辻希美はますます成り上がった。一方で、後藤真希は今年いっぱいで芸能界から引退しようとしている。加護亜依の彼氏は恐喝未遂で逮捕され(後日、処分保留で釈放)、福田明日香はここにきて音楽シーンに戻り、紺野あさ美はテレ東のアナウンサーになった。その他OG連中は相変わらず全盛期の内緒話を明け透けに語るという細いネタで食い繋いでいる。モーニング娘。本体は中国人メンバーを派遣切りして新しいメンバーを加え懸命に延命している。しかし、連載時から変わらず、勝者と呼べるのはこの辻希美だけだ。矢口真里も、誰かに断られた後でブッキングされているような気配の仕事を受けてそれなりの頻度で登場できているが、モーニング娘。だった事実を威勢良く振り切ったのは辻希美だけだ。去年の年末に第二子を出産、主婦業に専念している辻希美のドッシリ構えた存在感は、中野サンプラザでギラギラの衣装を今更振り乱しているOGメンバーのあくせくとした立ち振る舞いと対照的だ。これまでモーニング娘。は、いくら人気がじり貧になろうとも、人気上昇中の誰それとの比較対象ではいられた。つまり、AKB48の上昇とモーニング娘。の下降は、そこに相関はなくとも象徴的に比較された。しかし、去年から今年辺りにかけて、AKB48に対する新世代であるももいろクローバーZ等がお茶の間に届きそうな人気の拡張を見せ、KARAや少女時代といった韓国女性アイドル勢の波は、日本のエンタメ産業を飲み込んだ。モーニング娘。がメインの議題から初めて明確に外された年、と言えるのではないか。「そうはいってもモーニング娘。は頑張っている」という文脈がいよいよ絶ち切られたのだ。OGがいくら頑張っても、現役との小さな火花を起こさせ小さな笑いを起こす程度の話でしかない。これから結婚や出産という明るい話題が飛び込んでくるだろうが、それはそっと報じられるだけ、むしろ不倫や離婚といったネガティブなニュースと親和性を高めてしまうに違いない、ちょうど加護亜依がそうであるように。もしも、グループに残された当事者が、辻希美の位置くらい、ああしてこうすればいけるんでしょと行く先に見据えているとしたら無惨だ。言い切るが、あそこには行けない。そのくせ、辻自身は、特別なことなんて何もしてないよーと、ママさんタレントの秘技「親しみやすさ」を引き続き全面に出す。知らん顔で晒す。知らん顔で巣立つ。かつての親鳥を巣に残したまま、巣立ちまくる。
堂本剛の連載回は、ファンから直接、いくつか非難のメールをいただいた。とはいえ、「これを読んだら剛くんは涙を流すと思う」という妄信を伝えられても、こちらは、「じっちゃんの名にかけてそんなことはない」と軽い挑発くらいしか思いつかない。しかし、どうだろう、そのメールを寄越してきた皆様は、今でも剛くんのことを好きでいてくれているのだろうか。この連載回の論旨は、堂本剛がいくらアート指向や「和×伝統」系統への流れを見せ、アイドルからの脱却を図ろうとも、それを「さっすが、剛くん」と見守っていくのは、従来のアイドルとしての堂本剛が好きなファンだけである、という矛盾だった。その上でこう予測している。「『これからは<個>でいいんだ』という結論を強めれば強めるほど、今度は、今まで見守ってきた側の葛藤が始まり、強まっていく。堂本剛には、どうやらその危惧が欠けているように思えてならない。その危惧が具体化する日は遠くないのではないか」。その危惧は具体化したと言っていいだろう。ジャニーズの中軸はSMAP、KinKi Kidsから、嵐にシフトした。タッキー&翼は売れっ子ホストの余興にしか見えないし、NEWSやKAT-TUNには、「敢えて2つのグループが存在する理由」を探し出せぬまま、NEWSからは主要メンバーが脱退してしまった。人知れず9人にメンバーを増加させていたDA PUMP(現在は8人)のように、吸収合併をして大所帯になったらどうか、と雑な提案をしたくなるほど、ここ数年のジャニーズは、一極集中で嵐に吸い寄せられていった。連載でも散々指摘したことであるが、堂本剛は、自分が仕切ればトークが面白い方向に向かっていくという自信が、どういうわけか強くある。普段、そこまでコミュニケーションがうまくいってるとは思えない堂本光一とも、面白い方向に持っていくときだけは重なり合える意識を持っている。光一の自虐的、引き算を重ねるトーク展開は、スターとしての輝きという母体が年々朽ちて来ているだけにますます辛い。その展開を餌にトークを運転しようとする堂本剛もひねりがない。久方ぶりに「新堂本兄弟」を観たら、ブラザートムやHALCALIの片方が消え、槙原敬之、西川貴教、高橋みなみが加入していた。制作側の意図は、トーク面での大型補強にある。オカマちゃんキャラを解禁しちゃった槙原、当初から喋れるミュージシャンを売りにして来た西川、元気印の高橋、ゲストを真ん中において、その三方向(+高見沢)に振れば、一通りのパターンは作れる。制作側の狙いは明確だ。事実、その三者が堂本剛からの緩い砲撃を待ち構え、それを受けてトークを爆発させていた。奇天烈寸前の恰好と髪型で足を組んで、どこか上の空で番組に臨むことが未だにカッコいいスタンスだと誤解している堂本剛の効力は、確実に落ちている。アーティスト指向極まり「和」という安直な回答に向かった彼、新たなプロジェクト「SHAMANIPPON」のウェブサイトを覗いた瞬間、これは新興宗教が製作した壮大なアニメ映画かいと、思わずパソコン脇に置いて飲んでいた抹茶ミルクをこぼしてしまった。空、大地、人の描かれ方が、ここまでダイナミックなのに、ここまで凡庸なのも珍しい。一度ご覧頂きたい。「SHAMANIPPON」を説明する彼の文章は、「『ひとのちから』がテーマ 『戻ることが未来』がキーワード」に始まり、「生きていること 生きていくことを改めて教えてくれたから」で終わる。これを読んで心動かされる人がいるのだろう、動かされない人もいるのだろう。それは当然のことだ。あらゆる表現がそうだ。しかし個人的には、逆立ちしてみても、雨降る土曜に短パンいっちょで外に出てウォーと叫んでみても、腐った納豆を食べて意図的にお腹を壊してみても、この表現が、文体が、数多ある表現の中で群を抜いて稚拙であるとする口を抑えられない。羞恥心で、おバカタレントとしてブレイクした上地雄輔(遊助)が、ここにきて、良さげなメッセージを撒布することに専念している。そんなことはクイズを人並みに答えられるようになってからやって欲しいものだが、ニューシングルのタイトルは「一笑懸命」、タイトルの理由は「先の見えないこの時代だからこそ「笑い」が重要」となれば、語るに足らぬものだと放っていいのかもしれない。しかし、大人の都合で用意された楽曲を歌って来たことに嫌気がさして自分なりの音楽を作り始めた者達のメッセージがここまで陳腐だと、それこそ「NIPPON」が疑われてしまうのではないか。なんてのかな、市井で汗を流す民は、もっともっと体に染み込んだ言葉を持っている。そして、言葉を職業にする人たちは、自分の体にある言葉をいちいち疑って強める作業を繰り返している。芸能界で過保護にされてきた堂本剛には、その葛藤の形跡が一つも感じられない。信じる人だけが信じる言葉を放つのは勝手だが、それは「ひとのちから」を過信しているのではないか。
思わず堂本剛に文量を割きすぎて石橋貴明について書くスペースと余力が無くなってしまった。しかし、この数年の石橋貴明に大きな変化はないと見るのが自然だ。適確な延命措置を自身に施している。自身の番組からは、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」「きたな美味い店」という好評企画が続いている。どうでもいいことを徹底的に突ついていくとんねるずのスタイルが昇華したのが「細かすぎて」であり、素人イジリが引き続いたのが「きたな美味い店」である。「石橋貴明の賞味期限は、石橋本人がその賞味期限すれすれの体をどのタイミングで味見して改訂作業に勤しむかに握られている」と論考を締めくくったが、この期限を見極めるセンスが、まだまだ彼には宿っている。一ヵ月くらい前だったか、黒ヒゲ危機一髪をやり、黒ヒゲを飛ばしてしまった人が罰ゲームとして絶叫コースターに乗る、といヌルい企画をやっていた。ゲームに負けなかったボビー・オロゴンを無理矢理ジェットコースターに乗せて笑い転げる石橋貴明の姿は、20年前から変わらない。テレビなんて面白くない、と方々で言われる時、その視線の先にある映像とは何なのか。ワイドショーか、バラエティーか。でもそれは大抵、「結構役に立ちますよ」「そうですかそれでは見てみます」「って、見てみたけどそんなに役に立たないし、面白くもない」という反動が招いているのではないか。一方、クイズ番組が乱立したのも、面白いし役立つという、作り手と受け手のコミュニケーションが認められていたからこそだ。でも、とんねるずは、石橋貴明は違う。これをすればこう反応してくれるだろう、という迎合を見せてこなかった。むしろ、この傍若無人を見てくれ、と、これがギョーカイだ、を混ぜこぜにして力づくで打ち出すことが、唯一の作法だった。もうそれじゃダメだ、石橋貴明はもう賞味期限切れだと何年も言われている。でも、何年も言われているこの状況は、まだまだ続くのではないか。「テレビは面白くない」という大雑把な論旨から、石橋貴明は分離していると見るべきだ。この強みが数年の延命に留まるか抜本的な再生に向かうかを、引き続き注視していきたい。
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