「フジワラノリ化」論 第13回 スガシカオ サングラスの向こう側 其の二 FM的、AM的。

其の二 FM的、AM的。

たまにFMを聴く。するとそこでは、ディスクジョッキーが他愛もない日々を垂れ流している。昨日、気になってたカフェに行ったらそこには小さなお庭があって、オーナーが大切に育てている季節の花が満開になっていて、とっても清々しい気持ちになりました。梅雨空が続きますけど、そのひとときだけは憂鬱な天気を忘れることが出来ました……だってさ。友達夫婦のホームパーティーに呼ばれたんだけど、偶然そこに大学時代の同級生がいて、今あの人どうしているのなんてヒソヒソ話をしてたら、当時2人とも狙ってたその男の子が今じゃ2児のお父さんって聞いて、なんか私たち、残されちゃったのかなあなんて笑い合ったりしてました……だってさ。それでは聴いてください。スガシカオで……

この話を誰かしら求めているのだろうかと疑問に思わざるを得ない話がある。このディスクジョッキーのライフストーリーに、素直に感激し、ちょっとしたホームパーティーに呼ばれたいと熱望するリスナーがいるんだろうか。しかし、いるんだろう。だからこそ、この手のCHPS(ちょっとしたホームパーティー話、の略)は無くならない。気付けば自分が学生の頃から、この手のメディアの話し手はCHPSを繰り返し報告している。飽きないのかと思うのだが、飽きないから聴くのだし、聴く方が飽きないから、飽きずに喋るのだ。このCHPSのことを思う時、世の中の事象というのは、FM的とAM的に二分できるという持論を築くに至る。一言で言えばFM的とは「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」、AM的とは「気取る前に現実を目の前に置く」。どんなジャンルにも置き換えられる。中田英寿はFMで、ゴン中山はAMだ。村上春樹はFMで、桐野夏生はAMだ。モスバーガーはFMで、マクドナルドはAMだ。ビームスはFMで、ジーンズメイトがAMだ。ユニクロはFMの仮面をつけたAMだ。安室奈美恵はデビューから一定期AMを強いられていたが脱皮し自身をFM化することで再ブランド化させた……等々。

音楽の世界、とりわけロックの世界において、雑誌「rockin'on」(議論の対象上、「ROCKIN'ON JAPAN」を主に指す)の選球眼がそのまま指標として機能する時代があった。いつまでそうだったのかは各人において差があってそれを聞き出すのはなかなか面白いのだが、宇多田ヒカルを表紙にし、浜崎あゆみを表紙にし、オレンジレンジを表紙にした辺りから、選球の「視力」を危ぶむ声が出てきた。ラルクは良くてなぜB'zは駄目なのか、という議論もあったと記憶する。先ほどのFM・AM仕分けの文脈に参加させると「rockin'on」のセレクトというのは、AMでもFMでも無い、それなのに(orそれだからこそ)オリジナリティーに満ちていると判子を押す立ち回りを担っていた。つまり、俺たちがどこからか引っ張り出した、見つけ出した、という論理、彼等的な文言を使えば「肯定」である。ラジオも雑誌も、かつては新しい音楽を受け手に教え込む媒体だった。その精度が、媒体としての精度に直結し、信奉する者の数と比例した。信奉者同士がある音楽に尽くすためには否応にして仮想敵を用意する。J-POPと記号的に大きく括られるシーンは常に便利な仮想敵だった。セレクトに対するチャート主義、オリジナルなアレンジに対する小室やビーイング的フォーマット……、いくつかが分かりやすい非難対象として挙げられたが、結局、J-POPの輪郭がその対岸から明示されることはなかったように思う。敵が都合良く取り繕うのがJ-POPという記号だった。あるコアなジャンルから外を見やったときだけJ-POPが現れるのであった。同人誌から始まった「rockin'on」の文脈はその仮想敵をうまいこと活用してきた。しかし、ある時から解いたのだ。それを人は商業化しやがってと罵った。皮肉にも、その解く過程において初めて形を持って発見されたのがJ-POPだったのかもしれない。

「フジワラノリ化」論 第13回 スガシカオ

スガシカオがFMかAMかとなれば間違いなくFMである。「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」のがスガシカオであり、「気取る前に現実を目の前に置く」とするAM的要素を、音楽の基盤から徹底的に払ってきた。歌詞については次章で触れる予定だったが少しだけ。今、「歌詞が良い」ともてはやされる場合、それは文学的に優れているということよりも、いかに等身大であるかが重要になっている。浜崎あゆみ以降、露骨になった流れである。その等身大の歌詞を書いているとされる最たる存在が西野カナであろう。この人は、「会いたくて会いたくて震える」と歌うのだ。それを、カナちゃんの気持ち分かると周辺が共振していく。カナと私の距離を異常に詰めることで、等身大の輪郭を押し売りするのだ。ケータイ小説が、日常から考え得る激変を全て盛り込んだ(残酷であろうとも)夢物語であったのに対して、この等身大には、物語すら敷かないまっさらな状態で突然迫ってくる。浜崎やケータイ小説が持っていた重々しさを、もう本当に大変なんだからこの気持ちという切実さに転換して、与えられた箱にギュウギュウ詰め込んでいく。「rockin'on」が浜崎あゆみのロングインタビューを巻頭に掲載した時、そこでは予想通り、色々あった人生の挫折や苦悩を語り尽くされたわけだが、僕はこう思うわけである。人生なんて、誰の人生であろうと色々あるだろうよ、と。はいどうぞしゃべってください、辛かったことを中心に、と言われれば、誰であっても用意出来るものだ。親が離婚している苦悩と、家庭が円満でその円満具合ゆえに一歩も踏み出せないという苦悩、このどちらが苦しいかなんて、分かるわけが無い。しかし、その苦悩を汲み取って評価し始めた途端、「rockin'on」の溶解が始まったのだと思う。FM的でもAM的でもないものに判子を押す役割がこの雑誌のこれまでの立ち位置だったとすれば、もはや、この雑誌は、両者の柔軟剤のような役割に移っていったと感じる。しかし、それが、甘んじているのか、ビジネスとしての上昇なのかは、用意する主語によって変わってくるだろう。しかし、かつての仮想敵であったJ-POPが体に染み込んできたのは揺るがない所であろう。

スガシカオは、FM的にこだわっている。即物的な(=AM的な)創作はしない。しかし、彼は、「rockin'on」には出来なかった「FMの体を保持したままAMへの単身赴任」をしてみせたのである。象徴的なのがB'zの松本孝弘と共作したKAT-TUNのデビュー作「Real Face」だろうか。「ギリギリでいつも生きていたいから さぁ 思いっきりブチ破ろう リアルを手に入れるんだ」と、デビュー仕立てのアイドルに歌わせたのである。西野カナが「会いたくて会いたくて震えている」のに対して、ではこの歌詞が何か即物的な行動を起こしているか、促しているかと問うてみると、字面を追えば分かるが、何にもしていないのである。つまり、「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」という従来のFM的観点をそのままに、「気取る前に現実を目の前に置く」AM的観点に近づけてみせたのである。振り返れば「あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…」とSMAPに歌わせた時も同様だったが、その当事者は何をしているんだか、何を伝えたいんだか、よく分からないのである。スガシカオが時代と常にマッチングしているように見えるのは、この間接話法をFM的立地から放ち続けているからなのではないか。前章で兄貴肌としての素養に欠けるというような話をしたが、そりゃあ、この「間接」の放射を続けていると、人物の輪郭、そして明度は落ちてくるのである。だから、兄貴としては慕えない。スガの、あの独特のファッションには、いっつも間接性が合わさっている。サングラスは勿論、シャツの色合い、“やや"はだけた胸。いつも、情報があるような無いような見た目をしている。

FM的、AM的という議論からスタートして、やや感覚的な話が続いてしまった。しかし、この感覚的な話から浮き出てくる間接性こそ、蚊帳の外からのスガシカオ論には欠かせないキーワードになっていくのである。この間接性にまつわる議論は次章へと続いていく。村上春樹が日本のアーティストとしてほぼ唯一認めているのがスガシカオなのである。そしてスガシカオ自身も村上春樹を敬愛している。この相思相愛に流れるものは何なのか。その赤い糸の主成分もまた、間接性ではないかと読んでいる。さて、次章の議論へ進むべく、村上作品を引っ張り出して読み直すこととしよう。



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