其の五 小雪×未来史
今、小雪を「ハリウッド女優」と呼ぶ人は少ない。しかし、2003年に「ラストサムライ」に出演してしばらくは、何をしようにも頭に「ハリウッド女優」がこびりついていた。芥川賞作家でもホームラン王でも、人を捉えるにあたって分かりやすい功績を前に置くのは世の常である。芥川賞受賞以降、途端に縮小再生産の凡庸な作品しか書けなくなったり、ホームラン王が翌シーズンに不調に陥り三振の山を築いたりするのは、その功績が本人の上に重くのしかかるから。自分はその功績から早いとこ体を解放させて、改めてまっさらな体で挑みにかかりたいというのに、外の目はその功績からしか自分を見てくれなくなる。小雪の「ハリウッド女優」ってのはどうだったのか。これは、ホームラン王とは違う。何においても先立つものではない。しかし、雰囲気モノ特有の強度を持っている。カンヌで賞をどうの、アカデミー賞でどうの、という話ではない。ハリウッドの映画に出た、という状況報告なのだが、それでいて圧倒的な効力を持ってしまう。倉木麻衣のデビューについて記憶を保っている人は数少ないだろうが、実は日本より先に全米でデビューをし、「アメリカで話題になりました」と逆輸入の売り文句を携えていたのだった。実際はインディーズレーベルから細々とリリースしただけなのだが、「あっちで認められた」という情報が、本格派シンガーとしての雰囲気をそれなりに醸し出し、彼女のスタートラインを引き上げていたのだ。ハリウッドにせよ全米デビューにせよ、本場と呼ばれるところに足を踏み入れただけで評価が水増しされる傾向は未だに続いている。その称号をつけるのは自分の外のくせして、ふりはらうのは自分であるという腑に落ちない流れの中で飲み込まれてしまう。小雪も倉木麻衣も、今現在だけを考えれば、形はどうあれ「雰囲気のアメリカ」をはらい落としている。この功績は認められるべきだろう。
この連載で何度か書いてきたことだが、この手の職業の人は、口を開けば謙遜、がルールと化している。「きれいですね」「そんなことないですよー」というやり取りは、市井の人々の、「なんかジメジメしててイヤな天候ね」「そろそろ梅雨入りかしら」「今日、梅雨入りしたらしいわよ」と変わらぬほど、何の意味も持たない。自分はどれくらいタレント(才能)を持っているかどうかについて、小雪自身が、斎藤佑樹ばりにこう書いている。「今持っているものを見直す。すると、人との繋がりを含めて、『すごいわたし、いろんなもの持ってる!』ってことに気づく。だから今、わたしはすごく幸せだ」。これ、女優エッセイが最も避ける言質だ。だって、女優のエッセイの需給関係って、「私はみんなと変わらない」という宣言を吐き出して、「あたしたちと変わらないんだ」と受け入れてもらう関係性にあるのだ。例えば、手元に木村多江のエッセイ集『かかと』がある。適当に開くだけで、「大人のフリをするのが少しはうまくなったし、スマートな大人の女性のフリもやってみることはあるけれど、やっぱりそれは疲れてしまう」なんて一文が目に入ってくる。自分で自分のことを「持ってる」と言えるのは、輝きを撒布させることを控える慣習が流れる昨今において珍しい。スピリチュアルへの傾倒がいよいよ深くなってきたからなのか、続けて、「生きるのがますます楽になってきた」と書く。もうそれしか伝えたいことはなさそうだ。自分という存在を受け入れてくれるファンに向けてのメッセージをわざわざ懇切丁重に申し上げる場面など皆無だ。みなさまにもスピリチュアルな能力はあるのだから素敵なギフトをもらえますように、と述べるに留めている。
芸能界における小雪の出自を辿ると、そこには、「クールで、男に媚びなさそうな、日本人離れのビューティー」があった。このカッコ内の定義にあてはまる芸能人と言うのは、オカマキャラが常に更新されていくのと同様、椅子取りゲームが繰り返されてきた。現在、そのポジションに座るのは水原希子だろう。ではその前は誰か。黒木メイサだ。海に潜るようなピッタリスーツでダンサンブルな楽曲を悩殺気味に歌い散らかすようになってからどうもチグハグで、そのチグハグさが眼光の鋭さに更なる磨きをかけさせちゃってるんじゃないかと邪推するのだが、まあいい。その黒木の前は誰か。栗山千明だ。『キル・ビル』に出演した辺りの経緯は小雪とも並べて考えられそうだが、こちらも黒木同様、昨年から手を出したミュージシャン業が自らの功績を矮小化させる悪性腫瘍になっている感が否めない。布袋寅泰→浅井健一→椎名林檎と連続プロデュースを受けるも、鳴かず飛ばず。その前のここにいたのは、柴咲コウか……とまあ、常に旬の誰かが座っている場所なのだ。小雪の登場とは、明らかにこの座席の奪取だったのだ。そのことを今一度思い出しておきたい。
ここまで、特殊な作法とはいえ小雪の軌跡を振り返ってきたわけだが、それでは、「持ってる」小雪の未来をどう読むべきか。小雪は「人生全体としての目的地は、まるで雲の上にあるようにあまりに遠すぎて、かすかにしか見えない」と未来の明言を避けている。彼女は、ホワイトバンド運動で知られるNPO法人「ほっとけない 世界のまずしさ」のキャンペーン運動に参加している。そのホワイトバンドについては、300円で売られたものの、その3分の2が製造費と流通費、残りの3分の1の中にもNPO法人の運営費が含まれることが明らかになって批判を浴びたことも記憶に古くない。慈善事業に顔を出す行動がもてはやされる中でその詳細が突き詰められることは無かったのは残念だったが、いつのまにかこの手の事業に反射的に参加していく芸能枠、つまり「小林武史的」反応を見せる芸能人が見えてきた。今後、小雪は間違いなくその手の道をずんずんと突き進むだろう。パナソニックのナノイー搭載、新・空気清浄機発表会に登場、「動物を飼っているのでやっぱり臭いですとか空気のキレイさは気になりますねー」と話す小雪の膝元には愛犬SOY……かと思いきや、愛犬はあいにく夏バテで欠席、そこで、ここでも姉・弥生に頼る小雪、なんと姉の愛犬を借りてきたのであった。汚れを察知して無駄無く空気を清浄する「エコナビ」が搭載されていると聞けば「勝手にエコをしてくれるんですね」とニンマリ。震災後の「ECO drive for Japan」キャンペーンには腰を抜かしそうになったが(そもそも走らないほうがエコなのではないかという選択肢を一切持とうとしない点において)、この空気清浄機も同様。「エコ」が具体よりも雰囲気で盛り上がっていく中、小雪程度の雰囲気参加がむしろ歓迎されている気配がある。小雪は地球環境のことを考え、洗剤を一切使っていないらしい。代わりに化石サンゴの粉末を使用してるようだ。小雪と同い年のSHIHOが洗剤要らずの洗濯ボールなるものを宣伝していた記憶があるし、モデルがエコ系の企業と組んでモノを売るケースは珍しくない。しかし、それをなぞるだけでは、「らしさ」は出てこない。でも、小雪には、掛け算するアレがある。そう、ここでも、登場するのはスピリチュアルだ。
NPO、ペット、エコ、これらはスピリチュアルの世界でのマストアイテムと化している。行動、癒し、思想の基軸になり得るものだ。これからの小雪は、この辺りの働きかけを加速させていくだろう。マツケンと結婚したものの、妻になったことを前のめりにアピールしてくるはずがない。ナチュラル、ヒーリング、セラピー……こういった包容力を持った言語に、小雪はしっかりと身を寄せていくはずだ。デビュー当初から、古臭さと新しさのバランス、内省と露出のバランスのチグハグさを「雰囲気」で繋いできた小雪にとって、難なくスライド出来る数少ないネクストステージに違いない。そのステージに移行させるために、凝っていると話すもののあまりオープンにしてこなかった手芸や料理を持ち出すかもしれない。唐突だが、この人は演技が非常に下手である。感情の変化を演技に投じることが出来ない。カウンターでウイスキーグラスをかたむけながら「飲む?」と言う分には問題ないのだが、「ねえ、ちょっと、どうしてそんな事言うのよ!」程度の感情の起伏でも、棒読みしか出来なくなる。世は小雪に「雰囲気」を求め続けてきた。小雪は偶然にも、自発的に「雰囲気」で居続けられるアイテムを女優外のプライベートで育んできた。となると、これまた自然に、小雪は「雰囲気」で生き長らえていくのだ。最初から、今も、そしてこれからも、小雪にはそれしかないのだ。近いうちに、小雪プロデュースの何がしかのエコ商品が登場することを冷静に予告して、本稿を結ばせていただこう。
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