其の四 KinKi Kidsからの脱皮は、進化か消耗か
文章を書く時に、もっともらしい仕上がりにする簡単な方法は、自分と世界の距離感を書いてしまうことである。自分はここで立ち止まっている、でも世界は動いている。自分も動く、でも世界の動きはそれには合わない。孤独な自分を明らかにした上で、自分と広々とした世界をブツけた上での葛藤を書く、それは、「っぽい」文章を編み上げるための安直な方法である。堂本剛が『MYOJO』に99年から05年にかけて執筆したエッセイ集『僕の靴音』は、この安直な方法に導かれた文章がただただ引き続いていく。オビに一言「…ただ、自分で在れば良い」とあるのだが、そう結論付けているわりに、自分とは何かの答え探しが、答えを出さないまま羅列されていく。旅、心、愛、命……自分を彩るコトバが予想通りに悩みを添えながら扱われる。スターが自己の葛藤を紡ぐというのは、ある意味でクラシックなやり方である。いや実は……という吐露は、こういった本においてはあくまでも想定内である。本の中で、僕も悩んでいるんだよと明らかにしてグッと距離を近づける、というやり方。むしろ最近では、このクラシックな方法を避けるかのように、芸能人がこぞってブログを始め、わざわざ隠すこと無く常に密接な距離感を持ち出そうと試みている。この論考の初回にも書いたが、茶の間が業界化し、業界が茶の間化する現在において、「自分と世界」という葛藤は、ところで客はそれをどうやって見ていけばいいのかという視座の欠損において、あまり有効な手段ではないのである。
しかし、ここの所の堂本剛は、そればっかりをやっている。アイドル・堂本剛としてではなく、そのアイドル・堂本剛が個人に立ち返った時、みんなに何を見せてあげることが出来るのだろうかという疑念。その疑念を心の内に籠らせすぎたのか、2003年、堂本剛は自分がパニック障害であることを打ち明けている。このころから、等身大の僕・俺・自分、の吐露が盛んになってくる。アイドルである自分はいつだって誰かが求めてくれる、でもそれだけで自分は自分でいられるのだろうか、みたいな。外から自分を見つめ直すことで、いま与えられている環境が初めて見えてきた、みたいな。ソロデビュー作品「街」の3曲目には「僕が言う優しさとか…」という楽曲が収められている。そこに紡がているのは疑いと戸惑いだ。硝子の少年が愛されるより愛したいと言い、全部だきしめてジェットコースター・ロマンスを叫んでいた頃からは考えられない、躊躇っぷりなのだった。内に潜んでいた葛藤が個体での活動が緩和された途端に流れ出てくる。抽象性を漂わせた「街」というタイトルにもその解放が宣言されている。
しかし、どうだろう、逆にワキが甘いのではないか。KinKi Kidsでの見られ方と実際の堂本剛は違うんです、これを初っぱなから宣言してしまう安っぽさ。捻りのない構図を深刻な顔立ちで早速漏らされる光景、むしろ彼はファン以外に向けて一歩踏み込んだつもりでいたのだろうが、ファン以外は確実に一歩引き下がって、コアなファンを三歩くらい食い入らせた印象がある。それは彼にとっては懸命な結果ではなかっただろう。堂本剛名義の作品は続かず、その後「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」と改名する。この頃から音楽としてもアイドルポップから脱線し、「本格的」になってくる。しかし、その本格的とはカッコつきの「本格的」に留まる。本格的なミュージシャンを使い、本格的なサウンドを取り入れた音楽は、ファンクでありジャズであり、ポップスの調子を狂わせることを独特の音と呼ぼう、とする安直な計算式に導かれていた。これがどのように受け入れられたか。悲しいことに受け入れたのはあくまでもコアなファンだった。彼女らが「剛君は本格的なこともできる人なんだ」と褒め讃える、そう、人員に変化は無かったのである。受け入れられなくなったのではなく、受け入れる人が結局変わらなかったという結果は彼にとって最も厳しいものだっただろう。改名を続け、244ENDLI-x、剛紫、これは名前ではないようだがプロジェクト「美我空」を始動させる。ちなみに「美我空」は「びがく」と読む。これでは「夜露死苦」と変わらない。土屋アンナの子供の名は「澄海」と書いて「Sky(スカイ)」と読む。要するにヤンキーセンスは時たまアーティストのセンスに忍び込んで、結果ヤンキーに舞い戻っていくのである。堂本剛は(そもそもヤンキーではないがために)戻ることも無く、「びがく」をそのまま漂わせっぱなしにしてしまう。この一連の自分探しプロジェクトが、堂本剛自身における実際問題として自分探しのために使われているのであれば、ファン以外にも反応する部分はあっただろう。しかし、90年代から続いているエッセイ集『僕の足音』に明らかなように、この人は自分探しを生業にしてきた所がある。それゆえに、この自分探しプロジェクトは、実は、探し終わった後の成果としての発表会という性格を持っている。だからこそ、辛い。面倒くさい。至らせた結果まで、カッコつきの「本格的」なのだ。
堂本剛が何になりたいのかは分からない、しかし、何になってしまうのかは分かる。このままいくと堂本剛は藤井フミヤになる。チェッカーズを辞めた藤井フミヤ(そもそも藤井郁弥名義だった名前をソロに転身するにあたって改名した)は、FUMIYARTと名乗って、芸術家としての活動を始めていく。愛・地球博ではドデカい万華鏡を展示した。彼に漂っている違和感が、堂本剛のそれと似てきているのだ。要するに、藤井フミヤも何かしらカッコつきなのだ。本格的ではなく「本格的」であり、前衛的ではなく「前衛的」なのだ。「自分が持っている立場を捨てたつもりでやってるけど、自分の立場があるからこそそもそもそれができている」という前提が欠けているから、自身の吐露がエッジの効いているものだと誤認してしまう。ファンだけはその立脚点に辛うじて理解を示して、その対象を(チェッカーズなりKinKi Kidsなり)理想型に戻しながら楽しんでいく。このズレを、どのタイミングではっきりと認識するかが、今後の堂本剛を決めるだろう。旧来の需要が、自分の新機軸を必死に支えている、その疲弊構造を麻痺させることはできない。いつか自分にも外にもバレることだ。旧来の需要がいつまで自分を支え続けてくれるのか、迷走の中で自分探しを連射する堂本剛はそのことにそろそろ目を向けなければならない。
次回は今回の議論を踏まえ、「正直しんどいのか、しんどくないのか」と題し、堂本剛論を締めくくりにかかっていく。
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