其の四 サングラスの現在 2010年、夏
朝青龍が、横綱としての品格が云々、と問い質されている時、写真家の藤原新也が明晰な分析と指摘をやくみつるに向けていた。室内で帽子を脱がない、初対面であろうと思われる目上の人に面する際にも帽子を脱ごうとしない、かいより始めよ、ではないかと。思わず膝を打った。彼が朝青龍に向けていた突っ込みとは、「朝青龍がいくら横暴なキャラクターだといっても、国技の頂点にいる人物の節度としてわきまえなければならないのではないか」というものであった。であれば、それはそのまま日本相撲協会外部委員であったやくみつるに突き刺さる指摘でもあったということになろう。つまり、帽子を脱いでから言え、ということだ。
自分を装飾するファッションアイテムとして、帽子に匹敵するのがサングラスということになろう。どちらも日光に弱い人が……と理由付けることが出来るが、実際にその理由で使用している人は少ない。その大勢は、自分を少しでも装飾する意図を帽子やサングラスに持たせている。帽子には「ハゲ」という具体的な隠蔽目的が潜んでいる場合も少なくないが、サングラスはその可能性を持たない。「わざわざつけている」のがサングラスなのだ。であれば、そのつけているサングラスの意味をこちらから問い直さなければならない。
サングラスの代名詞といえばタモリであろう。白地にポツンとサングラスだけが印刷されているTシャツがあったとして、これは誰をイメージしたTシャツだと思いますかと問われれば9割の人はタモリと答えるだろう。タモリは国民的サングラスドレッサーなのである。サングラス=タモリという共有を排した上で「テレホンショッキング」を捉えてみると、毎昼に様々な一流ゲストが訪ねてくるのが、サングラスのオジサンだというのは、それって結構ショッキングなことだ。サングラスは素顔を隠蔽する。メガネが、女性を色っぽくし、男性を賢くするアイテムとして誇張される中、サングラスの隠蔽には歴史上、あまり変化が無い。タモリが女性ゲストに下世話な質問をする時、そのサングラスの向こう側の細い目はニヤリと曲がる。しかし、露にはならない。少し見えるが、あくまでも隠れている。これでは、笑福亭鶴瓶のように人里離れた田舎町への訪問は難しい。いくらタモリであろうとも、サングラスが先立って、村人たちはひとまず後ずさりするのではないか。「ブラタモリ」や「タモリ倶楽部」で地下や脇道や坂道を往くタモリの姿は、「サングラス」を裏切らない立ち回りだ。
サングラスは、人の顔を隠した上で強面にする。そして人を寄せ付けない。ラッツ&スターの鈴木雅之や浜田省吾は、サングラスを外さない。しかも、とっても濃い。どんなに凝視しても、サングラスの表面からうっすらと目元が見えることすら無い。「本当は良い人かもしれない」という含みを持たせつつも、それを開けっぴろげにしてしまうことは無い。ある一定の秘密が保持されている。サングラスによって保持される一定の秘密、これって、すごい事じゃないだろうか。顔や体を彩るあらゆる装飾物の中で、サングラスほど、人を隠す道具は無いし、一方でこれほど特徴付ける装飾物も無いのである。男性諸君は何となく分かってくれると思うが、素人AVモノでは、顔にモザイクをかけずに、サングラスをかけさせた状態でプレイに及ぶことでその匿名性を守るというケースがある。あれなんて、下手にモザイクをかけるより匿名性が増すのである。
現代のサングラス界において、EXILEのATSUSHIの存在を欠かすことはできないだろう。音楽シーンに限れば、このATSUSHIとスガシカオの2人のサングラスへの臨み方に、ある一定の作戦を見つけ出すことが出来る。EXILEというのは、一言で片付ければ「北関東系オラオラ成り上がり連合隊」であり、ついてくる女子も憧れる男子も、どういうわけか、単に男性としての格好良さを求めるだけではなく、天下とか世界とか大きめの単語を用いながら、その連合隊を愛でている。嵐を見て、私は桜井君よ、私は二宮君よ、と選りすぐるのに対し、EXILEは、「押忍」っとワラワラ迫ってくる総体として、対峙しているような印象を受ける。リーダーのHIROは口を開けば「最高のエンターテインメントを」と繰り返す。このグループの現在の歌い手は二人、分かりやすい優しいイケメンフェイスのTAKAHIROと分かりやすい悪徳フェイスのATSUSHIの二人である。最大の魅力は、悪徳顔のATSUSHIからスイートな声が伸びやかに出てくる所にある。あのサングラスと坊主から、この声が出てくる。その落差に、連合隊のシンパは、EXILEの最大の価値を認めるのである。
ATSUSHIは、自身がサングラスをつけた理由を、サングラスメーカーの記者会見でこう説明している。「最初は照れ隠しだったんですけれども、(今では)自分のスイッチでもありますし、自分をまたカッコつけさせてくれるもの」と答えている。当初は素顔でテレビに出ることもあった彼だったが、ここ最近はサングラスが定着していた。しかし、彼のソロライブではサングラスを外して熱唱する彼の姿があった。実に安直な読みだが、その通りのような気もするので書くが、自分をさらけ出すためにサングラスを外してみたのであろう。
このATSUSHIへのサングラス感というのは、2010年夏、現在のサングラス感を代表するものであると思う。つまり、スイッチであり、カッコつける道具なのだ。そして、そのサングラスを外せば覆っている何かを弾き、己をさらけ出すことができる。スガシカオのサングラスにも同じ事が言えるのだろうか。山崎まさよしが杏子との対談の中で、スガシカオがワインを持って自宅にやってきてどうすれば売れるかを相談され、当時濃かったサングラスをもっと薄くすれば売れるのに、とアドバイスした所、実際にその後売れ、後になって「山ちゃん、サングラス薄くしたら売れたよ!」とスガシカオに言われた、とこぼしている。サングラスの濃度として、スガシカオとATSUSHIのそれはとても近い。黒すぎず薄すぎず、光の入り方によっては目元が見える程度の薄さである。舘ひろしと柴田恭平が「あぶない刑事」を演じた時、真っ黒なサングラスにこだわった。しかし、「特命係長 只野仁」が時折かけるサングラスはやや濃度を抑えたサングラスだった。この薄さは何なのか。時代に合わせたものなのか。
先ほどのATSUSHIの発言から考えると、サングラスを維持するのは、「自分にとってのスイッチ」「カッコつけさせてくれるもの」だからという2点に絞られる。しかし、そのアピールを強固に披露してしまうと、この時代、やや引かれてしまう。ファッションアイテムとしてのサングラスが皆々に認知された今であるからこそ、薄めのサングラスをつけることで、サングラスの自分自身への効能と、他者への印象を両方得ることが可能となる。W杯の帰国時に真っ黒なサングラスを装着していた本田圭佑だが、DF長友の話によると機内からサングラスをかけ始め、サングラスの状態を周囲に馴染ませていたのだという。ブレない野心を持つ本田も、色のキツいサングラスをかけるときだけは、周りを気にしてしまったのだろうか。山崎まさよしがスガシカオにした助言の存在が事実だとするならば、これはとても具体的な進言であったと言えよう。スガシカオは小田和正に「ジャンルに拘ってるようじゃ人の心に届く音楽は歌えないぞ」と言われたそうだが、そんなことよりも山崎の「薄いサングラスにしなよ」というつぶやきが、彼の寿命を長くし、ステイタスを大きなものにした。
「メガネ男子」という言葉に代表されるように、伊達メガネであろうが、メガネをしている男子を好むというムーブメントも起きた。でもまあ、それは所詮、顔面におけるスパイスである。女子に対する「メガネ萌え」が先立っていたことからもその現象が補足的な加点に過ぎないことが分かるだろう。しかし、サングラスは違う。サングラスはその根本を変える。スタート地点を決める。ゴールを見定める。その濃度はそこへの道程を操縦する。スガシカオが薄いサングラスをかけ続けていることについて、僕らはもっと慎重にならなければならないのだ。
- フィードバック 0
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-