8月10日からスタートする『あいちトリエンナーレ2013』は、「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」をテーマに掲げ、東日本大震災以降の日本や都市のあり方を示そうとしている。それゆえ、ここに登場するのはいわゆる現代美術のアーティストに限らない。都市設計やインフラを考えるうえで重要な役割を果たす建築家、そしてその反映を身体によって表現する演劇やダンスなどのパフォーミングアーティストたちが数多く名を連ねている。
トリエンナーレ開催直前に行われた今回の取材では、思想家・東浩紀が提唱する「福島第一原発観光地化計画」にも参加し注目を集める建築家・藤村龍至と、今まさに愛知で作品制作中の劇団「ままごと」主宰・演出家の柴幸男をSkypeでつなぎ、対談を行なった。モニター越しの初対面となる二人の対話からは、建築家と劇作家の意外な共通点、そして震災以降の状況に真摯に向かい合おうとする二人の営為が見えてくる。濃厚で貴重な対談に、じっくりと向き合って読んでいただければと思う。
『日本の大人』を大人が見れば子ども時代を回想するかもしれないし、子どもが見れば20年後の物語を未来として見るかもしれない。その両方の視線が生まれるような作品にしたいと思っています。(柴)
―まもなく『あいちトリエンナーレ2013』がスタートしますが、規模が本当に大きく、個々のプロジェクトやパフォーマンスがどのようなものになるのか、というのは詳しく紹介されていません。そこで最初に、お二方が今回どんな作品を発表なさるのか、というところからお話を伺っていきたいと思います。
藤村:私はですね、中央広小路ビルという栄エリアのオフィスビルの一角に場所を設けて、そこを中心にした『あいちプロジェクト』を実施します。すごく簡単に言うと、オフィスビルの一室を設計事務所のような、投票所のような場所にして、「愛知県と名古屋市が解体され、東海州と中京都に再構成された」という架空の想定で、東海州と中京都、それぞれの庁舎の模型をひたすら作り続けるんです。
―ワークインプログレス型(進行型)のプロジェクトですね。
藤村:ええ。公募で集まったメンバーで設計チームを2チーム作って、毎日案を更新し続けるんですけれども、来場者に気に入った案へ投票してもらって、その結果を随時反映させながらプロジェクトをディベロップしていくというものです。さらに2週間ごとに設計チームを入れ替えていって、その最終案を10月上旬の2週間で発表・展示します。
―異なるチームで、1つのプロジェクトを成長させていく。
藤村:これは何をやっているかというと、アートの枠組みを借りて、将来の公共建築の設計者の決め方を実験しているんです。公共建築って、昔は県知事による特命だったんです。民主主義によって選ばれたトップの見識によって、建築家、例えば黒川紀章さんや安藤忠雄さんを直接指名していた。でも、現在はより公平な手続きを取らなければいけないということになって、公開コンペ形式で行われるようになっている。でも審査は公開だけれども、最後は密室で決めてしまう例が多いんです。そのなかで、より住民や県民が直接的に議論に加わることのできる「集合知的な建築設計」のあり方はないだろうか。私はそういう実験をいろんな所でやってきたのですが、その集大成として「あいち」バージョンを今回はやってみよう、と思っています。
―では、次は柴さんに。今回の作品『日本の大人』は世界初演になるわけですが、どんな内容に?
柴:僕は「ままごと」という、演劇作品を作るカンパニーを主宰しています。今回は、『あいちトリエンナーレ』さんから「子どもと大人が一緒に鑑賞できるような作品を」という依頼をいただいたのですが、僕らは今まで、子ども向け、大人向けというようなフレームで作品を作ったことがなかったので、これは面白い挑戦になるかもしれないと思いました。愛知県芸術劇場小ホールというオーソドックスな劇場のなかで行われる、古典的な演劇の鑑賞形態になりますが、「ままごと」初の、小学校高学年と大人が一緒に鑑賞できる60分ほどの演劇作品になります。
―新作を楽しみにしているファンも多いと思うので、ネタバレにならない程度に内容を教えていただいてもいいですか?
柴:あらすじは、すごくバカバカしくって単純なんです。ある小学校に32歳の「小学26年生」のおじさんが転校してくる、というところから物語は始まります。同時に、主人公が成長して20年が経ち、つまり32歳の大人に成長した小学生たちが同窓会をやろうとする。そこで20年前に小学26年生だったおじさんを現代で探そうとするんです。20年前と20年後という2つの時間が同時に描かれて並走するような物語になります。
―「ままごと」らしい、かわいらしくって構造的に面白いストーリーですね。
柴:演劇作品というのは、時間の彫刻というか、時間をブロックのように並べ替え、積み重ねていく作業がすごく大事だと思っています。『日本の大人』を大人が見たのであれば自分の子ども時代を回想するように見るかもしれないし、子どもから見れば20年後の物語を未来として見るかもしれない。その両方の視線が生まれるような作品にしたいと思っています。
「過去は歴史家が作り、未来は政治家が作る」その中間に建築家がいるのかもしれない。ひょっとすると劇作家も同様のポジションにいらっしゃるのかな、と思ったんです。(藤村)
藤村:柴さんの『日本の大人』で、20年後と20年前という2つの時間が並走するという話が興味深かったんですが、じつはつい3日くらい前にそれに似た議論をしたんですよ。
柴:建築についての議論ですか?
藤村:埼玉県鶴ヶ島の郊外住宅地で『鶴ヶ島プロジェクト』というのを行っていて、これも『あいちプロジェクト』と同じように、市民の人たちに投票などをしてもらいながら建築案をどんどん決めていくというものなんです。その一環で、最終回に鶴ヶ島市長の藤縄善朗さん、建築家の塚本由晴さん、難波和彦さん、工藤和美さんとシンポジウムを行ったのですが、市長さんの掲げる「未来との対話」というコンセプトが議論の対象になりました。どういう意味かというと、今日本のあちこちで公共施設の老朽化が問題になっていて、1970年代に建てた建物が建て替えの時期を迎えている。でも行政は、建て直すための費用を捻出できないので、例えば小学校の校舎であれば、統廃合を進めて数を減らしていかなければいけない。そこで、数十年後の将来像を考えて、必要なものを見極めていく議論をしていかなきゃいけないんです。ワークショップを何度も重ねることで、だんだんと意見がまとまっていくんですが、そのセッションの過程が「未来との対話」であると。
―未来に向けての対話、ということですね。
藤村:市長さんの考え方に私は共感するんですが、それに対して塚本由晴さんは反対意見で、「その対話は、政治的判断に寄りすぎるんじゃないか」と指摘するんですね。どの小学校を残すか、どの場所に機能を移転するかっていうのは、利害も発生するので政治的判断にならざるを得ない。では、政治的判断の代わりに何が必要かというと、歴史的判断が必要だと塚本さんは主張されていました。過去と対話するべきだと。例えば、人口が増えたり減ったりというのはきわめて短いタイムスパンの出来事であって、街そのものはずっと長く残る。その意味で、一時の政治的判断だけで、特定の建築を作ってしまうのは良くないと、そういう考え方です。
柴:未来との対話と、歴史との対話の2つがあるんですね。
藤村:そこが対立点なんです。古くからある漁村や山村には、どんなに人口が少なくても必ず固有性や歴史とか場所というものがあるので、歴史と対話することができる。でも新興の郊外住宅地やニュータウンには、そもそも長い歴史がないので、過去と対話することが原理的に不可能かもしれない。そういう場所では、「未来と対話する」というアクロバティックな方法を採って初めて歴史的判断が積み上げられるのではないかと市長や私は考えた。そういった議論をシンポジウムで交わしたばかりだったので、『日本の大人』の、小学校に32歳のおじさんが転校してくることによって未来と過去が並走するというコンセプトにピンと来たというか。
柴:なるほどー。
藤村:つまり建築って、歴史的判断と政治的判断のハイブリッドのような性質があるんです。難波和彦さんも思想家のハンナ・アーレントの言葉を引用して、「過去は歴史家が作り、未来は政治家が作る」、その中間に建築家がいるのかもしれない、と指摘されていました。でも柴さんのお話を伺うと、ひょっとすると演劇を作る劇作家も同様のポジションにいらっしゃるのかな、と思ったんです。
未来に対して目線をどれだけ遠くまで届けられるか、その射程の長さが、「大人って何だろう?」という疑問に対する答えの1つなんじゃないかと思うんです。(柴)
柴:演劇には、劇作と演出という2つの仕事があるのですが、その2つは役割というか、思考のタイムスパンがまったく違うものです。演出は新しさや同時代性がすごく大事で、上演時のお客さんに対する効果を大切にするべきだと考えていますが、一方で劇作というのは、作品の耐用年数をもっと長いスパンで考えなければいけない。それは歴史と対話するということとイコールで、過去の戯曲と対話しながら作っていかなきゃいけないと思うんです。
藤村:なるほど。
柴:本来は矛盾するような仕事だと思うんです。でも日本では1人が劇作と演出を兼ねるという、ポジショニングがメジャーになっています。ちょっと話がずれちゃいましたね(笑)。
―本来、劇作と演出はそれぞれ過去と未来を見ている、ということですね。
柴:そうですね。今回の作品で言えば、今現在の日本を反射させるものを作りたいとは思うんですけれども、子どもが大人になること、または大人が子どもにはもう戻れないっていう主題は、「大人 / 子どもとは何か?」っていう普遍的な問題も含んでいる。それをちゃんと描くことができれば、この作品自体が、例えば今回観劇した小学生が成長して、20年後に自分の子どもと改めて見ることができるような構造になるんじゃないだろうかって考えています。さっきの建築の話で、「あっ」と思ったのですが、未来に対して目線をどれだけ遠くまで届けられるか、その射程の長さが、「大人って何だろう?」という疑問に対する答えの1つなんじゃないかと思うんです。目先のことや数年間のことだけに対応したり判断したりするのって、すごく子ども的というか。
藤村:ちなみに「20年」という設定は、どういう理由で決めたんですか?
柴:すごく個人的な理由です(笑)。僕自身が今年31歳なので、20年さかのぼれば小学生になるわけで。「大人になるか、ならざるか」っていうのは、僕自体の葛藤でもあるんです。
今ある建築や道路の全部は建て替えることはできない。みんなが少しずつ我慢しなきゃいけない。つまり、日本の社会は大人にならなきゃいけないんですね。(藤村)
藤村:たまたまかもしれませんけど、建築で20年っていうと伊勢神宮の式年遷宮というのがありますね。20年に1度、すべての社殿を建て替えて神座を新しい社殿に移すんです。20年に1回だと、職人が生涯のうちに2〜3回くらい建て替えに関わることができるので、宮大工の色々な技術が伝承されていくという、独特の儀式です。そういう意味で20年というのは、1つの技術とか思想を世代交代させるスパンとして形式化されていた年数でもあるので、なるほどと思って聞いていたんですけれども。
柴:へえ。
藤村:それを建築概念としてピックアップしたのが、それこそ愛知出身の建築家である黒川紀章さんらが中心になって、建築を「新陳代謝させる」というコンセプトで集まっていたメタボリストグループです。彼らは、新陳代謝と成長を同時に可能にするというコンセプトを掲げて、建築も秩序を持って拡大できるように作っていくべきだという運動を1960年代に起こしました。ただ、その思想を完全に具現化するのは難しかった。黒川さんの代表作の1つが銀座にあるんですが、もうボロボロになって建て替えの危機に瀕している。だから「メタボリズム」という思想には限界があったんじゃないかという話もあるんですが。
―建築同様に、社会全体がある種の限界を迎えつつある、というのが藤村さんの現在の認識なのでしょうか?
藤村:民主党が2009年に「コンクリートから人へ」をテーマに掲げて政権を獲得したわけですが、実際には社会はたくさん建物を建て替えなきゃいけない時代になっていたんですよ。法定耐用年数というのがあって、コンクリートで60年、鉄骨木造で45年。かたちあるものというのはいつか壊れるので。じつは東海道新幹線も建設から50年が過ぎていて、問題になっているんです。
柴:へえ!
藤村:「コンクリートから人へ」なんて言っていたら、社会全体が耐用年数のことをすっかり忘れていたんです。自治体もお金を用意してなかったし、人も用意してなかった。そうしたら、高速道路の天井が落ちるみたいな事故が起こってしまって、大急ぎで公共工事に投資しなくては、と焦っているっていうのが現在なんです。
―なるほど。
藤村:そういう意味では、日本の社会はこれまで「子ども」だったとも言える。市民は政治家に望めばすべてが与えられると思っていた。けれども、建築も道路も、全部は建て替えることはできない。みんなが我慢しなきゃならない。つまり、さっき柴さんがおっしゃったように日本社会は「大人」にならなきゃいけないんですね。だから僕が今回の『あいちプロジェクト』でやりたいのは、建築という手法を使って日本社会が大人になる方法、つまり政治的な判断の積み上げ方を美術という枠組みで示すということなんです。ところで柴さんは大人と子どもというテーマに加えて、愛知っていうものに対する何らかのアプローチを考えていますか?
柴:そこを上手く答えられたら良かったんですけれど、全然ないですね。愛知っていうのは本当にただ僕の実家でしかないっていう(笑)。ただ、演劇の興行っていうのは、長くても数か月くらいのスパンで行われるのですが、活動の拠点になるような固定の劇場があれば、何年も先の全体のビジョンを視野に入れた目標ができる。他の多くのカンパニーがそうであるように、「ままごと」も専用の劇場を持っていなくて、最近は色々な公共劇場から依頼を受けて作品を作ることが多いのですが、街を移動しながら公演をまわしていくことって、演劇をやっている者として果たして大人な対応なのかどうか。1つの理想を言えば、例えば特定の劇場とパートナーシップを組んで、10年単位で計画して、公演だけじゃなくワークショップもするとか。実際、『あいちトリエンナーレ』では、地元の小学校でワークショップを行いました。そういう風に1つの街と関係を持っていく、もうちょっと広く長いスパンでお客さんと関係を持っていくということを、考えなきゃいけないんじゃないかなと思っています。
藤村:興行と劇場の関係、面白いと思います。私は埼玉の出身なんですが、東京の郊外って、それこそ社会学者の宮台真司さんが言ってたように、本当に「終わりなき日常」みたいな街なんですよ。そういう場所からスタートして、「埼玉には2度と戻るまい」と思いながら建築をやってきたわけです。ところが、たまたま3年前に東洋大学に着任して、週の半分以上を埼玉県で過ごすことになった。当初はなんの因果かと思ったんですけど(笑)。気がついたら、自分の故郷では高齢化とか建物の老朽化が起こっていて、さまざまな問題を抱えているのが分かった。それで腰をすえて活動を始めたんです。それが、32、3歳のときだったので、ちょうど柴さんの言う「大人になるか、ならざるか」問題に突き当たった時期だったのかもしれませんね。
柴:なるほど。
藤村:今埼玉で取り組んでいるのは、1つがさきほど話した『鶴ヶ島プロジェクト』。そしてもう1つ、それよりも大きなさいたま市という政令指定都市のなかで建築の可能性を動かしていく『大宮東口プロジェクト』を今年から始めました。そこには、郊外という空間における必然性と同時に、現代という時間における必然性もあると思います。1970年代までであれば、建築家にとっての最大のクライアントは官僚組織でした。1970年からバブル崩壊、リーマンショックくらいまでは民間企業がそれに替わっていた。でも、今社会を動かしているのはどちらでもなくて、民間と公共を混ぜたかたちでの発注形式なんです。民間のお金で公共の施設を改修したり、あるいは民間の土地に公共が補助金を出したり税制上の優遇措置をとって共同で建物を作ったりということが起こり始めている。そういう新しい形式が生まれると、今までのように誰がどのように契約してお金を払うかということが定かではなく、いろんな新しい試みが必要となってきます。そこで、私がやっているような住民投票の仕組みやワークショップを組み合わせたような、さまざまな実験をする必要が出てきているんです。
柴:演劇界でも色々な議論があるんですが、1つに「演劇は公共なのか民間なのか」というのがあります。もちろん芸術としての演劇は、個人的な活動でもあるのですが、劇場は公共的な場所だと僕は思うんです。それでなくても今回は、愛知県から予算をもらって、つまり税金をもらって作っているわけで、『日本の大人』は、公共物でもあると思っているんです。藤村さんは「公共建築の見直し」とおっしゃっていましたが、公共劇場が日本全国にたくさんあるにもかかわらず、実際に「劇場」として稼働しているものは少ない、という演劇の状況にもつながると思います。
―演劇も建築的な問題からは無縁ではないんですね。
今は、未来があるんだってことを物語のなかで体感したい。すごくシンプルで古くさいのかもしれないけれども、前進していく物語を見せたいんです。(柴)
柴:ちょっとお伺いしたいのですが、例えば今回の『あいちトリエンナーレ』で藤村さんが行われるプロジェクトというのは、作品なんでしょうか? 実験でしょうか? それとも活動なんでしょうか? ひょっとすると、建物の設計を超えて社会設計自体までも問い直そうとしているように感じたのですが。
藤村:社会全体のあり方を問い直しているので、建築作品とは呼べないかも知れません。他方でこれは実験と言えば実験なんですけれども、作品のようにプレゼンテーションすることがけっこう大事なんです。例えば、建築の分野でもワークショップってたくさんあるんですよ。でも、多くの場合、人が模造紙のまわりにたくさん集まっているだけのようなプレゼンテーションでしかなくって、結局よくわからなくなってしまう。だから私の場合は、ワークショップの会場構成とか、みんなで集合写真を撮るとか、そういう一種のパフォーマンスにものすごく凝るんです。今回の『あいちトリエンナーレ』でも、部屋の設計や、そのなかで働く人の設計、プレゼンテーションの設計とか、そういう要素の並列や関係性によって全体が決まっていくという意識を持っています。そのプロセスがスムーズに行けば、あとは自動的に何かが生成されていくだろうと。
柴:藤村さんがおっしゃった「設計」という言葉が、僕にとっての「演出」という言葉にそのまま置き換えられる気がします。僕らにとっては舞台上の空間ですが、例えば椅子の並べ方によってもお客さんの反応は変わる。それもまた演出なんですね。僕は平田オリザが主宰する「青年団」に在籍しているんですが、オリザさんは診察室の空間や動線を考えることで、診察自体も変化するということを言っています。患者さんがお医者さんに自然と相談しやすくなるような空間を設計 / 演出することができる、と。僕もそう思います。そういう意味でも、建築の「設計」という言葉は、僕にとっても身近なものに感じます。
藤村:私は素人なので、演劇というのはてっきりコンテンツの問題だと思っていたんですが、アーキテクチャの問題でもあるんですね。
―最後にお伺いしたいのですが、今回の『あいちトリエンナーレ2013』のテーマは「揺れる大地」です。このテーマは、東日本大震災や、藤村さんが指摘した耐用年数の話や社会設計の揺らぎなど、さまざまなことを想起させられます。このテーマを聞いたときに、柴さんと藤村さんはどのように感じ、また作品に反映させようと考えましたか?
柴:これは僕個人の予感なのですが、人は今一度「物語」を必要としていると感じます。震災以前は、自分も含めて構造をわざと分解したような演劇作品が多くありましたが、震災以降、直線的に時間が進む「横続き」の物語が増えたような、求められているような、僕自身が求めているような気がします。震災前の作品っていうのは、問題〜葛藤〜解決という古典的な流れに対して「嘘くさい」というムードを感じていました。でも今、もう一度その強さを信じたくなった。一つひとつ、問題の先に未来がやって来る、と僕自身も思っているんです。『日本の大人』では、20年前と20年後の2つの時間の並走ってことはもちろんあるんですけども、僕のなかでは非常にシンプルな構造で。『わが星』では、地球が生まれてから滅亡するまでの100億年と、人間が生まれて死ぬまでの一生の時間をコラージュして、もう既に終わった物語を語ろうとしていた。でも、今はそうではなくて、未来があるんだってことを物語のなかで体感したい。すごくシンプルで古くさいのかもしれないけれども、前に進んでいく物語を見せたいんです。
藤村:柴さんが言う、「横続き」が今必要とされているっていうのは、非常によくわかる話です。今社会にとって必要なのは、バラバラなんだけどこういう風にまとまる、という方法論を明確に示すことなのかなと思っています。建築に限らずだと思うのですが、いろんな意見を聞きすぎると作品の純度が下がるって言う意見ってありますよね。でもそれはとても脆い考えで、いろんな入力があった方がより面白いものができると言い切らないと、私たちの民主主義社会のあり方としてはアウトだろうと思っているんです。
―なるほど。
藤村:これは余談ですが、福島第一原発から鬼門と裏鬼門の方角を辿っていくと、福島から浜松を通り、沖縄を通っていくという直線が見えてくるんです。ちょうど45度の直線が福島―埼玉―浜松―沖縄を通るんですが、ここに「原発」「郊外化」「移民」「基地」といった日本の諸問題が現れているように感じます。その直線をさらに伸ばしていくと、台湾とベトナムのあいだを通ってマレーシアとシンガポールまで届く。現在、それらの場所に新幹線を輸出するとかインフラを輸出するとか、日本の製造業や建設業の生命線がある、と言われています。
―そうですね。
藤村:でも、この構造っていうのは、1923年に関東大震災が起こり、その6年後に世界恐慌が起きて大不況に陥った日本の状況に似ているとも思うんです。後に外務大臣になった松岡洋右が「帝国の生命線は満蒙にあり」と言っていますが、その頃の日本政府が考えていたのは、南満州鉄道のインフラを中心とした都市開発でした。もちろん、そこで作られたインフラは、その後の侵略戦争に使われていったわけで肯定できるものではない。ただ、そういった歴史を無批判に反復するのではなく、過去を学ぶことで未来も見えてくると思います。そこには、過去と未来のハイブリッドという最初に指摘した問題が見えてくる。今回の『あいちトリエンナーレ』の「揺れる大地」というテーマが示すものは、成熟社会から縮小社会への転換でもあり、近代化の終わりでもある現代に揺さぶりをかける、非常に示唆的なテーマだと思いますね。
- イベント情報
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- 『あいちトリエンナーレ2013』
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2013年8月10日(土)〜10月27日(日)
会場:
愛知県 名古屋 愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場、中央広小路ビル
愛知県 岡崎 東岡崎駅会場、康生会場、松本町会場出展作家(アルファベット順):
青木淳
青木野枝
青野文昭
荒井理行
ブラスト・セオリー
ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー
ステファン・クチュリエ
ミッチ・エプスタイン
ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・サニ
藤森照信
藤村龍至
マーロン・グリフィス
ゲッラ・デ・ラ・パス
ハン・フェン
彦坂尚嘉
平川祐樹
平田五郎
トーマス・ヒルシュホルン
池田剛介
インヴィジブル・プレイグラウンド
伊坂義夫、大坪美穂、岡本信治郎、小堀令子、清水洋子、白井美穂、松本旻、山口啓介、王舒野、PYTHAGORAS³(覆面作家)
石上純也
アルフレッド・ジャー
ミハイル・カリキス&ウリエル・オルロー
片山真理
國府理
レッド・ペンシル・スタジオ
イ・ブル
ニッキ・ルナ
バシーア・マクール
アンジェリカ・メシティ
アーノウト・ミック
宮本佳明
Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)
名和晃平
新美泰史
西岳拡貴
丹羽良徳
クリスティナ・ノルマン
岡本信治郎
オノ・ヨーコ
打開連合設計事務所
コーネリア・パーカー
ニラ・ペレグ
ダン・ペルジョヴスキ
ウィット・ピムカンチャナポン
ニコラス・プロヴォスト
ワリッド・ラード
フィリップ・ラメット
リアス・アーク美術館
アリエル・シュレジンガー
リゴ23
キャスパー・アストラップ・シュレーダー+BIG
ソ・ミンジョン
志賀理江子
下道基行
シュカルト
フロリアン・スロタワ
ソン・ドン
studio velocity/栗原健太郎+岩月美穂
菅沼朋香
杉戸洋
ミカ・ターニラ
高橋匡太
竹田尚史
ブーンスィ・タントロンシン
THE WE-LOWS/ザ・ウィロウズ(奈良美智+森北伸+青木一将+小柴一浩+藤田庸子+石田詩織+酒井由芽子)
渡辺豪
和田礼治郎
リチャード・ウィルソン
ケーシー・ウォン
山下拓也
やなぎみわ
ヤノベケンジ
横山裕一
米田知子パフォーミングアーツ:
ARICA+金氏徹平
サミュエル・ベケット
藤本隆行+白井剛
ほうほう堂
イリ・キリアン
ままごと
マチルド・モニエ
向井山朋子+ジャン・カルマン
アルチュール・ノジシエル
プロジェクトFUKUSHIMA!(総合ディレクション:大友良英)
清水靖晃+カール・ストーン
ジェコ・シオンポ
梅田宏明
ペーター・ヴェルツ+ウィリアム・フォーサイス
やなぎみわプロデュース・オペラ:
カルロ・モンタナーロ
田尾下哲
安藤赴美子
カルロ・バッリチェッリ
ガブリエーレ・ヴィヴィアーニ
田村由貴絵
晴雅彦
豊島雄一
清水良一
塩入功司
大須賀園枝映像プログラム:
ポール・コス
ミケランジェロ・フランマルティーノ
福井琢也
濱口竜介+酒井耕
姫田真武
ひらのりょう
細江英公
加藤秀則
川口恵里
久保田成子
三宅唱
ビル・モリソン
室谷心太郎
ぬQ
パールフィ・ジョルジ
アリソン・シュルニック
SjQ++
エマ・ドゥ・スワーフ+マーク・ジェイムス・ロエルズ
土本典昭
チャオ・イエ
※チケットの詳細はオフィシャルサイト参照
- プロフィール
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- 藤村龍至(ふじむら りゅうじ)
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1976年東京生まれ。2008年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。2005年より藤村龍至建築設計事務所を主宰。2010年より東洋大学理工学部建築学科専任講師。独自のデザイン手法である超線形設計プロセス論を用いた作品、『BUILDING K』(2008)で注目を集める一方で、青森県立美術館『超群島 -ライト・オブ・サイレンス』展(2012年)などのキュレーションも行う。東日本大震災後は『思想地図β』において、福島県双葉町の住民の集団移転を想定したリトルフクシマの都市計画のほか、国土インフラの脆弱性を改善すべくリスクヘッジを考慮した第2の国土軸、また、ステーションシティを核とした都市の再編成を行う『列島改造論2.0』を発表。思想家・東浩紀が提唱する『福島第一原発観光地化計画』にも関わり、国土スケールから新しい日本の姿をデザインしようとする建築家である。
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- 柴幸男(しば ゆきお)
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1982年生まれ愛知県出身。「青年団」演出部所属。「急な坂スタジオ」レジデント・アーティスト。日本大学芸術学部在学中に『ドドミノ』で第2回仙台劇のまち戯曲賞を受賞。2010年『わが星』にて第54回岸田國士戯曲賞を受賞。何気ない日常の機微を丁寧にすくいとる戯曲と、ループやサンプリングなど演劇外の発想を持ち込んだ演出が特徴。全編歩き続ける芝居『あゆみ』、ラップによるミュージカル『わが星』、一人芝居をループさせて大家族を演じる『反復かつ連続』など、新たな視点から普遍的な世界を描く。『あいちトリエンナーレ』や『瀬戸内国際芸術祭』への参加、岐阜県可児市での市民劇の演出、福島県いわき総合高校での演出など、全国各地にて精力的に活動している。
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