其の一 「ここはまぁ土田で」と指名される理由
売れているモノには理由があるという。その理由を突き詰めていけば売れるためのヒントが見つかるだろうと、教科書を復唱するように繰り返される。が、そんなのは嘘に決まっている、真似されない、若しくは真似できない、そのどちらかだからこそそれは流行っているのだ。代替不可能だからこそ皆それを求めるのだ。……というのが市場の原理である。しかし、市場の原理にも「漏れ」がある。どうして流行るのか分からない、すなわち理由が分からないまま消費される対象が時折見受けられるのだ。芸能界におけるその対象を「フジワラノリ化」と名付けてきたのだが、今回の場合は、むしろ市場の原理にピッタリと寄り添った形でその対象を論じていくことになりそうだ。サブタイトルにあるように「必要以上に見かける気がする」というのは今回も確かにそうである。しかし、今回においては必要以上に見かける必要があるのだ。やや回りくどい。しかしその回りくどさを解いておかないと、なんでこの人はこんなにテレビに出てくるんだろうか、と疑問符を投げかけたまま体感することになってしまう。それは彼にとって、不幸なことである。藤原紀香は離婚後、旦那を踏み台にして更にジャンプしようとしているようだが、どうやらその踏み台がぐらついているようで共倒れの危険を孕んできた。藤原紀香という、そもそも消費として怪しかった実態がいよいよ弱体化し露呈しそうである。今回の人物はその真っ向にいる人物とも言える。ただ、世の評価としては「あぜこの人を沢山見かけるのか」という浮ついた住み場で一緒くたにされている。それは彼にとってあってはならないことだ。売れているモノ(人)には理由がある、今回はその方程式をキチンと使っていこう。
土田晃之を一言で表す必要に迫られたら何と答えよう。無駄が無い、必要最低限のことしか言わない、発言を外さない、場を乱さない、進行を妨げない……。適応能力、という言葉に集約されるだろうか。しかし、適応能力と言われると、単なる太鼓持ちと受け止められかねない。例えば勝俣州和である。彼など太鼓持ち芸能人の典型だろう。彼を面白いと思ったためしがない。画面の中で面白いとされている瞬間に彼は必ず、従属する誰かに文字通り引っ付いている。とんねるずかもしれないし、和田アキ子かもしれない。その関係性から表出する力関係を少し捻っているだけにすぎない。和田アキ子に従っている彼が、「それはねーだろうよ」と歯向かってみる。拳をかざす和田アキ子。すみませんと謝る勝俣。そこで人は笑う。確かに面白くなくはない。しかし、彼が持っている芸当はそれだけだ。街中に放り出されて素人と単体で絡んで笑いを創出する勝俣を観たことがあるだろうか。僕は無い。適応能力という言葉はそういった類いの太鼓持ちに隣接する言葉ではある。しかし、土田は違う。どう違うかはこの論考全体でじっくりと記すことにするが、とにかく相手と場所を選ばないのだ。太田プロに所属し、上島竜兵率いる「竜兵会」に所属する彼だが、その所属先/出所を臭わせることは無い。完全無所属である。森田健作千葉県知事のように、実はどこかに下支えしてもらっています、ではなく、本当は下支えしてくれるのにそれすら振り払って、裸でフィールドに登る精神性を持っている。「太田プロは常にアウェー」、先日発売された『竜兵会―僕たちいわばサラリーマンです。出世術のすべてがここに』の中でそう語っているが、吉本派閥がセンターを牛耳る中でアウェーがラディカルに物言う機会を探るのはなかなか難しい。まずはどこかに所属し、その所属先で呼吸法を覚えてから飛躍していくのが普通であろう。土田はアウェーのまま、冷淡な表情を崩さぬまま、どこへでもずけずけと上がり込み、適切な発言を繰り返し、場をそれなりに馴染ませて、冷淡な表情のまま帰ってくる。上島竜兵がギャグの一環として「じゃあオレが!」と手を挙げるが、他の皆はギャグではなく表情に出して「オレがオレが!」と前のめりになっている。お笑いブームはこの「オレがオレが!」が折り重なることで結果的に終息していくのだろう。土田はもうその土地から避難している。しかしどこかへ成り上がったわけでもない、所属したわけでもない、テレビ局へ行き、仕事をし、家に帰る。黙々と前にある仕事を冷淡にこなしていく。本人はこの称号を嫌がるだろうが、職人めいている。
ある番組のキャスティングを決める際に、すっぽりと穴が空いたように中堅どころが不在となった。大物は限られているし、売り出し中の新人は事務所からの売り込みも激しく、決まらないことは無い。それではこの大物と新人を繋ぐ中堅を誰にしよう、セーターを肩からかけて首に携帯をぶら下げたプロデューサー(本当にまだこういう格好をしているから失笑を通り越して立派だ)が選別に入る。世渡り上手を極めた中山秀ちゃんは知らぬ間に大物の階段を登りそろそろ入り口をノックしようとしている。あの手の害の薄い毒素は重宝される。しかし、もはや彼はそういうリリーフ登板を頼める位置にはいない。選択肢を絞り出す。そこで出てくるのが、勝俣州和、ビビる大木、そして土田晃之あたりの名前である。私見だが、勝俣州和というのは、7時から9時くらいが似合う。小中学生もゲラゲラ笑えなければならない時間帯だ。ビビる大木はお昼だろうか。「ウチくる!?」「おもいッきりDON!」にレギュラー出演しているが、すなわち中山秀征ラインにある。この論考の初回を飾った中山秀征論の中で、ポスト中山秀征に指名したのが、ビビる大木と土田晃之であった。一年ほど前の原稿になるが、その考えに変わりはない。変わったとすれば中山秀征である。彼の一部を培っていた深夜番組的な思考がとことん消えてきたのである。守りに入ったということか。しかしその守りを責めはしない。中山秀征は、もう、階段を登る様を見守ればいいのだ。勝俣は7時から9時、ビビる大木はお昼とした。となれば土田は、9時以降、であろうか。突拍子も無いことを叫んでいるだけでは笑ってくれない時間帯である。屈折した視聴者を抱える時間帯だ。例えば、ナインティナインは7時から9時で、ダウンタウンは9時以降、というような例えが分かりやすいだろうか。存在の真偽を最も残酷に問われる時間帯と言えよう。その時間帯がとっても似合う。荒波の中を、ちょっとしたボートで漕いでいく。正に、舵取り役となっていく。ブレた軸を修正していく。適切に正していく。この正し方に、セーター肩かけ集団は、「おお、いいね」と見定める。注文が途絶えない。
いつも言われている気配はあるが、テレビが面白くないと言われている。何故かとなれば、「“オレオレ”詐欺」の状態にあるからだと分析する。オレがオレが、という興奮を映し出すだけでは、こちらには染み込んでこないのである。そんな中にあって、土田晃之のような、常に理由のある言動を貫く存在は貴重である。プロがプロの仕事をする。土田晃之はその実直さにおいてずば抜けている。次回は、「非・権力者として毒舌を極めた土田晃之」と題して、相手を選ばず毒舌を放つ土田の、その正確性について考察を重ねていきたい。
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