日本のギターロックシーンに多大なる影響を与えた4人組バンド、SUPERCARの紅一点ベーシスト&ボーカリストとして1997年にデビューしたフルカワミキさん。そのキュートでどこか非現実的な歌声は多くの人を魅了し、様々なレコーディングセッションやCM、アートの世界でも活躍をしてきました。現在はソロアーティストとしてコンスタントに作品を作り続ける一方、新たなバンドLAMAを結成するなど多忙な日々を送っています。ほんわかとしたその外見からは想像もつかない彼女のバイタリティーは、一体どこからきているのでしょうか。今回は、宇川直宏や灰野敬二、ファンタジスタ歌磨呂も所属する、彼女の所属事務所を訪れ、お話を伺いました。
テキスト:黒田隆憲 撮影:豊島望
フルカワミキ
1995年、本人のバンド募集の張り紙をきっかけに、「スーパーカー」を結成。1997年に『cream soda』でメジャーデビュー。2006年に1stソロアルバム『Mirrors』をリリース。ベース&ボーカルとして、そのプレイやボーカルの存在感は比類無きものとして評価され、自身のバンドだけに留まらず多くのアーティストの作品に参加する。また、その活動は自身の持つパーソナリティー故に音楽的フィールドだけでなく、CMやアート、ファッションの分野でも活躍。その卓越したセンスにより自身のジャンルを確立し、音楽的アプローチにも多大な影響を与えた。
やたらCDを買う兄に影響され
気になるジャケットから試し聴き
青森県出身のフルカワミキさんが音楽に目覚めたのは、歳が6つ離れたお兄さんの影響でした。フルカワさんが高校生になった頃、すでに上京していたお兄さんは、彼女曰く「やたらCDを買う人」で、自分の部屋に収納しきれなくなったCDを、大量に実家に送りつけていたそう。実家の兄の部屋がどんどんCDで埋まっていく様子を見ていたフルカワさんは、「いったい、何をこんなに聴いているのだろう?」と次第に興味が湧いてきたそうです。
フルカワ:ちょうどその頃は高校生になったばかりで、新しい音楽を色々知りたいって思っていたときだったんですね。「友達が話題にしていたり、テレビで流れたりしている音楽以外にも、何かあるのでは?」って。それで、兄の部屋にあったCDを片っ端から聴いていきました。何となく名前を知っていたものから順番に、The Beatles、The Rolling Stones、YMO、デヴィッド・ボウイ……。King CrimsonやYesなんかのプログレもあったんだけど、そのときはジャケットを見て「ちょっと私にはまだ早いかな……」って思ったのを覚えています(笑)。ジャケットを眺めていると、なんとなく「これはイケるかも?」と感じるモノがあって、そういうピンとくるものから順に聴いていましたね。
「バンドメンバー募集」のチラシに込めた
ダメ元の「作戦」とは
そうしていくうちに、「もっと色んな音楽が知りたい、まだまだ面白いものがあるんじゃないか?」と思ったフルカワさんは、青森のレコード屋に「バンドメンバー募集」のチラシを貼ることに。そのときは「バンドがやりたい」というよりも、音楽について色々話せる仲間が欲しかったのだそうです。当時は1990年代半ばで、まだインターネットはおろかケータイも普及していなかった時代。クラスメイト以外の人と知り合うにはどうしたらいいのか、考えた末の「作戦」でした。
フルカワ:チラシには、特に好きなバンド名を書くわけでもなく、ただ「全パート急募」って書きました。他には書くことがなかったので絵を描いて……(笑)。自分自身はそれまで楽器をやったこともなかったし、メンバーが集まらなかった楽器を弾けばいいや、くらいに思っていたんです。ハッキリ言ってダメ元だったんですけど、3人目くらいで「実際に会ってみようかな」と思う人が現れて、それが(いしわたり)淳治くんだった。テープを交換したんですけど、聴いてみたら好きな曲ばっかりで、たしか最初にもらったテープには当時のUKロック全般とか、ニール・ヤング、ベック、SONIC YOUTH、The Smashing Pumpkins、NIRVANAとか入っていて。兄の聴いていたものよりわりと自分のリアルタイムに近いもののほうが、当時はしっくり響いていました。それで、「バンドやろう」ってことになって、私は通販で初めてベースを買いました。Fenderのジャズベースだったんですけど、実際に実物が届いて弾いてみたら、「ベースってこんなに大きいんだ!?」って、びっくりするくらい当時は何も知らなくて(笑)。
その後、いしわたりの同級生、中村弘二と田沢公大を誘ってバンドを結成。名前は「SUPERCAR」に決まりました。しかし、その3か月後には(デビューが決まった)ソニーのSDデモテープオーディションから連絡が来て、やり取りが始まったというから驚くべきスピードです。デビューするまでマトモにライブをやった経験もなく、フルカワさんにしてみれば、楽器を触るのもバンドを組むのも初めてという状態。それでも、“DRIVE”や“cream soda”“PLANET”といった、初期の代表曲はその頃すでに生まれていました。
フルカワ:田舎だったから、本当に他にやることが何もなくて(笑)。それでも何かやりたいっていう気持ちが強くて、みんなで毎週家に集まって一緒に音楽を聴いたり、デモテープを作ったりしていたら、デビューが決まっちゃったという感じでした。高校2年の夏にメンバー募集して、12月に四人が揃い、高校3年の夏休みには青森と東京を行き来していて……本当にあっという間でしたね、トントントンっていう感じ。でも、自分たちが作っていたのは面白くてカッコいい曲だと思っていたから、「沢山の人に聴かれたらいいな」とは思っていました。
ロックシーンに一大旋風を起こしたボーカリストが
アートやファッション分野でも活躍したワケ
SUPERCARがデビューした1997年は、NUMBER GIRLや中村一義、くるりといった新世代ロックバンドが次々と登場し、以降の日本ロックシーンに多大な影響を及ぼすことになります。中でもフルカワさんは、音楽のフィールドだけでなく、CMやアート、ファッションの分野でも活躍しました。
フルカワ:お金なかったし古着ばかり着てたんですけどね(笑)。でも、バンドに女の子1人だったから、それが珍しかったのかもしれないです。音楽雑誌もあまり見ずに音楽ばかりを聴いて、「このジャケットはこの音楽のバンド」という認識だけできていたので、他のバンドのメンバー構成とか無頓着でした。そんなときに、ぱらっと開いた雑誌に女性がベースを持っていた写真を見つけて、「女の人でベースを弾いている人がいる!」と、まず勇気づけられたのを覚えています(笑)。その女性がラグランを着ていたのですが、それがSONIC YOUTHのキム・ゴードンか、The Smashing Pumpkinsのダーシーだったような……。私は肩幅が狭いんですけど、「ラグランなら目立たない! わかる!」って思って、好んで着たりしていました。あと、アートへの興味が強くなったのは、自分たちでPVやジャケットのデザインなど積極的に関わらせてもらったのが大きかったと思います。「こういう感じにしたい」と言えば、色んな人たちから「こういうのもあるよ」とか教えてもらったりして。とにかく、自分自身のちっぽけな情報が、色んな人と出会うことでどんどん上書きされていくのが、楽しくて仕方なかった。もちろんメンバー全員、The Velvet Undergroundとかも好きだったから、音楽とアートの関わりに元々興味を持っていましたし。
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