「音」は人や街を変えることができるのか?『音まち千住の縁』

「音」は人や街を変えることができるのか?『音まち千住の縁』 Vol.3 作曲家・野村誠、日本が変わるため「だじゃれ音楽」でおじさんとコラボ

「ジャンルに縛られない」とか、「ジャンルの壁を越える」とか、アートやクリエイティブの世界では、そんな言葉をよく聞くことがある。その意味では野村誠という音楽家は、本当の意味で壁を越えたところで創造を行う、数少ないアーティストの一人だといえるだろう。10年以上前から始まり、現在でも続く老人ホーム「さくら苑」でのプロジェクトでは、日本の戦後復興を支えた老人たちと共同で作曲し、楽器を演奏。その模様を映像におさめ、再構築した作品『老人ホーム・REMIX』シリーズでは、人は生きるために音楽を発明したんだと実感させられた。

そんな野村誠が足立区のアートプロジェクト『音まち千住の縁』で、今度は「だじゃれ」をテーマに「おじさん」たちをも巻き込んだ本気のコラボレーションを試みようとしている。何故いま「だじゃれ」なのか? そして何故「おじさん」なのか? そこにはこれまで壁を越え続けてきたはずの野村が直面した、切実で大きな問題が立ちふさがっていた。たかが「だじゃれ」と思うなかれ。今本気で「だじゃれ音楽」に取り組む野村にインタビューを試みた。

 

『だじゃれ音楽祭』構想をプレゼンしたときは、もし駄目だったらすぐに引っ込めようと思ってたんです。でもなぜか皆さんノリ気だったんですね(笑)。

―まず、「だじゃれ音楽」とは何ぞや? ということからお聞きしたくて。

野村:そうですね、でも実は僕もよくわからないんです(笑)。現代音楽とか民族音楽と言われれば、どんな音楽なのかってなんとなく想像がつくじゃないですか。でも「だじゃれ音楽」は、まず僕が勝手に「だじゃれ音楽」という名前だけを作ってみたんですね。すると、この言葉、人によって多様なイメージを持つんですよ。そこが面白い。だから、一つの意味に限定せずに、だじゃれ音楽とは何なのか僕も考えているし、皆もそれぞれ勝手に考えている。「これもだじゃれ音楽かもしれないな」「そっちもあり?」とか色々と見つけていければいいなと思っているんです。

―しかも最終的には来年3月の『千住だじゃれ音楽祭』公演にまで仕立てるんですよね。最初にこの企画を提案したときの周囲の反応はどうだったんですか?

野村:1年くらい前に『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』のフォーラムで、この『だじゃれ音楽祭』構想をプレゼンしたときは、もし駄目だったらすぐに引っ込めようと思ってたんです。でもなぜか皆さんノリ気で、反応がたくさんあったんですね(笑)。何なのかわからない企画にノリ気になるってことは、そこに何か本質や魅力があるってことだと思って。

野村誠
野村誠

気がつけば周りには「脱原発」の人しかいない。ということは、実は同じタイプの人にしか会ってこなかったってことだったんです。

―そもそも、だじゃれを音楽に取り込もうという発想はどこから?

野村:「だじゃれ音楽」を提案した理由ですが、昨年、東日本大震災と福島の原発事故があって、日本人というか人類にとっての非常に危機的な状況を実感しました。当時、僕はインドネシアに住んでいたので、友人からのメールやインターネットの情報、海外のメディアから日本の状況を想像してたんです。それで受けていた印象は、どうやら日本中で「脱原発!」のムーブメントが起きていて、日本の様々な問題が一気に変わりそうだ……ということでした。そんなことを思いながら8月に帰国したんです。そしたら……。

―日本の外から想像していた様子とは違っていたのでは?

野村:そうですね。イメージしていたテンションとは全く違っていました。僕の周りの人たちは皆揃って「根本的に生き方を変えなければ」と言っていたのですが……。その大きな食い違いって、いったい何なんだろうということを痛烈に感じたんです。

―その答えは見つかりましたか?

野村:僕は音楽畑の人間ですけど、音楽家としては様々な接点を求めて、世界を越境してきたつもりだったんです。美術やダンスなど他ジャンルの人とのコラボレーションはもちろん、路上で演奏したり、老人ホームのお年寄り、学校や動物園などで共同作曲したり、アジアやヨーロッパなど色んな国にも行きました。だけど、気がつけば周りには「脱原発」の人しかいない。ということは、壁を越えて色んな人たちとコミュニケーションを取ってきたはずなのに、実は同じタイプの人にしか会ってこなかったのではないかという疑問が浮かびました。

―たとえば原発推進派や反対とも言い切れない人など、意見の違う人と出会うことはなかったのですか?

野村:接点がないんです。それに気づいたのはある意味衝撃的でした。ジャンルを越えたつもりで、似たもの同士だけで集まっている。境界線のこっち側とあっち側で対立するだけでは日本は変わらない。だから、まずは意見の違う人と会いたいと思いました。

―本当の意味での境界線を越えていくわけですね。

野村:僕のコンサートや、反原発デモで積極的にアプローチしてきた人の多くが小さな子どもを持つお母さんたちでした。その意識の高さに驚くと同時に、僕と同世代のお父さんたちが少ないことにも驚きました。直感的におじさんと接点を増やしたい、と思ったのです。ただ友達になりたい。会いたいというメッセージが届くだけでもいい。で、おじさんといえば、おやじギャグ。だじゃれだ! と。会社帰りのおじさんが千住の東京藝大に立ち寄って、「アー、今日もだじゃれ言ったぞ!」とスッキリして帰る、そこから音楽が生まれる、そんな風景を夢見たのです。

僕のような当たり障りのあるアーティストを呼んでくれるわけだから、これは相当な覚悟のうえだなと思いました。

―『アートアクセスあだち 音まち千住の縁』に参加したいきさつを教えてください。

野村:このアートプロジェクトの企画者でもある熊倉純子さん(東京藝術大学教授)に誘われたのが始まりです。熊倉さんとは長いつきあいで、老人ホームでの音楽プロジェクトに始まり、2001年から2003年には、YCAM山口情報芸術センターで、複数の人が「しょうぎ作曲」という手法でオーケストラ音楽を共同作曲したり、2006年の『取手アートプロジェクト』では、公募で集まったアーティストが取手に住みながら制作したり、毎回毎回全く違うチャレンジングなことをやってきました。

―これまで足立区や千住とは接点はあったのですか?

野村:演奏や打ち合わせなどで来たことはありましたが、深く関わったことはありませんでした。でも、僕が信頼を寄せる熊倉さんが、自分が働いている大学のある千住に僕を呼んでくれたということに、とても覚悟と意気込みを感じたんです。東京藝大はこれからもずっと千住にあり続けます。熊倉さんは千住の街に対して下手なことをしでかしたら、この先大変です。それなのに、僕のような当たり障りのあるアーティストを呼んでくれるわけだから、これは相当な覚悟のうえ、本気で街と向き合おうという気持ちだなと思いました。

野村誠

―昨年は千住の銭湯でだじゃれ音楽イベントも開催していましたが、反応はどうでした?

野村:昨年は、『千住だじゃれ音楽祭』のウォーミングアップとして、タカラ湯という銭湯で、『風呂フェッショナル(プロ、笛)なコンサート』と題した演奏会をやりました。タカラ湯ご主人はとても面白い方で、藝大でのミーティングにも何度も足を運んで下さりました。今後も、タカラ湯さんとのお付き合いは続けていきたいと思っています。タカラ湯の入り口には「わ」もしくは、「ぬ」という板が立てかけてあるんです。つまりお湯が「わいた」「ぬいた」で、開店と閉店を知らせている粋な銭湯なんですよ(笑)。

―銭湯での公演は映像で拝見しましたけど、子どもから大人まで風呂に浸かって「のれんに乗れん」とか歌ったり、演奏したり、楽しそうでした。

野村:どこの銭湯にでもよくある「ケロリン」と印刷されている黄色い湯桶にちなんで、『ケロリン唱』という輪唱を作ったんです。「ケロリン」+「輪唱」=「ケロリン唱」というだじゃれなんけど、銭湯は響きが良く、これが凄いサウンドになったんです。初めは30人で演奏したんですが、アンコールでは200人の観客も参加しての大合唱になったんですよ。2つの浴室と脱衣所の計4部屋に分かれての大輪唱でした。お互いの姿は見えないけど、建物全体では響きが繋がっていたり、空間内を音が回っていく。銭湯ならではの音楽が立ち上がりました。

野村誠『風呂フェッショナルなコンサート』photo Kosuke Mori
野村誠『風呂フェッショナルなコンサート』photo Kosuke Mori

街の人が元気になるようにとか、そこに意識がいったら、作品自体が面白くなくなると思うので、まず僕自身が楽しめることをしたいんです。

―千住の街の人を元気にしようという思いはあったんですか?

野村:街の人を元気にしようなんて、おこがましいですし、千住の街はすでに元気だと思います。このインタビューのタイトル「音は人や街を変えることができるのか?」にも、実は違和感があります。「音」にも「人」にも「街」にも失礼だと思うのです。音楽は全ての人に等価に影響力があるとは思いませんが、人にも街にも全く影響しない、とも思いません。あと、「人や街を変える」という表現は、上から目線な感じがするんです。僕は、「人や街は(勝手に)変わる」のだと思います。そんな中で「だじゃれ音楽」という看板を千住で掲げ、それに反応してくる人たちと、作品を作っていくことに興味があります。もちろん千住の人たちと、僕が面白いと思う価値観の間にはズレがあって当然で、楽しいと思うポイントが自分と他人とでズレているからこそ、人とものを作る醍醐味があると思います。まったく噛み合っていないと、もの作りはできませんが、逆に噛み合いすぎると自分で自分に相談するようなものだから、作品に広がりがなくなっちゃう。ある程度の距離感があることで、「え、そこが面白いの? じゃあ、やってみよう!」となるわけで。

―ツーカーだと楽ですけどね。

野村:ものごとを進めるときは、あうんの呼吸の方がいいんですけど、ものを作るときはちょっと違う人と何かするほうが、自分でも思ってもみなかったことをしちゃったり。それがセッションの面白さだと思います。

誰も残したいと思っていないものを後世に残す、そこに芸術はあるんだと。

―今日は足立区が主催する『あだちグルットウォーキング』とのコラボレーションで、だじゃれ音楽のデモンストレーションをされていましたが、通りがかった人がけっこう立ち止まって自然に参加していたのが印象的でした。

野村:だじゃれ音楽の同好会というか、毎月ワークショップに参加してくれる人たちも少しずつ増えてきています。今日は音楽用語にかけてだじゃれを作ってみようとだけ決めて、何も考えずに公開ワークショップを始めたのですが、いつの間にか沢山の通りがかりの人が関わってきてくれました。「フェルマータ」という音楽記号の名前が、「ふえ(笛)るマータ」になり、たまたま昨年のタカラ湯『風呂フェッショナルなコンサート』で使った笛がたくさんあったので、みんなで演奏しながらどんどん笛のパートを増やしていこうかって。その場で決めながら、“笛るマータ”という曲の骨格ができていきました。これは名曲ですよ。「フェルまった」ということで、曲の途中で「待った」をかけたり、「フェルまるた」ということで、「丸田さん」というスタッフが待ったをかけたりするのです(笑)。

―何も決めずに始めたのに行き着いたというか。

野村:生まれちゃうんですよね、勝手に。でも作品って、その存在や可能性を信じて、そこに意識をフォーカスするから生まれるんです。「音楽用語をだじゃれにするなんてバカバカしい」って冷めてしまったらそこで終わり。だけど僕は、その場にいる人が適当に言った一言のだじゃれこそ美しいと思い、その時その場にいた奇跡を愛おしいと思い、そのことがきっと「名作になるはずだ」って信じる力になっているんです。所詮はだじゃれと捨ててしまわずに、粘り強く、こうした創造の種を育んでいくこと。そこに希望があると思うんです。

―当たり前だと思ってしまったら、それ以上は進めないんですね。

野村:ペットボトルをペットボトルだと言ってしまえばそれまでだけど、優れた楽器だと思ったら、どうやって良い音を出そうか工夫するでしょう? だじゃれは生まれた瞬間に「シーン。はい。ありがとう、さよなら」で終わるものですか? 僕は「あなたのだじゃれから生まれた音楽が、30年後にも名作として残っている」って強く言ってるんです。みんな半信半疑だけど、僕にはこの“笛るマータ”という曲が、30年後に他の街で演奏されている姿が見えるんです。「僕が40代の頃に千住の『音う風屋』で作りました」って言いながら。価値がないと思った瞬間にゴミになり使い捨てられる。でも、そこに価値があると思ってみることで、世界は全く違った見え方をするのです。僕は世間から白い目で見られるリスクを背負いながら、だじゃれの修行をしてるんですよ(笑)。

―“笛るマータ”の後に出来上がった「ハチがぶんぶん八分音符」「しぶしぶいうのは四分音符」という歌詞の“おんぷ”という歌も面白かったです。

野村:「しぶしぶ言うのは四分音符」は、言葉のリズムが良いですが、自分だけだったらあれ以上掘り下げようとは思わなかったです。でも、ふらりとやって来たお母さんが「これを、どうするの?」って顔をしているから「これ、音楽にしなきゃ」と思って、大人が寄って集って一生懸命ひねり出した。そんなことに意味があるのか、と言われそうですが、それがユニークな音楽を生み出した。あんな譜面、今まで一度も見たことないですよ。八分音符ばかり並んだり、四分音符ばかり並んだり。参加した人から「四分音符の歌詞は全部四分音符にしてみたら」と言われたとき、うまくいかないと思ったんです。音楽家としての経験から、音楽は色んなリズムが組み合わさるから面白いんで、単調で良い曲になるわけがない、と半信半疑だったのですが、プロの先入観は良くないですね。

―今度の11月にも2回のワークショップがありますね。

野村:そこで生まれた「だじゃれ音楽」は、美術家の宮田篤さんと膨らませる可能性もあるし、三浦正宏さんと構想中の「だじゃれ音楽番組」に入って来る可能性もあります。宮田さんは以前から、だじゃれ的なセンスでインスタレーションなどを作っているアーティストで、2010年に『らくがっき』というプロジェクトを一緒にやったこともあります。僕にだじゃれの可能性を示してくれた先駆者なんです。

だじゃれ音楽だからって、舐められるようなものにはしたくない。シッチャカメッチャッカで、何が楽しいのかわけわかんないくらい楽しいというのをやりたいんです。

―来年3月の『千住だじゃれ音楽祭』はどんなものになりそうですか?

野村:だじゃれ音楽はそんな簡単に1年や2年じゃ終わらないものなので、あくまでも今年度のファイナルです。あと、だじゃれ音楽だからって、舐められるような質に留めたくない。だじゃれ音楽を日々実践しているメンバーと、街の人たち、さらにあの人にこんなもの演奏させるのかってくらい腕の立つミュージシャンもゲストに呼びます。だじゃれ音楽の多様性と可能性をしっかり見せたいので、ひとつの形に集約されるようなコンサートではなく、シッチャカメッチャッカで、何が楽しいのかわけわかんないくらい面白いというものになります。

―その後の野望もありますか?

野村:いつか千住の住民(千住民)1,010人での『だじゃれ音楽祭』を実現したい。30年後に「昔、『だじゃれ音楽祭』ってあったよね」と語られたり、「あのときはバカやってたね。あの感じ、今の千住に必要だ」って伝説になったりするところまで、粘り強くやりたいです。

野村誠

―野村さんにとって千住はどんな場所になりそうですか?

野村:「だじゃれ音楽」というセンサーに引っかかってくる人との出会いの場が僕にとっての千住です。時には空気を読めずに街の空気を引っ掻き回して、怒られるところは怒られ、すみませんと謝ったり仲直りしたりしながら、やっていきます。僕、本気で真剣にだじゃれのことを考えて、世界を変えようと思っているんで。そして世界を変えるためには、自分が変わらなきゃいけない。それで、この間もふと考えていたら「原発やめます」が「げんパンツやめます」になって、今、実際にふんどしへの移行措置中なんです(笑)。原発やめるならパンツも本気でやめなきゃいけないだろうって。

―(笑)。ちなみに、ふんどしはいかがですか?

野村:楽ですよ。パンツって脱いでみて初めて分かったんだけど、けっこう無意識に身体を縛ってるものなんですね。知らない間に縛られてしまっていることがあるんだなと。原発は、もの凄いお金を投入して人類の智を結集した、テクノロジーの最たるものだと言われていますよね。それなら僕みたいなアーティストは、紙切れとか石ころとかだじゃれとか、普段は捨てられるようなもので対抗してやりたい。言葉や音、想像する力でね。

イベント情報
『アートアクセスあだち「音まち千住の縁」』

2012年10月27日(土)〜12月2日(日)※メイン会期
会場:東京都 足立区千住地域
参加アーティスト:
足立智美
大友良英
野村誠
大巻伸嗣
やくしまるえつこ
八木良太
スプツニ子!
ASA-CHANG

プロフィール
野村誠

作曲家、ピアニスト。名古屋生まれ、京都在住。8歳より独学で作曲を始める。京都大学理学部数学科卒業後、ブリティッシュ・カウンシルの招聘で英国ヨーク大学大学院にて研修。動物園で動物との即興セッションを行い、映像作品『ズーラシアの音楽』(横浜トリエンナーレ、2005年)や『プールの音楽会』(あいちトリエンナーレ、2010年)などを国内外で発表。1999年より、横浜市の特別養護老人ホーム「さくら苑」でお年寄りとの共同作曲を続けている。銭湯のお湯を演奏する『お湯の音楽会』など既成概念にとらわれない音楽活動、アートプロジェクトで知られる。06年、NHK教育テレビの音楽番組『あいのて』を監修し、自身もレギュラー出演。作曲プロジェクト『原発やめます』続行中。



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