vol.242 メロンパンマン(2009/09/07)
最寄り駅のコンビニは深夜近くになると、改札から出た人々をそのまま吸い込んでいく。サンドイッチ前にOL、おにぎり前に若手サラリーマン、おつまみ前に中間管理職、アイス前に別のOL、各々が小腹を満たすそれぞれの品物を持ってレジに並ぶ頃には、列はアイス売り場を曲がって飲料コーナーにまでさしかかる。人が買うものを凝視する。そしてその選択に物語を編み込んで時間を潰して待つ。
おにぎりと電気料金の若手サラリーマン。会社を出ようと身支度を整えている所へこの8月に課長に昇進した末次さんがやってきて、ちょっと飯でも食おうかと。昇進以降、基本的に機嫌がいい。致し方なく付き合う。創作居酒屋なんだけど、料理そのものの少なさを「創作」でごまかすことだけに長けている店でどうも小腹が空きっぱなし。という所で紅鮭おにぎりを。
さきいかと発泡酒の中間管理職。普通に仕事で遅くなったオレと心地よく酔っぱらった誰それ、この差は何なんだろう。いや、そもそも差なんてあるのか、一緒なのか。それでいいのかと誰も問うてくれないから、やっぱり酒を飲む。あ、DVD、明日までだったか。「クライマーズ・ハイ」をそれなりに感情移入しつつ観る予定。
サンドイッチとヨーグルトのOL。昨日読んだ女性誌には、午後8時以降一切食べるのを止めた女優のダイエット法が載ってたっけ。でもそれはね、と雑誌を見ながら弁舌垂れたくなった私の口に向かいかねない菓子パンたち。菓子パン卒業、サンドイッチ歓迎。カロリー変わらずとも、名称だけで印象良。ヨーグルトも、何か響き的に。
アイスと「anan」と単4電池のOL。アイスはハーゲンダッツ的な、でも決してハーゲンダッツではないバニラを。「anan」の特集は「私を幸せにする仕事」。草なぎメンバーが表紙。全裸で逮捕されてもしっかり戻れる、それって幸せな仕事よね。単4電池はベッド脇にぶら下げてる懐中電灯の電池が切れたから。
タケダの順番。野菜ジュースとベビースター。自宅までは徒歩12分、ベビースターをつまみながら奥歯に詰まった麺を野菜ジュースで押し流していく。なかなか取れなかったりキレイにとれたり。この葛藤が好きなのだ。
レシートと、おつりをもらう。体が動く。どうしてだか、レシートを財布にいれ、おつりを不要レシート箱に入れてしまう。そのボックスにはレシートがもっさりと積もっていて小銭を全部収拾するのは容易くない。だから、潔くそのままにしてみた。店員は驚いた顔をしていたけれど、でも、オレってそういう男だから、とか何とか言ったらどうなるんだろうかなんて考えている間に、肩を叩かれて、その中に光る100円玉を見つけた女性から100円を受け取る。その女性は、単独でメロンパンを買うようだった。単独深夜メロンパン、この人だけは勝手な物語が思いつかずに、深々と頭を下げた。
vol.243 構想4年目あたりのこと(2009/09/14)
実は準急から各駅に乗り換えるホームで思いついただけなのかもしれないのに、あたかも前々からこの話は練られていて、ようやくここに結実したのだという流れを作りたがる人がいる。怪しい。それは思いつきじゃないのか、と問う前に、思いつきではないと申し出てくる。いやはや怪しい。そんなの決まってるじゃないか、思いつきに。
本屋で、ある女性ミュージシャンが書いた小説の存在に気づいた。そこには「構想10年」とあった。「構想10年」が気になり始める。構想10年とは実際にはどういう姿であろう。おトイレへ行く他はずっとソファーの上で沈思黙考している、これぞ「構想」。でもそれじゃあお腹が空いて死んでしまう。キッチンに立って料理しなきゃいけないし、お買い物にも行かなきゃいけない。友人からの誘いだってあるし、週2回のヨガもある、とまあ、このように純然たる「構想」は薄れていく。そもそもこの人はミュージシャンだ、構想に励む時間は限られているだろう。
本でも映画でも、建築物でも医療方法でも、「構想10年」的な宣伝パフォーマンスは多い。それらにもっと冷淡に付き合うべきなのだ、と思う。時間をかければかけるほどイイものが生まれると考えるか、思いつきをそのまま形にしたほうが人に届きやすいものになるのか、どちらの考えを持っていようが構わない。しかし、時間がかかりました、10年もかかりました、と言われた時に、構想の4、5年目辺りは何もしてないなと予想していく態度を忘れてはならない。だって絶対なんもやってないんだぜ、4年目とか。周りの関係者が、あれ、あの話って、もうナシになったんですっけ、と本人のいない所で囁き始める頃、そいつはもうそれについて何もしちゃいないのだ。そんな月日が三年くらい続く。んで、あるタイミングで思い出し、さすがにそろそろと重い腰をあげる。
「構想10年、いよいよ完成」、だからこの触れ込みはおかしい。だって、4、5年目はなんもしていなかったじゃないか。大作映画だと「着想15年」なんてのもある。「着想」と聞くと、人は、思案し続けた誰それを思い浮かべる。しかし、それは嘘だ。実際の所は、ちゃんと思いつくまでに15年かかったということに過ぎない。あれどうすっかな、の反復を、進展せずに繰り返していただけだ。そしたら15年経っていた、人はそれを凄いと言う。それは、凄くない。
これから6年後に、「これは構想10年です」と言えるものはないかと探してみる。すなわち実は熱は冷めてしまっているけども、そのうち熱がぶり返してどうにか売りに出せそうな構想についてである。何も考えていなかった構想4年目として後々に処理できそうな案件はなかろうか、と。構想10年かけてその小説を書きあげた歌手は、かつては、「夢見る少女じゃいられなかった」人である。こちらから聞いてもいないのに、夢なんか見てらんないと答えてきた若々しさ、その若々しさと今更ながらの「構想10年」は反比例する。実際に見えるものを無いとシャウトした少女が、実際には無いものをあったかのように見せたのだとしたら、「構想」とは、罪作りな加齢方法ではないか。
vol.244 クリアファイラー(2009/09/28)
その存在感をしっかりと認められてない存在というのは、大抵の場合において自分の存在を声高に主張してくるものなのだが、稀に例外も在るのであって、淡々と仕事をこなして、必要以上の要望に応え続けて、気づけば体をボロボロに病ませて捨て去られるのである。そういう存在を生み出し続けることへの躊躇の無さが、いわゆる現代の病というやつなのだろう。その存在に向かって、しっかりと感謝の気持ちを捧げる、或いは具体的にケアしてあげる、福祉の精神って、そういった分かりやすい弱者に向かうと同時に、「かわいそう」だけではなく、当人にも対外的にも「まだまだ元気」と印象づけてあげる、ってこと。これが介護の正しい姿なんだと思う。知らないけど。
文房具を愛でる人の多くは、ボールペンやノートや消しゴムといった主役クラスに気を配る。色彩豊かなそれら、握り心地や消し心地を極め抜いたそれら、机に溜まっていく選りすぐりの文房具たちは、自己主張の集積に思えてしまう。オレがオレが、と、机がうるさいのだ。私はそういう勢いに裏打ちされたハッタリ感の強い存在を好きになれない。おおらかな、耐え忍ぶ、謙虚な、それでいてハートの強い存在を愛でる。
自らをクリアファイラーと呼んでいる。無地のクリアファイルに対する愛情の深さを問われれば、日本で数本の指に入るのではないか。とにかく挟む。挟んだものと同系統の書類であれば、更に挟む。同系統だけどちょっと分けておきたい場合には、新たに挟んだものをクリアファイルごとクリアファイルに入れる。クリアファイルの心の広さはその容量にあって、言ってみればここまでしか入れられませんという限界など存在し得ないのである。限界です、と彼らは言わない。そろそろ限界かなと漏らすのは、あくまでも使用する側の都合である。だから自分で止めない限り、まだまだやっちゃいましょうよと、陰湿なイジメのようにクリアファイルは膨れ上がっていく。しかし、悲鳴は上げない。淡々とこなすもんだからまだまだ入れ込む。実は、書類を支える下部はピリピリと緊張感が漂っている。
キャラクターものは論外、色つきもやや邪道である。クリアファイルは自己主張してはならない。無地に限る。控えめに「いや、そんな、僕のことなんてどうだっていいんです。とにかく少しでも中身が見えるように薄めに」、この謙虚さだ。クリアファイラーが恍惚する瞬間とは、パンパンに膨らんだクリアファイルを、その重圧から解放してやる時だ。生まれたてのあの頃あんなに薄かったのにこんなに太っちゃって。メタボ化したクリアファイルは悲しいことに、その形状を記憶してしまう。連戦の爪痕も残る。折れ曲がり、傷つき、角っこに消しゴムのカスを蓄えたクリアファイルに、もはや戦線復帰のチャンスは与えられない。乳母捨て山のように、見えない所へ葬られるのだ。
JCF(日本クリアファイル協会)としては、このメタボクリアファイルのケアを求めたいのである。熟達した存在を追いやって、若くてピチピチした存在に熱視線を浴びせてしまうのは、人間の悪いクセである。しかし、経験の差は歴然としている。原型を失ったクリアファイルにはとっておきの包容力がある。新米が動揺している間に、素知らぬ顔で仕事をこなす。男が背中で語るように、メタボクリアファイルは、その痛んだ体で全てを語る。まだまだ元気な老人を老人ホームに収容してしまうことで日本経済の活力が低減した。同じことだ。老体にムチ打とうとするクリアファイルを愛でてほしい、クリアファイラーからの切実なお願いである。
- フィードバック 0
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-