というのは、生きているだけで常に選択を迫られる。お茶を飲むのか、それともコーヒーを飲むのか、なんていうどちらに転んでも心配のいらない選択もあれば、果たして自分はどんな仕事をして、どう生きたいのか、なんていう不安だらけの選択もある。20代というのは、そうした人生の選択を迫られる時期であり、それ故に悩みもする。
もまさに、PaperBagLunchboxというバンドを通じて、人生の選択を迫られる20代の若者の苦悩と葛藤を、隠し事なく赤裸裸に描いてきた。テレビドラマのようにドラマチックでもなければ、そもそもエンディングの落ちすら決まっていない現在進行形の物語は、「読んで心が重たくなった」という感想をいくつもいただくほど残酷でもあったし、しかし、著名なアーティストたちのインタビュー記事を差し置いて、この半年間ずっとアクセスログの最上位に居続けてきた。書いている自分ですら予想もしなかったその反響の大きさを見て、きっと多くの人が、もがき続けるPBLの姿に、少なからず自分の影を見つけたのかもしれないと思った。
続けてきた連載『音楽を、やめた人と続けた人』、始めてからこの半年間あまりにもめまぐるしく「PBL=音楽を続けた人」が動き回ってくれたお陰でなかなか書く隙間もなかったが、連載の主旨にもなっている「音楽をやめた人」について、この回で少し、書かせてもらうことにしたいと思う。
どんな風に生きていきたいのか、誰だって少なからず悩むはずだ。自分なりの理想や夢があって、それを思えば心は弾むけれど、我に返れば目の前には理想とかけ離れた現実があったりする。PBLを追いかけてきたぼく自身もやはり、どんな風に生きたいのか悩んだし、思い描いた夢を諦めもした。自分は誰よりも斬新で、人の心を打つ音楽が作れて、それを大勢の人々がお金を払ってでも聴きたいと思ってくれる。今考えれば赤面するようなことを本気で信じている時期もあったし、そんな風に過信する材料も少しはあった。20歳そこそこでメジャーレーベルやマネージメント事務所から連絡もきたし、テレビCMの音楽を任されたり、新人発掘系ラジオ番組のグランプリに選ばれたり、ズラリと有名プロデューサーが並ぶなか、スタジオライブをやらされたこともあった。メカネロのメンバーになってからは、トントン拍子で事務所が決まり、デビューもさせてもらった。同世代のなかでは「順調」と言っても良いくらい、自分には音楽で生きていく道が拓けているように思えた。
の冒頭にも書いた通り、2006年4月、メカネロとPBLは共にツアーを回った。PBLはその2ヶ月前にファーストアルバムをリリースし、同じくメカネロも、5ヶ月前にデビューアルバムをリリースしたばかり。どちらも業界内から暖かい評価をもらい、勢いに乗っていた季節だった。そしてメカネロは、その勢いを更に加速させるべく、そのツアーの合間をぬって早くもセカンドアルバムのレコーディングをしていた。PBLが結果として5年間も生み出せなかった「因縁のセカンドアルバム」を、メカネロはその頃すでに作り上げようとしていたのだ。
でぼくは、自分が担当するキーボード以外にも、そのアルバムのプロデュースとレコーディングエンジニアを兼務していた。レコーディングの準備から録音現場の仕切りまで時間の許す限りの作業を行い、ツアーをしながら、CINRAの仕事も同時進行していた。翌月には「株式会社CINRA」の立ち上げを控えていたため、PBLとツアーを回っていた頃は既に、食い扶持をCINRAとして稼がなければならない状況でもあったのだ。今振り返ってみれば、こんなに色々と抱え込んでよくもまあ出来ているつもりになっていたなと恥ずかしくなるくらい、当時のぼくは、自分で自分を見つめることができていなかった。
ただ忙しいことに自己陶酔的な喜びを感じながら、自分のやりたいことに邁進していた「やめた人」がいる一方で、まさに「株式会社CINRA」が誕生したその頃、PBLにはナカノの姉の死という不幸が襲いかかり、長い迷走へのスタートを切り始めていた。メカネロの主催イベントで再び同じステージに立った両バンドは、あのツアーからたった3ヶ月しか経っていないにも関わらず、明暗がはっきりと分かれていた。順調にセカンドアルバムを作り上げ、その発売を目前に控えたメカネロに対して、PBLは、「レコーディングのためにしばらくライブを休みます」とアナウンスをしたまま、長いこと沈黙した。結局彼らのアルバム制作は頓挫し、半年間も公の活動ができなかったPBLの名前は、次第に周囲の記憶から忘れ去られ始めていた。
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