかしか、選択肢が無いんだよ」と。「(笑)」が付いていたような気もするが、とにかく、若者は鬱屈していると。なるほど、何だか日本に似ているわけである。明日にでも死んでしまいそうな環境は無いけれども、明日死のうと思いがちな鬱屈が打ち寄せてくるのである。

それなのに何故か北欧礼讃が止まらない。雑貨系の雑誌は当然として、女性誌の類いが、困ったら北欧特集を繰り返している。それらの記事の意図は「ここではないどこかに良いモノ・場所があるに違いない」にある。しかし、フィンランドも日本も、窮屈なのだ。ああもうイヤだ、このままだと気が変になってしまいそう、と日本を出ていくのならば、もしかしたらエジプトへ行くほうが、心の安定は保たれるかもしれない。小林聡美主演の「かもめ食堂」が映画化されたのは、2006年のことである。フィンランドの首都・ヘルシンキに日本食堂をかまえる小林の元に、流浪する片桐はいりともたいまさこがやってきて、日本女性3人による食堂での生活が始まる。久しぶりに鑑賞したが、実に素晴らしい映画である。料理の映し出し方からフィンランドの光景まで、フレームに入り込む素材が、全て過剰にならずに抑えられている。抑えた所に素材や景色の魅力を抽出させていく作りを貫いている。もちろん、この女性3人の醸し出すテンションが、フィンランドという異国すら自分たちに馴染ませていく力量を持っていたのは言うまでもない(片桐ともたいと小林が見せる「間」の力学については次章で触れていく)。小林聡美の出自、すなわち「金八先生」の生徒役でデビューしたであるとか、「やっぱり猫が好き」シリーズでの主演がどうのこうのと、80年代の彼女から丁寧に追っていってもそれは現在の小林聡美を解き明かす手助けにはならない。やはり現在の彼女は、「かもめ食堂」から放たれているのだ。本論考の全体タイトルを『「何気ない日常」の創造主』としてみたが、「かもめ食堂」を契機に、彼女は「ああいう生活がしたい、ああいう人になりたい」という視線を背負う事になったのだ。

「フジワラノリ化」論 第11回 小林聡美

フィンランドで食堂を開いた理由を問われた小林は「ここだったら、わたしもできるかなって思った」と答える。客が入らず、ガイドブックに載せた方がいいのではと問われた小林は「ガイドブックを見て来るような人は、何か違う」と答える。勿論、小林にとっては台本にあっただけで単に言わされた二言に違いないのだけれども、この二言は、とても大きな広がりを持っていく。つまり、この後で乱発される「かもめ食堂的」映画、雑誌、店には、「自分が自分でいられる」「売り上げ至上主義ではない」という条件が通底していくのだ。「かもめ食堂」に封じ込められているテーマは、「今のまんま、普通にしていればそれでいいのだ」ということ。しかし、以降の「かもめ食堂的作品」は「普通」を作ろうとする。どうすれば普通になれるのかと懸命に模索しているように見えた。

小林は、「かもめ食堂」の前に、03年の日テレ系連続ドラマ「すいか」の主演を務めている。この「すいか」というドラマが持っていた舞台やコミュニティの風景は、明らかに「かもめ食堂」へと繋がっており、小林聡美の印象を定めていく第一段階となるドラマになった。三軒茶屋の古びた下宿屋「ハピネス三茶」に、信用金庫勤務の小林聡美、エロ漫画家のともさかりえ、大学教授の浅丘ルリ子、そして賄い兼管理人の市川実日子が住み込んでいる。それぞれがそれぞれの暮らしをしているのだけれども、共に食事をし、ちょっとした事件では一斉に騒ぎ、悩みが転がっていれば誰かが拾う、適度な緩やかさが流れている。そこにいる誰もが、無理をしない。頭を抱え込んではみるけれど、発狂には向かわない。そっと添えられた一言で、悩みをほどいていく。3億円横領して逃げ回る同僚の小泉今日子や、ガンを煩う母の存在などまで、そのテンションに浸していく脚本がとりわけ優れている。

イギリスではなくフィンランド、大手銀行ではなく信用金庫、小林聡美の舞台は、メジャー本流ではない。肩肘張った日常を遠ざかるように、力を抜いた作品が好まれる現在にあって、小林聡美が見せてきた環境は、抜き加減を最初に提示したと言えるのだろう。丸の内で働くバリキャリOLが帰り道に「ku:nel」を買って帰るという生活、そしてその生活へ向かう供給が、あらゆる所で生まれている。先日公開された柴咲コウ主演「食堂かたつむり」では、都会での生活に毒され声を失った女性が、田舎に帰り食堂を開く。「その食堂に、決まったメニューはない」「お客様は一日一組だけ」という捻りは、いかにも「かもめ食堂」のアレンジ版を逸しない気はするが、食料はその周りで自ら調達するなんて辺りに、自然体を作りすぎる不自然さを感じてしまう。これを、忙しい合間を縫って観に行く若い女性は多いだろう。「かもめ食堂」を劇場で観た頃、あの世界は憧れだったのだと思う。しかし「食堂かたつむり」を観る皆は、それを憧れとは思わずに、現実から一瞬逃避する清涼剤としての意味を背負わせているのではないか。憧れではなく、サプリの効能を期待されるようになったのだ。小林聡美が「かもめ食堂」の後に出演した「かもめ食堂的映画」、「めがね」「プール」の出来はあまり良くない。つまり、「かもめ食堂」のリミックス版にすぎず、球種を変えただけでは当然オリジナルを超えていくことはない。それは同時に、小林聡美に対する世の中の需要が完全に「かもめ食堂」になっていることを意味する。それが小林にとって、良き事なのか悪しき事なのか、その点については次回、もたいまさこ、片桐はいり、そして夫である三谷幸喜といった、小林の近辺を考え込む事からも徐々に浮上させていきたい。



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