沖縄県北部、「山原(やんばる)」と言われる自然豊かな名護市に工房を構える『木漆工とけし』。窓からは太陽の光が降り、風が抜け、工房の中にいても、自然の流れ、自然の気配そのものを感じられるつくりになっている。この場所で、渡慶次(とけし)弘幸さん・愛さん夫婦は、沖縄の風土や気候、暮らしを大切にしながら、センダンやイタジイなどの沖縄の木を使って漆の器をつくっている。だからか、『木漆工とけし』の作品は、この島の日常にしっくりと溶け込んでいるものばかりだ。曲線の美しさ、力強さ、色濃い自然や光と影に馴染む艶感、肌触り……。それは、つくり手である2人が、この土地に根づき、繋がり、全身全霊で感じ取る「沖縄」が、ここに表現されているからに他ならない。 彼らのものづくりに宿る精神を、ここ沖縄で漆器をつくる意義に重ねた、その道のりを訊く。
※本記事は『HereNow』にて過去に掲載された記事です。
「手を使った仕事をしたい」という想い
―沖縄で、弘幸さんは木工を、愛さんは漆を沖縄の工芸指導所で学んだ後に、石川県の輪島に修行に出られていますが、もともと2人で漆器を作るという構想があったのですか?
弘幸:2人でという考えはまったくありませんでしたね。僕は江戸指物という江戸から脈々と続いている伝統工芸がやりたくて、最初、東京に行ったんですよ。
愛:私はもともと、人の手でつくられたもので長く使えるものに興味があって、食器なら毎日使えるものだと思って、そこから漆器に惹かれていったのです。だけど、学校を出たはいいけど、沖縄で漆を深く学べる場所がなかったので、輪島へ行くことにしました。まずはアルバイトしながら弟子入り先を探そうと思っていたら、運良くいい方に出会って漆の下地職人さんのところに弟子入りさせてもらうことができたんです。
―修行先の輪島での生活はどうでしたか?
愛:すごく楽しかったですよ。輪島は雪も降るし、沖縄とは環境も暮らしぶりもまったく違う。輪島は職人の町なんですよ。ひとつの漆器を作るのに、分業で、木地屋さんから塗師のところへいって、加飾屋さんにまわるというシステムがあって、町の中に漆器に関するたくさんの職人さんたちがいるんです。そういうものづくりの現場で7年間過ごせたのは刺激的でしたね。
―弘幸さんも輪島へ移り「木地師」としての修行をされていますね。
弘幸:もともと鉋(かんな)や鑿(のみ)などの道具をしっかり使って「手の仕事」をしたいという気持ちが強かったんです。それで東京で江戸指物を勉強したかったわけですが、弟子入りできなくてどうしようと思っていた時に、輪島で木工所を見学させてもらって。輪島の木地師たちって、仕上げる時にいろんな鉋を使って全部手で仕上げるんですよ。しかもそこには20代から70代まですべての世代がいて、70代の職人さんが研ぎ澄まされた仕事をしている。圧倒されましたね。それですぐに弟子入りをお願いしたんです。
―輪島にはお2人のように県外から修行に来る人が多いのですか?
弘幸:あまりいないんです。だから僕らは珍しがられたんですよね。
沖縄の木を使って器を作った時はじめて、自分たちがここにいて、ここで作品をつくる意味があると思った
―輪島での修行を経て、沖縄に帰って来た時、なぜ工房を沖縄県北部の名護市に構えたのでしょうか?
愛:環境ですね。木工所って機械の音が大きいですし、粉塵も出る。実家のある浦添市だと住宅が多いから、街中では厳しいなというのがありました。それとやっぱり、輪島で、自然に囲まれた場所に住んでいたので、そういう自然とともにある環境を目指して物件を探したんです。
―暮らす環境がつくるものに影響する、と。
愛:そうですね。輪島では技術的なことももちろん学ばせてもらいましたが、輪島の人たちの暮らしやしきたりにすごく影響を受けたんです。輪島では年間行事をとても大切にしていて、職人さんたちもこの日は魚をみんなで海に取りにいく日とか、山にキノコを取りにいく日だとか、仕事の中で自然とともにある暮らしを大切にしていました。そういう生活を体験していたので、まずは暮らす場所が大事だなというのは思っていたんです。
―特に伝統的なものを受け継いだ場所というのはその土地の風土や自然を大事にしていますよね。そういう中から「輪島の漆」も生まれてきているんですか?
愛:輪島塗は、下地に使われる地の粉が一番の特徴です。いわゆる「珪藻土」なのですが、「輪島塗りが堅牢で美しい」と言われるのは、輪島で採れる、その珪藻土があるからなんです。
弘幸:他の産地との違いはそこで、「その土地で採れるものでつくる」ということなんですよ。
―『木漆工とけし』の器も、沖縄の木を使っていますが、それも「その土地で採れるものを」という輪島で培った精神があってこそなのでしょうか?
弘幸:僕らが独立したてのときは、まだ「沖縄の木で」という考え方はなかったんです。輪島の木は扱い慣れているし、漆に向いているのはわかっているから、輪島で使っていた木を使っていて。
―それがいまのように「沖縄の木」を使うようになったのは、どういう転換があったのですか?
弘幸:もともと、知り合いから機械をゆずってもらった時に「木もあるから持っていけ」って沖縄の木をもらって。ただ、その時は沖縄の木を使う予定はなかったから、お椀の見本をつくるのに、沖縄の木でやってみたんです。
―では、「試し」で。
弘幸:完全に「試し」でしたね。それが結構軽い木でボッソボソで、まあ、その時の僕の技術が追いついていないところもあったのですが、へったくそなものができたんですよ。木の種類やモノにもよるんですが、沖縄の木はムラが多く、硬すぎたり軽すぎたりするものが多いんです。それと、輪島と沖縄の木の一番の違いは、沖縄は温暖で成長が早いから、年輪が飛んでいて木目が粗い。
―なるほど。
弘幸:その時つくったものも木目も粗かったんです。そこに漆を塗ってもらったんです。それも普段とは違う塗り方をしてもらった。そしたら木の器だけだと荒々しくて強すぎるけれど、それをいい具合に漆が押さえてくれて、なんかいい感じなんですよ。
愛:「あれ、いいんじゃない?」ってね。
―仕上がってみるとすごく面白いものになった、と。
弘幸:沖縄に帰ってくる前、僕らは沖縄の木に対して、「沖縄の木は良くない」と思っていたんですよ。まさにそれだって木材業界で言えば「よくない部分」なんですけど、それが逆に自分たちの特徴的なものになっていった。完全にマイナスだと思っていたのがプラスに変わった瞬間で、その時初めて、自分たちが沖縄にいて、沖縄で作品をつくる意味があると思いました。
沖縄の陽射し、沖縄の食材には、沖縄の木でつくった器が馴染む
―いろいろと転機があったんですね。
弘幸:今考えると、輪島から沖縄に帰ってきた時に、この景色でご飯を食べた時に、輪島でずっと使っていた漆のお椀がどうも馴染んでないような気がしていて。それで、実際普段の食事に輪島の漆器を使わなくなっていたんです。
愛:ところが沖縄の木を使ってつくった器を食卓に載せてみると、風景に馴染んでいる感じがしたんですよ。やっぱり、輪島と沖縄では、陽射しとか、食べる食材とか、全然違う。紅芋がのったり、島人参がのったりね。それが沖縄の木でつくった器だと合ったんです。
―それは、もともと愛さんが思っていた「普段に使うものをつくりたい」という想いに繋がりますね。
弘幸:そこからガラッと創作のスタンスが変わりましたね。その後、沖縄で個展をやってみないかと声かけてもらったんです。僕らは最初、沖縄では漆の器は受け入れらないのではないかと思っていたのですが、たくさんいろんな人が来てくれて、器も売れて。沖縄でも漆の器が受け入れられるんだって、自信をもらった個展でした。
―そもそも沖縄で漆器を使う習慣は普段からあるのですか?
愛:もちろん琉球漆器があるのはみなさん知っているけれど、普段に使う感じではないんです。ハレの時(祭礼や年中行事など非日常のとき)に使うものだから。でも、その沖縄の個展の時は若い人も多く来てくれて、「漆器」というよりも、「新しいもの」として私たちの器を見てくれたように思います。
―普段に使う器ということで言えば、沖縄の「やちむん」など他の器と混ざっていても違和感がなく使えますね。
弘幸:それは意識してつくっているんです。沖縄の食卓ではやちむんは結構使われますから、そういう器と合うようなものがいいなって思っていて。
愛:あまり完璧に綺麗に仕上げてしまうと、その器だけ浮いてしまうので、他の器にも馴染むように意識して。そもそも漆って、木の器をより強くより使いやすくするために塗られるもの。普段の中で使うことでその良さは伝わると思います。
今、沖縄にいる自分たちに何ができるのか?
―沖縄にある素材を使って、沖縄の暮らしに寄り添ったものをつくる。ものづくりを通してお2人は沖縄を感じ取り、表現しているのだと思います。
弘幸:僕らができることって、それしかないと思っているんですよね。ここに来てここの場所にピタッとはまった気がしているし、集落の人にも良くしてもらっているし、素材として沖縄の木を見られるようになったというのもそうだし。本当にこの土地があってこそだと思っていて。
愛:沖縄には風習や行事がたくさんあるんですよ。たとえば、浜下り(旧暦3月3日に御馳走を持って海浜へ行き、潮に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願して楽しく遊ぶ沖縄の行事)や、シーミー(旧暦3月の清明の節に行われる行事)やお盆などは親戚一同が集まるので、そこに合わせた作品をつくったり。そんなふうに、この土地と繋がることがしたいと思っているんです。
弘幸:この土地と繋がること、徹底的に沖縄でできることをしようという気持ちも大きくなってきていますね。
―「沖縄でできることをやる」という意志は、2016年末に行われた『D&DEPARTMENT OKINAWA by OKINAWA STANDARD』での展示にも現れていましたね。
弘幸:沖縄には琉球の時代に生まれた琉球漆器という素晴らしいものがあるので、琉球漆器の古い図案から型を起こした器をつくって、そこに張り子作家の豊永盛人さんに絵付けしてもらって。自分たちは木を使いますが、木の皮は使わないので、木の皮で染料になるもので草木染め作家のkittaさんに布を染めてもらって、僕らがつくる重箱を包むものをつくってもらったり。
―新しい挑戦だったと。
弘幸:それもすべて「沖縄でできる循環」を考えて徹底的に見せていきたいという想いからでした。沖縄の中で沖縄にいる人に、沖縄にはこんな歴史があったんだよということを伝えながら、それらを、いまの暮らしの中で使う意味も感じてもらえるような働きかけができたらと思ったんです。
愛:一緒に展示をやらせていただいた『角萬漆器』さんは、古くからの琉球漆器の伝統を受け継いでずっと沖縄の中でやってきた方です。だけど自分たちには歴史も何もないので、そういう私たちが沖縄の素材と繋がって、物をつくってきて何ができるのか、ということをすごく考えたんです。琉球漆器に関しては、これまで興味はありましたが、特別なものなので、私たちがつくっている普段の器とは違うものだと思っていたところがあったんですよ。でも、「ハレ」があるから普段が生きる。だからこそ、その「ハレ」の部分を、自分たちなりにつくってみたいという気持ちになれたんですね。
―この土地の過去といまを繋げ、この土地の自然から受け取るもので繋がっていくわけですね。
弘幸:この展示を通して、自分たち自身、沖縄の中で沖縄の文化を学んでいきたいし、それをまた面白いものに変えていったり、成熟させていきたいという気持ちが強いんだなということがよくわかりました。
愛:はじめは自分たちだけの世界でつくっていたものが、いまはいろんな人たちと繋がって、広がりが生まれているのを感じているんです。周りと繋がり、つくっていく、そういう面白さがありますね。
弘幸:いま、沖縄にいる自分たちに何ができるのか。それがこれからの自分たちがつくるものにまた現れていくと思いますね。
- 木漆工とけしの主な取り扱い店
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D&DEPARTMENT OKINAWA by OKINAWA STANDERD
住所:沖縄県宜野湾市新城2-39-8 2F
電話番号:098-894-2112
URL:http://www.d-department.com/jp/shop/okinawa
- プロフィール
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- 渡慶次弘幸
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1980年沖縄県生まれ。2001年沖縄県工芸指導所木工課卒業後、2003年石川県輪島市の桐本木工所に弟子入り。2007年年季明け、2010年まで桐本木工所に勤め、2010年沖縄にて「木漆工とけし」として独立。
- 渡慶次愛
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1979年沖縄県生まれ。2002年沖縄県工芸指導所漆課卒業後、2003年石川県輪島市の福田敏雄氏に師事。2007年年季明け、福田敏雄氏、赤木明登氏の両工房に勤める。2010年沖縄にて「木漆工とけし」として独立。
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