其の五 実に人間臭く、パンの世界を生きてゆく
2007年に放送された「ばいきんまんとバタコさん」は、異例のストーリー展開をみせた。山のてっぺんにある家へパンを配達しに行こうとするバタコが道中で腹を空かせたばいきんまんに遭遇してしまう。パンをよこせと凄むばいきんまんから逃げ回っているうちに、毎度ながらばいきんまんが壁に衝突、UFOが大破。その勢いで、バタコとばいきんまんは遠くに吹き飛ばされてしまう。辿り着いたのはいかにも不気味な森の中。臆病者のばいきんまんは「俺様気味悪いの大好き」と言ってみるものの目が泳いでいる。一方、バタコはここでも冷静だ。遠くから聞こえてくるかすかな滝の音に気づき、その音のするほうへ歩いていく。滝を発見するも、辺りは森ばかり。仕方なく見晴らしの良い高台で助けを待ちながら暖をとることにする。昔ながらの火きり棒、火きり板を取り出したバタコを見るや否や、俺がやると奪うばいきんまん。しかし、うまく火はつかない。辛抱弱いばいきんまんは、もういいっと匙を投げて寝てしまう。バタコが再び火をおこそうと必死に試みる。いつも笑顔のバタコ、汗をかきながら必死になる姿は貴重である。ばいきんまんが目を覚ますころには、葉っぱと切れ端でキレイに盛られた焚き火が赤く灯っている。少し離れたところで寝ていたばいきんまんに「どうぞ」と焚き火の近くに来るよう促すバタコ。腹が減ったとお腹を鳴らすばいきんまん、その訴えをやんわり無視するようにバタコは星空を見上げて「きれいねー」とつぶやく。艶っぽく、色っぽく。しばらくして助けにやって来たアンパンマンに、「ばいきんまんと何かあったんですか」と聞かれたバタコは、何も答えずに「ウフフ」と微笑むだけで、多くを語らないのであった。
いくつものストーリーをこの論考のために見てきたが、この回ほどこちらが想定しているバタコの人格を外れていく回はなかった。いつものバタコは、ジャムおじさんの隣で手伝いに勤しむ善良な女の子であるから、イレギュラーな事件は基本的には生じない。その日常が繰り返されるとはいかなる事態かを、これまで、雇用問題や無縁社会などのキーワードに寄り添いながら丁寧に論じてきたつもりである。語られること事態から放り出されてきたバタコを考えてみるきっかけになってくれたらとても嬉しい。しかし、この段階でバタコの全てを網羅できましたと高らかに宣言することなどどうしてもできない。こちら側の分析が尽くされていれば、アンパンマンの「ばいきんまんと何かあったんですか」との問いかけに彼女は「いいえ。私はばいきんまんが困ってたから助けただけよ」とニッコリと笑いながら答えなければならない。しかし、彼女は微笑むだけだった。彼女の心中に、まだまだ迫れてはいないのではないか。
「其の二」で話題にあげた「バタコさんのきゅうじつ」で、バタコさんのクッキーを欲しがったばいきんまんは、村の婆さんに化けてクッキーを譲ってもらう作戦に出ている。バタコはこの見知らぬお婆さんが、変装したばいきんまんなのだと見抜いてしまう。万人は、相手が自分を騙していたと気付いた瞬間に、相手を叱責するだろう。しかし、バタコは違う。心の声として、「そっか、うふふふ」と発した後、何事もなかったように「どうぞ」とクッキーを差し出す。「それと、ばいきんまんに会ったら渡そうと思ってたんですけど、もし会えたらお婆さんから渡してもらえませんか」とさらに一袋クッキーを差し出すのだった。バタコとは、腹心と表に出る態度がここまで真逆なのか。ばいきんまんは頻繁に稚拙な変装を試みる。しかし、周りのみんなは何故だか気がつかない。テレビの前の皆は気付いても、テレビの中の皆は気付かない。この理由をやなせはこう説明する。『疑わないこと、これはアンパンマンワールドの一つの約束なのです』(「アンパンマン大研究」より)。となると、疑いをかけてばいきんまんだと気付いてしまったバタコは、まさかではあるけれど、アンパンマンワールドの法規に逆らったことになる。しかも、胸の内だけでそれを理解し、知らないフリを装ったのだから、見過ごせない事態ではないか。
何か深刻な事件が生じる度に「心の闇」という言葉が持ち出されては、その当人だけが持っていたブラックボックスのような視線を差し向ける。しかし、どうだろう、心なんて、闇じゃないのか。心に光を当てて、とりあえず人に出せそうな発光した部分・具合を見繕って外に出しているんじゃないのか。晴れやかにガラス張りで外に向かって公開されている心が全てだなんて、そんな人は、根っこから疑わなきゃいけなくなる。愛だ恋だとそこら辺には疎いんでありますが、人が人を好きになるってのは、その人の闇をほっぽらかしにした上で、その闇を込みで好きになるって行為じゃないのか。あなたの全てを知りたいの、なんていう場末のスナックで窓際社員のオヤジが店の女性に歌わせるようなセリフは、本来はあり得ない。誰でも心のどこかは闇なのだ。
子供だましという言葉がある。つまりは、子供ならだませる出来映えの何がしか、ということ。特撮ヒーローなど正に子供だましゆえに成り立つ存在だろう。あの手の世界には正義と悪しかいない。一度負けそうになった正義側は合体もしくは巨大化する。そしたら敵も同様、巨大化する。そして、正義が勝つ。町に平穏が戻る。子供のころ、この熾烈な戦いをよそに、いつも別のことを考えていた。この巨大化した同士の戦いの下で暮らしている人は大丈夫なのか、と。そう思った矢先、巨大化したヒーローが、敵の飛び道具に当たり、集合住宅に倒れ込んでしまう。集合住宅の皆は、巨大ヒーローの影で洗濯物が乾かないのよ、もう大変、どころの話ではない。ぺしゃんこだ。敵はしっぽを振り回して喜びを表している。これもまた、近所の家が暴風に晒される。結果、余裕しゃくしゃくと思いきや危機一髪の一撃必殺で正義のヒーローが勝つのだが、自分はむしろ、あの、集合住宅の皆々の生活が心配になるのであった。今日も僕らの何とか戦隊何とかマンが勝ったのには安堵したが、でも、あの、集合住宅のみんなは大丈夫だろうか。当時親友だった村田君が同じような集合住宅に住んでいたからかもしれないが、気が気じゃなかったのだ。でも、友だちの皆は、正義の誰それがカッチョ良かったしか言わない。集合住宅の話を誰もしようとしなかったのだ。だから自分は集合住宅崩壊の件を胸にしまった。無理してヒーローの英雄っぷりに話を合わせた。「心の闇」の発生である。たぶん、初めての。
しかし、今振り返ると、集合住宅の崩壊を気にかける自分は、気にしすぎだった。あの手の特撮ヒーローはそもそも辻褄が合っていない。合っていないというか、辻褄はそもそも用意されていないのだ。正しい者が悪をやっつければ、あらゆるその他は枝葉末節なのだ。だからこそ成り立つ世界、そして確かな興奮。この単純構造を信じ込んでいたからこそ、自分たちは毎週、「今週はちゃんとやっつけてくれるのか、負けたらどうしよう」とハラハラ出来ていたのだ。子供だましとは、構造が単純である以上、騙す大人と騙される子供が明確に呼応していなければ、すぐにボロが生じてしまうものなのだ。今、改めて特撮モノを見ると、ボロなんていくらでも生じる。幼年を回顧するにはイイが、どうしても話に没入は出来ない。
「アンパンマン」なんてのもどうせそんなもんだろうと軽い気持ちでいた。いくつかのDVDである程度の作品を見終え、「アンパンマン大研究」「アンパンマン大図鑑」など関連文献に及ぶと、アンパンマンというアニメが持つ世界とその裏付けがどこまでも広がっていった。しかし、その中で、何故だかバタコの周辺が置き去りにされていた。何故、バタコがそこにいるのか、それすら分からなかった。バタコは物語の中で、いくつかの回での主役抜擢を除けば常に脇役だ。だからこそ、彼女が見ている視界と意向を捉えることは難しかった。でも、その代わりに、バタコの視点のいくらかを理解しにかかれば、「アンパンマン」というアニメ全体の見え方が変わるのではないかと思った。
2007年に英会話講師を殺害し、2年半もの間、日本各地を逃亡した市橋達也被告の手記「逮捕されるまで」を読んだ。テレビで超能力者が自分自身の逃走場所を予想する場面を、彼が観る。行ったことも無い土地の名を出してここに立ち寄ったとする超能力者を観た彼は、この超能力者と自分だけはこの話が嘘だと知っていると記す。この視点は、彼にしか持ち得ないものだ。好都合な描写も目立ったが、この視点には思わず唸った。人が人に晒す姿、人が人を見る視線、その視点を他人が同一化してそのまま体感することなど絶対に出来ないのだ。「闇」は視点を変えれば必ず生じる。その多様性を前提にしないから、些細なことが裏切りや恨みとして固形化し、闇にまで無理矢理光を当てようとする作為が続く。だから、みなさんなんだか疲れている。
バタコは、アンパンマンワールドの約束である「疑わないこと」なんていざ知らず、ばいきんまんの変装を見破った。そしてそれを報告するでも無く、内々に処理をした。バタコの視線に切り替えると、アンパンマンというアニメに流れる平穏な群像が豹変した。反転した。ただし反転すると、あのワールドがやたらとリアルに見えた。変装を見破ったバタコの心中をまだ我々は計りきれていない。バタコはまだまだ何か隠している。しかし、何度も言うが、その隠蔽が常時存在してこそ、人は人なのだ。バタコは、実に人間臭くパンの世界を生きている。バタコについてまだまだ知らない部分があるという半端な結論が、実はバタコのみならずあらゆる個人が内包する豊穣さを指し示している。「愛と勇気だけが友だちさ」とアンパンマンのマーチは歌う。その通り。だからもう、「ともだち100人できるかな」と富士山でおにぎり食おうと試みるのをもう止めないか。今回、バタコの闇の中身の全てに辿り着くことはできなかった。でも、「闇があること」には辿り着けた。その闇とはとバタコに問い質せば、そのままにしておいてよ、と返してくるだろう。もしくは、ここでもまた、「ウフフ」と微笑むだけかも知れない。でもその隠蔽こそ人間味だ。雇用も老後も恋愛もそれぞれに心配だが、バタコは今日もまたパンの中で人間臭く生きている。ここまでバタコについて書き続けてくると、何だかそれがとっても大きな勇気のように、私には思えてくるのだった。バタコはバタバタ走り続ける、ならば、これからも、こちらはバタコを追い続ける。
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