荒川静香と谷亮子の回では、「美人女性アスリート」という称号の成り立ち方を執拗に探ってみた。自分は当然その称号が指す枠に入っていると信じ込んだ立ち振る舞いを見せ続ける荒川静香を主に考察した。アスリートを引退した途端、シャンプーのCMで髪を揺らしてみせる彼女を、どう見つめていけばいいのか分からなかった。凝視できなかった。キツめに申せば、大女優の間に挟まれる荒川の笑顔は、女優とはいかに女優であるかを再認識するための比較材料でしかなかった。しかし、様々な番組に登場する彼女に、その意識はなかった。むしろ、女優側に同調するスタンスがあった。その後でのバンクーバー五輪の解説業、つまり、こなすべき本来の職務を経ても、「美人方面」の仕事とスタンスを引き続き重ねていった。今もなお、そのスタンスでの仕事が続く。先日は、テンガロンハットのような帽子をかぶり、その帽子に合わせるようにカウボーイ風の服装を決め込んで登場する姿を見かけた。自分の学生期に流行った音楽を振り返ろうというヌルい企画で、テンガロン荒川は浮いていた。「いや、その恰好、ちょっと変えません?」と言えるタイミングはいくらでもあったはずだ。スタイリスト、マネージャー、番組プロデューサー。番組の共演者だって、「荒川さん、どこ行ってきたんすかその帽子ー」と嘲笑気味に突っ込むことが出来たはずだ。しかし、その気配は一切ない。照明がテンガロンに当たり、顔が影になっているが、そのまま強行していく。荒川には「もう、何も言えないっすよ」という雰囲気が始終流れている。連載時からそうだった。荒川静香を、キレイかそうではないかと単眼で考察するのはやめておこうと決めていたのに、あちらから「はい、美人です」と振る舞われれば、どうしても「本当にそうでしょうか」とディスカッションを始めなくてはならなくなってしまう。例えば、澤穂希が『VOGUE』に登場すれば、本人に向かって「やりすぎっすよ」と言える雰囲気がいくらでもある。川澄奈穂美は『an・an』の表紙になったものの、「おしゃれ番長」と呼ばれることに違和感があると自ら表明している。あくまでも一過性のものであると意識的に自覚し、慎重になっているところがある。とりわけ澤には、「女がサッカーしてもねぇ」と、冷たく扱われてきた歴史が体に染み入っているのだろう、持ち上げられてもそのうちに落とされるという警戒心が強い。依頼する側は、それが『VOGUE』であろうとも「女子サッカーの向上のために」と澤を乗せるのだろう。澤はそれをひとまず信じて依頼を受ける。ただし、手放しで「その気」になりやしない。ホリプロと契約しているなでしこ選手・丸山桂里奈は、一時的に「その気」になってしまっていた。五輪予選で前十字靭帯を損傷して以降、さすがにリハビリに専念しているが、怪我がなければメディアに相当な勢いで「その気」にさせられていたように思う。荒川静香はメディアが急いで「その気」にさせてから長いこと経つものの、まだ「その気」を継続している。乗せた側が引いているのに本人はまだ乗っている。結果、本人の中にある認定が、あの時メディアが盛り立てた認定よりも、そして今メディアが彼女に向ける認定よりも、お茶の間の認定よりも、総じて上に設定されている。その評価軸にそろそろ気付かないといけない。例えば、デヴィ夫人に向かって放たれる「おキレイですね」に、具体は無い。ひとまず言ってみると機嫌が向上するから言うわけだ。そのうち、荒川静香に放たれる「おキレイですね」はこれと同質になるんじゃないか。
小林聡美は、それこそ荒川静香が茶の間より上に設定して迷走する逆を行っている。つまり、彼女は茶の間の認定よりもかならず下回った対応をする。「いえいえ、そんな、私は」というスタンスだ。そのスタンスは親しみやすさに転化する。「どうやら誰からも嫌われてはいない。お母さんにもオバさんにもお姉さんにもなれるが、キャリアウーマンだけにはなれない。この温かみはなんなんだろう」と書いたが、連載時から2年近く経っても変わりはない。彼女に向かうネガティブな評があるとすれば、『かもめ食堂』のコピー&ペースト映画のクオリティだろうか。この3年だけをみても『プール』『マザーウォーター』『東京オアシス』と、ゆるりとミニマムに人と人とが触れ合っていくスタイルの映画に出続けている。この手の映画に求められるのはストーリーではなく温度だから、どうしても、劇的な変化ではなく保たれた状態を見せる映画になる。その温度に浸りたい客には満足だろうが、少し距離を置いて眺めてみれば、『かもめ食堂』に至りたくても至れなかったコピペ映画であることは明らかである。小林聡美ともたいまさこと加瀬亮をブッキングして、ゆったりとした日常に放っておけばイイ感じ、という体たらくな仕上がりがこれ以上続くと、いよいよ潜在的な不満は花開き、その不満が小林自身に突き刺さることもあるかもしれない。三谷幸喜との離婚の発表は驚きをもって受け止められた。業界きってのおしどり夫婦というあやふやな前提がその驚きの理由だが、小林はこのネガティブ案件をさらりとこなした。『週刊文春』の記事によると、今年の春から大学に通っているそうだ。クラスの女子大生と一緒にランチを楽しんでいるというから、離婚をダシに小銭稼ぎしがちな芸能界のやり口からは、やはり分離している。小林聡美のゆるりミニマム生活映画は、興行的にも成功しているからこそ続くのだろう。女優にありがちな生き方から逸れているのに、ここだけは絡めとられている。役割が決まっている。今後も続くのだろう。身近にいるその手の映画の信者の何人かに聞くと、彼女らは、漏れなく迷っている。礼讃から一段階降りている。この世界観のあざとさに、さすがに気付こうとしている。あと2作も続けば、「ヌルい!!」と激高するに違いない。小林聡美はその負の温度を、慎重に感知するべきだ。沸騰する前に、外に出て、「ゆるり」を改めて別のものにブツけるべきだ。例えば、阿川佐和子の立ち位置などどうだ。ざっくばらんな好奇心を人に撒き散らしてコミュニケーションをゆるりと築いていけばいい。守られすぎた「ゆるりミニマム映画」に安住するのは、もう危険だ。
楽屋話をすれば、市原隼人の回は、5回に分けて書くほどの振り幅を見つけられずに苦しんだ。ひたすら気合いで前のめりになっている彼の足をちょいとひっかけて大転倒させることはできたかもしれないけれど、それはこの連載の主旨ではない。冷静に現在を捉えるための連載だ。となると、市原隼人という題材は、20000字を必要としなかった。彼の熱意に対応する側が日に日に「(笑)」の度合を強めている感触はあるものの、ここ最近の彼の振る舞いも変わらない。「っす!」という出来合いの気合いが、相変わらず市原隼人そのものを象っている。震災後、市原隼人がどう出て来るかを注視していた。さすがにそのアクティブすぎる気合いを抑えて、ニュートラルな発言をするのかと予測していたが、彼は彼のままだった。「自分の仕事をおろそかにして支援のほうに行くのではなくて、自分の仕事にプライドを持ってやることが支援につながるんだ」(市原隼人×ティンバーランド“チャリティーコラボブーツ”発表会より)。自分の熱さはいかなる場合でも善玉として届くのだとする絶対的な自信からくる発言だ。震災後の芸能人の被災地での活動について、褒め称えるのも売名行為だと罵るのも容易だろう。何かしなければと立ち上がりましたと報告する人がいれば、爆笑問題の太田光のように「『僕は何にもできないな』って考えることも、それはそれで、その時に出来ることなんじゃないかなって思う」とする人もいる。どちらが正しい、間違っている、ではない。共に、苦しむ相手を思い、何ができるかを考え抜いただけだ。市原は違う。自分だ。まず自分を肯定する。なぜなら、自分の肯定はいつも対する人をハッピーにするんだ、だから、気合いの足りてねぇ自分は見せられねえっす。警察犬と人間との絆を描いた最新主演映画『DOG×POLICE』の記者会見では、「芝居というのは嘘になってしまいがちですが、犬は生きているので、嘘をつけないんです。現場でシロが、喜怒哀楽を体全体で表現しているのを見て、これが役者の原点だな、これが表現者だなと思いました」と言う。「訓練された犬が役者の原点」、もはや冷静に分析を試みちゃいけないのが、市原隼人なのかもしれない。そのうち、コンクリートの隙間から生えてくる雑草を見て「これが役者の原点」、そびえ立つ東京スカイツリーを見て「役者やるならあれくらいでっかくならなきゃ、あの大きさが原点」とか言い出しそうである。やっぱり要監視物件だ。
- フィードバック 0
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-