其の三 「日常」を作るのか、「日常」に踊らされるのか
小林聡美の道程を紐解くのに、彼女のエッセイ集は重要な手がかりとなる。エッセイを10冊近く出している女優は珍しいだろう。なにぶん、ブログをまとめあげたり、映画やドラマの副読本的なエッセイが乱発されたりする昨今である、正攻法でエッセイの刊行を続けるのは、彼女か室井滋か本上まなみくらいに限られるだろう。実は次章で、エッセイの上手い女優ベスト10という企画を設けようと思っている。主にブログで女優やアイドルが直接的に文章を発表出来るようになった現在、エッセイ集として編み込む意味は薄れているのかもしれない。しかし、だからこそ、そこに紡がれている文面がシビアに問われる。おいしいパスタを食べました、では、誰もついてこない。
彼女のエッセイ集は以前から好きで何冊かつまみ読みしていたのだけれども、これを機にその殆どを読んでみた。日常からの脱線、或いは脱線した日常、ところで私はそのどちらなのだろうか、という悩みが、ちょっとした案件でグラグラしていく。便利な言葉なのでしょっちゅう使われているが、彼女が「等身大」だと語られるのは、このグラつきをあっけらかんと語るからであろう。ただ、単にざっくばらんにお茶目なだけではなく、思案し、笑わせた後に、細かなことにグズグズ言う。ナチュラルな肌ざわりと、表出するオバちゃん臭がミックスされると、いつまでもどんな味かは分からない。その定まらない味を辿りながら、この人のエッセイを読み続けてしまう。
「日常」とは何なのであろうか。もちろん、何かであるはずはない。日常に定形は無い。二日酔いで寝込んでも、公園でピクニックでも、それはその人の日常だ。しかし、メディアが照射したがる「日常」はここ数年で、どういうわけか好みが定まってきた。自分と向き合える場所、という説教じみたナチュラル系統が肥大化し、世のエコブームと結託して、日常の建設作業が「ものすごいスピードで」スローライフへと集約されている。第一章でこう書いた。「かもめ食堂」のテーマは「今のまんま、普通にしていればそれでいい」であったのだが、以降の「かもめ食堂的作品」は「普通」を作ろうと、懸命に模索しているように見えた、と。ここで言う「普通」は「日常」に変換することも出来る。つまり、何気ない日常を作り出すために、あくせくし、そのあくせくをプロモーションしようとする。高木美保が精神的な病を癒すために那須塩原に引越ししたのは10年以上も前である。その土地で畑を耕し収穫する。東京での仕事に支障をきたす距離ではないこともあり、高木はその生活形態を、そこまで前面に押し出すことはなかった。しかし、最近ではそのライフスタイルに思想が付着しているように見える。本人にはそのつもりはないだろうが、いつの間にかそう見えるようになってしまったのだ。高木美保の農業生活が、生活形態としてはそのままを保ちながら、外からの評定だけが変化してきたのは、何やら象徴的な気がする。彼女は農業生活に関する本を2冊出していて、2000年に出した書籍名は「木立のなかに引っ越しました」だったのに対し、2004年に出た2冊目の書籍名は「生かされている私 ナチュラリストの幸せ」である。同じ出版社から出ていることを考えると、世の需要をぶつけて2冊目の方向性としたのだろう。木立の中に引っ越したら、いつのまにか生かされている私になっていたというハテナが高木の頭を巡っているのはないか。その変化には、時代の流れが反映されている。この辺りを突ついて、さすがの有吉は高木美保を「ヒステリック農業」と命名したようだが、それは何も高木美保が本当にヒステリックなのではなく、高木美保へ向かう視線がヒステリックなのかもしれない。エコライフ女優を気取る高樹沙耶(現・益戸育江)という女優がいきなりふんどしを締め始めた時、彼女は「地球人として品性品格のある生き方をしたいという思いでふんどしをしめなおした」と、意図する所のちぐはぐさが突出した迷答を残しているし、80年代にロックの女王と呼ばれた白井貴子は湘南でエコライフを送る様を頻繁に公開するようになった。言葉は悪いが、自分の存在を吹き返すためにエコライフが使われている。
その人達は口を揃えたように言う、「これは、なにも、特別なことをしているわけじゃないんです、これが私にとっての日常なんです」と。個人レベルの案件を地球規模の問題に結びつけて「わたしたちにできること」を慎ましくやっていくという日常に、みんな甘い採点をつけてしまう。その対向には厳しい。例えば、ワーカホリックなアイドルを見つけると共感が去っていく。上戸彩のエッセイがあれば、それを「どうせ事務所に書かされているに違いない」と言うだろう。そういう事にだけ、詳しくなっている。しかし、ナチュラルに対しては、判断を及ばせない。そして、エコや日常や地球や私らしさというような、ほんわかした枠から絶対的な枠までを一緒くたにして、オリジナルブレンドで「日常」という商品を各々が開発していく。小林聡美は、そのブレンドに使われている被害者かもしれない。肌触りとして、彼女に流れている日常は、ふんわりとおさえられた、あくせくしない生活のように思える。そういう素材を見つければ、媒体は駆け足で近づいていって「ゆっくりしてますよね」とマイクを向ける。突然、回答を迫られた玄関先の主婦は、「ええ、まあ」と答えるのが精一杯だ。かくして小林聡美は、オリジナルブレンドの「日常」の模範となるのである。エッセイを読み進めていくと彼女がボソッとつぶやく。「ま、この程度にしておこう」。そうなのだ、彼女の生活に、意図はない。ある地点で、力を抜いてしまえと思ったから、力を抜いている。最初の時点で抜いたほうがいいと気付いたから抜いてみよう、とは違う。それなのに、彼女は羨ましがられている。彼女としては引き算でこうなってしまっているのに、彼女を捉える側の計算式は、足し算か掛け算だ。しかし、カッコ付きの「日常」は、その加算を支持する。信奉する。エッセイの中や映り込む彼女は、確かに文中では特段の努力はしていなさそうに見えるけど、絶妙なチョイスや多彩な仲間に支えられて力を抜くことが出来ているのだと、信じてしまう。しかし、エッセイのタイトルから引くならば、彼女は自分の事を心底から「ワタシは最高にツイている」と思っているに違いないのだ。言ってみれば、ただそれだけのことだ。それだけのことで、世の潮流に乗っけて、「日常」オンステージで彼女を踊らせてはならない。それはとってももったいないことだ。そういうステージには、前出のエコへ急いだ方々を乗せておけばいいのだ。それこそ需要と供給が一致するだろう。そのステージをどれくらいの人が観に来るかは定かではないけれど。
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