vol.216 環八から海岸へ行く方法(2009/03/02)
小説のような出来事、というのは、「ような」の部分が大事である。決して小説ではないのだ。へぇー、それって小説のような出来事だね、と立ち去る場合が多いのだが、言い残して立ち去れる類いの言い方ではない。小説のような、って往々にしてズルい。
スーパ―銭湯へ行こうと駅前で人と待ち合わせていたので、時間に合わせて家を出る。セットプランに貸しタオルも含まれているようで、中で飲むコーヒー牛乳代と、施設内の食事処でそれなりにありつける額を突っ込んで、手ぶらで駅まで歩いていく。なんだかここらへんの周りは、人気(ひとけ)はあるのに具体的には人が見つからない夕刻で、温度はあるのに熱源はないような、音はするのに音を鳴らしている人は見当たらない、閑静な住宅街ってだけでは片付けられない静けさが保たれているのである。そんな中をとぼとぼ歩いていると、前方から帽子を深々とかぶった老人が、車道と歩道を分ける白い線に乗っかりながら歩いてくる。白い線を外れない。かといって、必死にバランスを取って白い線を守っているのでもない、足が吸い寄せられるかのように。歩道を歩いていた僕は、住宅の壁と白い線の上の老人に挟まれるように彼の横を通過する。彼が立ち止まり、僕に話しかけてくる。「海岸へはどうやって行ったら良いですか?」「へ? 海岸ですか。海岸って海ですよね。どちらへ、と言ってもここら辺に海岸はありませんけども」「いやいや、海岸ですよ、海岸。」「ええ、その、あれですよね、海。」「そうですそうです。」
いわゆるオカシイ人にはどうにも見えないのだ。ボケてもいない。格好も立ち姿もいわゆる老人なのだ。「こっちへ行きますと環八通りで、海、は、な、いですけど。」「そうですよね、こっちは環八ですものね。それは知っています。ですから、海岸はどちらかと聞いているんですよ。」「海岸、海、そう、ですね、強いて言えば、そのままお進みになって、あっちのほうですかね。」「おかしいなあ、海岸、どっちにあるんだろうか。」「すみませんお役に立てずに。」「いえいえ、ありがとうございました。」老人は引き続き、白い線の上を歩いていった。15キロくらい歩けば川崎京浜の港にでも着くのだろうけども、彼の確信めいた眼光は、もうそこら辺に海岸はある、という目をしていたのだ。
通り過ぎて20秒ばかし、後ろでまた「えっ、海岸ですか」と驚く主婦の声が聞こえる。おそらく僕と同じような問答を繰り返しているのだろう。老人の声は聞こえない。僕と老人らの間を、音を立てて小さなトラックが横断していった。その間、会話は聞こえなかった。通り過ぎると、老人の声が聞こえた。大きな声ではっきりと。「助かりました。海岸、もうすぐなんですね。ありがとうございます。」ん、どういうことだ。ここで思わず振り返る。すると、坂を下っていく老人の帽子が消えていくところ、そして、その主婦と思しき人が、横の路地へ消えていくところだった。
小説のような出来事だなこりゃ。「ような」出来事は、淡々と「ような」を続ける。ような出来事を締めくくってみると、その出来事の異様さがじんわり増してくる。住宅街で海を探し求め、その場所を示唆した主婦、いたような、いなかったような消え方、小説のような出来事は、小説じゃないと、やっぱりちょっと、恐い。
vol.217 反・逆チョコ(2009/03/09)
段ボールを折り畳んでいる時に、ところで、と口を開き、唐突に「ひな祭りってのは、そもそも誰が誰を祝うんだっけ」と問うた。こういうことが最近よくあるのだ。「そもそも」が分からなくなる。大人が子供を祝うのか、男性が女性を祝うのか、そもそも祝う類いの行事ではなかったような気もしてくる。盛大に、今日はひな祭りだから、という号令で始まるパーティーの類いが呼び起こせないのである。しかし、こどもの日は男の子女の子両方なのにひな祭りはなんで女の子だけなんだ、と悔しく思った記憶が蘇る。ひな祭りってのは損をしていたイベントだったのか。損をしていたのかもしれないのであれば、あの頃の、ひな祭りとの距離感を正確に呼び起こしたい。
バレンタインデーとやらに、逆チョコという強引な仕掛けがあった。女子からチョコレートをもらうんじゃなく、今度は男子が女子にチョコを渡すらしい。バレンタインデー自体が企業戦略から発したことを考えれば、今回も同じくなのだが、「逆チョコ」という言い方がいかにもで、上手くできている。裏技いかがですかと、あちらこちらで布教する。チョコの行き交い方にルールなんていらないようである。いわゆる義理チョコが、OLの「これ、女子社員みんなからです」という併せ技によって縮小傾向にある中、逆チョコとやらが、勝手に作った風習に根付いたルールを勝手に破っていく。もう、男が渡せよと。「私、逆チョコってゆうか、もらったよ」、別の女子が横槍を入れてくる。「ってゆうか、っていうと?」。「女子から女子へのお世話チョコ」。
お世話チョコ。もはや戦後ではない、と同じような強度で、もはやバレンタインデーではない、こうなると。チョコがそこにあって、そのチョコをどう扱っても許されるとなれば、その無法に何とかデーの称号はあげられん。パパ、チョコレートいくつもらったー、の設問に、父さん、たっくさんもらったよー、と答えたいがためにコソコソ買った4割引の自腹チョコレートこそプライスレスなのでありまして、逆だ世話だと範囲を広げることで失われるパパの葛藤など、チリも積もれば日本経済の豊穣に繋がるかもしれず、そういうことをうやむやに無かった事にしちゃいけない。
何かとかこつけて行事にしてしまう。そこに要素を叩き込む。イベント化する。毎日がスペシャルと歌ったのは竹内まりやだったか。まりやはね、そんなつもりで歌ったんじゃないと思うのだ。具体的にスペシャルにしろということではなくて、いつだってスペシャルかもね、というくらいのものだ。イベントを大事にしない男はどうのこうのと、女子が酒場でがなる。まあ、待て。そもそも何がイベントなのか、そしてそのイベントはどういうことを、すなわち誰が誰に向かって何をすべきイベントなのか、そこをはっきりしてからにしようじゃないか。あれこれイベント化してルンルンされちゃ困る。そこんとこの話、しっかり詰めませんか。
vol.218 うるるん滞在で帰れず記(2009/03/16)
ドのつく青春映画を、独りで観に行った。土曜の夜、9時すぎからの最終回に集まるカップルの皆さんは心なしか密着度が高い。例えば、こちとら、両サイドのひじをかけられるのだった。なぜなら両サイド共に密着度が高いがゆえにこちらのひじ掛けは使わない。両ひじかけて、こんな所で重役気分。うぉっほぉん、キミね、なってないんだよ、この書類。明日の朝までに直したまえ。とかなんとか独りで演じていると、左隣はくねくねしている、右隣はベタベタしている。ワタシは完全に孤立している。場内、暗転。
観客として、映画の終わらせ方には、いくらかのパターンがある。エンドロールが流れた瞬間に荷物をまとめて出て行くパターン。これ、あんまりしないんだけど、気持ちは分かる。映画終了後、エレベーターにごった返してぎゅうぎゅう詰めの中を下る。そしたらその中の誰それが映画評を始めるわけだ。そういうとこでわざわざ発するような奴に限ってネガティブなことを言う。彼は、ちょっと伸び悩んでるよね、的な上空飛行。その手の被害に遭わなくて済む。懸命な判断ではある。しかし、やはりエンドロールで余韻を、というのが一般的だ。エンドロールを観ながら何となく荷物をまとめている人、これはいい。エンドロールが終わればすぐに出られる。エンドロールをきっちり見終わるまで微動だにしない。これもいい。映画に対して真摯的だ。要するにどちらもいい。エンドロールが終わり、場内に灯りがともる。その時の、各人の動き合いみたいなものが好きだ。わさっと動く。それでも動かない人がいる。あと30秒くらい必要と、体が訴えているかのよう。別に泣いているわけじゃない。能面のように顔から表情が消えているのだけれども、ちょっとまだ時間が必要という顔をしているのだ。あれが、好きだ。
さて、エンドロールは終わったのだが、ワタシは両ひじをかけたままだ。左隣のくねくねはぐねぐねになり、右隣のベタベタはベッタベッタになっている。重役は腕を組む。おい、こんな時どうする。前の席をまたいで帰るか。しかし、折り畳まれた映画館の椅子をまたぐのはなかなか難儀だ。しばらくワタシは、腕を組んで待つ事にした。すんませんと手刀切って帰ったら負けだなと、そう思ったのだ。隣の女子が、うるるん、という目をしている。しかし、これはおそらく、うるるん化させた目であって本当のうるるんではない。こいつはすぐにうるるん化させられる才能の持ち主に違いない。腕を組んで横目でみる。彼は、そのうるるんを真摯に受け止めてしまっている。うるるんに負ける男は成長せずにいつまでたってもうるるんに負けるのである(知らないけど)。私たちだけの時間と、私たちだけの時間、その間に巨体が独り。「私たち」にとっては、そんな巨体がいたって私たちの時間なの、ということなのだろうが、ワタシはほんとうにどうしたらいいのだろう。
うるるんの水分が少し落ちてきたようだ。うるるんが落ちて、でも、顔だけはうるるん状態が保たれているから、やや珍妙である。こっちは過度の花粉症、客がバッサバッサ振りながらコートを着れば、こちらの目鼻はぐじゅぐじゅ。目薬を差した。目がうるるんとした。差しすぎて、目を閉じると、ホロリと涙のような目薬が頬を伝った。何となく隣を見た。目が合う。汚いものを見るような視線を残して、もの凄い勢いで席を立っていった。目薬をしまったりウォークマンをセットしている間に、僕は最後の客になってしまった。泣き顔のような僕を、清掃のおばちゃんがやさしい目で見てくる。分かるわよ、というような。その優しさは、土曜の夜にはさすがに染みる。むしろ涙だと言い張る目薬なり。近くの本屋で、その映画のノベライズを買って帰った。
vol.219 繊細なアタシ(2009/03/23)
おまえにこの気持ちがわかるか! みたいな時には、もうそもそも分かりようがない構造になっていることが多い。構造が下支えしている時の気持ちなんて最も共感しにくい或いは共感しちゃいけないんであって、そこら辺を誤変換して「繊細」みたいな流行りだよな昨今、それはあんまり宜しくありません、ってことらしい。「気持ちって、『気持ち』みたいに一言で表せないから気持ちなんじゃないかな みつを」と、勝手に捏造してみて改めて納得。良いこと言うなあ、みつを。
どっかのタレントだったか、お父さんになって欲しくない仕事として、サンドイッチマン(自らが柱になってパチンコ屋やテレクラの広告を挟み街中に突っ立てる仕事)だけは止めて欲しいと言っていたのを思い出した。正直だ。ヤバい仕事とか仕事が無いって状態には、とりあえずドラマがある。だけども、サンドイッチマンにはドラマが無い。クラスの人気者とアイドルがヘンゼルとグレーテルを演じている時、僕は「木」の役で後ろからその二人を見守っていたんだったか。木の幹の上部を切り抜いて顔を出していた。その表情はどうだったのだろう。今になって精査したい。物語が転換するごとに、その表情を変えられていただろうか。まさか顔から表情を消して単にのっぺりと過ごしていたのではあるまいな。ドラマは待つのではなく、自分から動かなきゃ生じない。そういう確信めいたことを言うのは、木ではなくヘンゼルとグレーテルだ。木はどうすりゃいい、頷くことも出来ないじゃないか。木として、サンドイッチマンとして、そもそも動けるか、その選択肢からくださいよってやつだ。
恵比寿のオシャレなお店街にいた。行き交う人がみんなオシャレだ。知ったかぶりで言うと、着られるのではなく着こなしている。お店の前で何やら配っている。ハーブティー専門店が新しいハーブティーを仕入れたようだ。仕入れるのか開発するのか知らんが。紙コップにハーブティーを注いで配っている。ツカツカ歩いていたOLがそちらへ歩み寄りハーブティーを片手に店員とニンマリ話している。そのテイストとか、風味みたいな話か。テイストと風味って一緒か。ならば僕も貰おう。かつて「木」役で腕を鳴らしたはずの演技力でビーナチュラルに歩み寄る。さっと手を出す、さっと手を引かれる。いやいやいやいや、さっと手を出す、おお、もう別の人に渡しとる。後ろから来たaiko風の美容室アシスタント風の民族衣装風に。風味良し。この、後は紙コップをはめるだけになってる丸形のお手てをどうしてくれよう。バッティングセンターにでも行くか。
確かにハーブティーを飲む顔じゃない。だけどハーブティー屋に向かって勇気を出して言うよ。ハーブティーを飲みそうな顔だけにハーブティーを配っていたってハーブティーのシェアは広がらない。しかも新製品だろう、そのハーブティーを飲ませてくれさえすれば、僕はハーブティーに目覚めたかもしれない。この一件でハーブティー全体に対して機嫌を損ねた。青汁とハーブティーしかない国へ行っても、おいらは青汁だけを飲むね。ただし、ハーブティーだけしなかったら、その時はもう一度相談させてくれないか。とぼとぼ歩く僕の横をaiko風が通り過ぎて行った。おまえにこの繊細な気持ちがわかるか!
vol.220 お口のために死んできます(2009/03/30)
電車の中での嘔吐というのは、一個人が放てる最強の飛び道具に違いない。食べたものを出すという、真理への明らかなる反抗、あらゆる食物を俺色に染めてお戻ししますという暴利、そのくせ俺のことは俺でやりますとか言いながら横目でどれだけ僕のことを見てくれているのか確認しながら安易に毒づくパンクロックのDIY精神に似ているんであります。これは繰り返し申し上げていることなのだが、「俺こないださー、もうあれ、記憶なんてないわけよ、どっかで吐いちゃったことは覚えてんだけどよ、気付いたらゴミ捨て場に寝っころがってたねえ」という武勇伝を、耳にタコができて口からゲロが出るほど聞かされてるんでありまして、どうしてこの手の話を翌朝自慢げに語ることが出来るんでございましょう。何かで目立つ、という方法論がそこでしか見つからない方は、この手の話は一晩眠らせて意識的に武勇伝として固形化させるんでしょうかと言えたらイイけど言えないよなかなかと口ごもっているうちに、また出すんです、口から。
週末の電車の中は可能性に満ちている。明日に向かって的な可能性ではなく、今そこに出つつある吐瀉物という可能性。はぁぁぁふぅぅぅと繰り返すサラリーマンは帰路につく最終電車である以上、意地でも降りない。「もしかしたら吐かないで乗り切れるかもしれない」くらいの認識で乗り込んでくるのだ。「もしかしたら吐いてしまうかもしれない」ならば、まだ容認する余地は残されているけども、「おそらく吐くだろうけども大丈夫かもしれない」という博打なのだ。周辺にいる人間は、その「はぁふぅ」を定期的に監視している。「はぁふぅ」が「はぁふぅぅううううっ」になると、女性は仰け反り、男性はわざと肩をブツける。文庫本を読んでいた学生は文庫本を閉じ、もしもの時に備えている。被爆を避けるためだ。ピカッと光ったら物陰に隠れるだけで、少しは被害を軽減できる。いよいよ、「はぁふぅ」が消え「うぅぅぅぅぅうううう」と、発射が近いことを告知し始める。キャンプファイヤーの火を取り囲むように彼の周りに円が出来る。すし詰め状態から強引に作り出された円だ、ジンギスカンを踊る隙間はない。吐瀉の放射力がいかほどか、その飛距離、そして方角が全てを握る。うずくまって、うううぅと時計回り、ううぉぉううと半時計回り、ハンカチ落としか椅子取りゲームか、あたしかな俺かなと、顔が引きつっては和らぐ。そう、一瞬和らぐのだ。面白いもので、もう間接被爆に関しては容認しているのだった。
発射の時間が近づいた。時計回り半時計周りを繰り返していた彼は下を向いた。罪無き民に爆弾を投下するのは非人道的だと思い直したのであろう、最後は自死を選択した。母さん、お国のために死んできます。おまえさんのバカッ、何言ってんだい、いつまんでもおめえさのこと待っとるけぇ、こんな若えお嫁さん残して、何が死んできますだ。母さん、早百合(嫁/仮名)、俺のことは忘れてくれ。
発射。特攻隊は、確かに自ら命を落とす。しかし、その周辺も死と同様の被害を受ける。うずくまって自死を選んだ選択は賢明だったが、返り血を浴びた民は戸惑いと憤怒を隠さない。おい、こいつの母ちゃんはどこにいるんだい、どこにいるかしらないけど、おれ、こいつの自死を美談にはさせないよ。田舎のお母っちゃんを泣かせるなんて何て罪な息子なんだ、ったく。発射を見届けた後、とある駅に着く。乗客は降り、隣の車両へと移っていく。彼と僕と、何故だか若いOLさんが残った。鼻をつんざく例の臭いが充満する。うずくまる彼と、座る僕と、向かいに座るOL。僕は何となく、今そこにある発射の事実を許した。OLも許しているように見えた。ただ翌朝、これが武勇伝になっていないことを切に願った。加害者にもなり被害者にもなる、これが戦争認識なのだ。お国もお口も変わらない。まあ何て心優しいのかしら、僕とOL。
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