「能・狂言」の世界は高尚でハードルが高い、「人間国宝」なんていったら、自分とは違う世界の話だと感じる人も多いと思う。が、テレビドラマや現代劇に出演したり、全国の小・中学校に「出張公演」している人間国宝の方もいると知ったら、少しは印象が変わるのではないだろうか。
能楽・和泉流狂言師で人間国宝の野村萬、御年84歳。代々続く野村万蔵家の長男に生まれ、幼少の頃から「家を継ぐ」ことに特別疑問を持つこともなく健やかに成長したと思いきや、大学進学の後は現代劇やテレビドラマなどにも出演。俳優という立場からも、表現における古典と現代の橋渡し役を行った一人。現在も子どもたち向けの公演を始め、古典芸能を初めて体験する人たちに門戸を開く活動を幅広く行っている。
この秋『東京発・伝統WA感動』のプログラムとして上演される、三番の名作狂言を集めた舞台『至高の芸、そして継承者~狂言』では、『舟渡聟(ふなわたしむこ)』で、息子(九世野村万蔵)、甥(野村万禄)とともに演じる野村萬。伝統の継承者として父から受け継いだことを、息子・甥へと継承していく中で、自らの生い立ちと、狂言をどのように捉えているのかを垣間見ることができた貴重なインタビューとなった。
「学ぶ」は「まねぶ」、つまり「真似る」こと。「芸」は身体で得たものが創造性の源になる。まさに「体得」という世界です。
―日本には様々な伝統芸能がありますが、そうした家に生まれると、その家を継ぐのが当たり前ということになると思います。(野村)萬さんもやはり子どもの頃からこの道を意識して生きてこられたのでしょうか。また、そういう家に生まれたことをどのように理解してこられたのでしょうか。
野村:うーん、思い返してみれば「家業を継ぐものと思わされてきた」と言うのが的確かもしれません。家では父と祖父が稽古をしていたり、お弟子さんが出入りしていたり、そういった環境の中で気がついたら私も稽古を始めていて。父からの指導はたいそう厳しいものでしたが……ひとたび舞台に出て拍手をいただくと、それはそれは晴れがましい気分になるんですよ(笑)。その快感を覚えています。
―「飴」と「鞭」ということですね(笑)。
野村:まさにそうです。そうこうしているうちに、狂言には「太郎冠者(たろうかじゃ)」という重要なキャラクターがあるということを知った。私の本名は「太良(たろう)」というのですが、物心ついた頃は「なんと平凡な名前をつけられたことか」なんて思っていましたよ。だって学校の教科書では、太郎さん、花子さんが代名詞として盛んに使われている。しかし、太郎冠者の存在を知ってからは本名と重ね合わせて、ああ自分はそういう定めの下に生まれてきたんだなと、思うようになりました。
―お父様(六世野村万蔵)の指導は相当厳しかったのですか?
野村:たとえるならば、檻に入れられているのと同じですね。子どもというのは自分の内側で何かを作りだし、自主的に考えて動くものではない。外からの刺激なり何なりを与えられることで動くわけです。「学ぶ」は「まねぶ」、つまり「真似る」こと。父は声と身体を使って、ひたすら私に真似をさせました。「芸」は頭や言葉で理解できるものじゃないんです。身体で得たものが創造性の源になる。まさに「体得」という世界です。
―日常生活なども厳しく指導されたのですか? たとえば姿勢を正しくしなさい、とか。
野村:「技術と人間性が合わさって芸になる」、これが父の口癖でした。舞台に立つ者は、どんな物語、どんな役柄を演じるのであってもそこに「美」を感じさせなくてはいけない。ですから日常の動作の中にこそ、動きの技術の基本がある、ということです。舞台用に応急処置でやってみせているような所作(身体の動き)では人を感動させることはできないのです。ですから、日常の動作をいかに無駄なく美しくするか、ということに常に気を配るようになりましたね。
青春時代が戦争の真っ只中で、反抗心も起ころうはずがなかった。ただ、カッコいいと思われたいとか、女の子にモテたいなんてことは当たり前にありましたけど(笑)。
―家督を継ぐということに対して、若い頃特有の反抗心が頭をもたげたりすることはなかったのでしょうか。
野村:中学校から高校時代にかけて、いわば青春時代が戦争の真っ只中で、勤労動員として工場や農耕地などいろんなところで働きました。世の中全体が飢えていた、そうした時代では反抗心も起ころうはずがなかったのかも知れません。ただ、カッコいいと思われたいとか、女の子にモテたいなんてことは当たり前にありましたけど(笑)。「総領の甚六」と言われる通りで(長男は大切に育てられるため、おっとりした子が多いという意)、私はのんびりしていてあまり欲がなかったのかも知れません。
―長男として「家」を継ぐ立場にある身として、1つ年下の弟・(野村)万作さんのことはどのように見て、感じてこられましたか。
野村:私は父に、弟は祖父に、狂言を教わりました。父と祖父の違い、つまり家督を継いだ者とすでに家督を渡した者との違いは大きいわけです。私は家督を継ぐ者として厳しく教育されました。それこそひっぱたかれることもしょっちゅう。祖父は弟に対してそこまではしませんでした。ですから弟は、ずいぶん大きくなるまで狂言の世界に入ろうとは思っていなかったようです。しかし、狂言の道を進むと決めてからは、私に早く追いつこうと人一倍頑張り、より自由な道を模索していました。
―自由な弟の姿をうらやましく思うことはなかったのでしょうか。
野村:自分と弟を比べることは無かったですね。私は父が作った道をひたすらに進むしかない。それが自分にとって自然なことだったんです。
伝統芸能を守る立場として、テクノロジーを否定する気持ちはありません。けれども舞台には、その場の空気を通して伝わっていく「心」があるんです。
―萬さんは、東京藝術大学へも進学されていますね。家を継ぐことを第一とする当時の風潮から考えると、ご家族の反対は無かったのでしょうか。
野村:父は反対しましたよ。「学校へは行くな」「芸が一番だ」と。しかし、母は応援してくれた。そうして進学した東京藝術大学の邦楽科で、さまざまな音楽家の創作に触れたことは、私の大きな財産となりましたね。何より謡(うたい)と舞いの重要さを学ぶことができた。
―他の職業に就きたいと思ったことは? 演劇やテレビドラマにも積極的に出演されていらっしゃいますが。
野村:そういう活動は私にとって「旅」のようなものでしたね。能や狂言があまりにも「専門的なもの」になってしまうのは、ちょっとまずいのではないかと考えたんです。もともとの性質から考えると、能や狂言はもっと「演劇的なもの」として考えられてもいいのではないか、と。たとえばギリシャ悲劇も、能にも、コロス(ストーリーを解説する役割を担う合唱)のようなものがある。そこに表現としてのつながりを感じるわけです。ですから、そういうものを外の活動で体験して能舞台へ昇華する、ということにも価値があるのではないかと思った。遠い世界を旅して、また自分の拠点へ戻ってくる感覚です。
―そういう活動から持ち帰られたこととは?
野村:映像と舞台の違いはすごいですね。映像というのは、映してもらえなかったら自分の存在価値は生まれない。けれども舞台には、じっとしてそこにいるだけでも成立する世界がある。その場の空気を通して伝わっていく「心」があるんです。そうしたものは録画した映像からは感じにくいものです。身体から身体へ、その場の空気を通してでないと「心」まで感じとることはむずかしい。
―しかし、一方で現代は、さまざまな映像や情報を通していろんなことを知ることができる時代です。
野村:そうですね。伝統芸能を継承する者として、テクノロジーを否定する気持ちはありません。伝統を伝承していく一助にできたらいいと思っています。たとえば、DVDなんかで名人の映像を残すのもその1つでしょう。でもね、録画からはその「心」までは見えてこないんですよ。だからピュアな感性を持つ子ども時代にこそ、伝統芸能に直に触れて、その柔らかな心で何かを感じ取っていただきたい。
―それが、学校への出張公演活動などにつながっているわけですね。
野村:そういうことです。最近は出張舞台の活動も増えました。しかし、せっかくのそうした折に「二度とこんなつまらないものは観たくない」と思われたくはありません。だからこそ「能・狂言」をまったく知らない人や、子どもたちの前で務める舞台こそ、大切にしなくちゃならないと思っています。
若い人がエンターテイメント性を追求するのは大切なこと。しかし同時に「高さ」「深さ」も追求しなかったら、薄っぺらいものになってしまう。そのための経験と年齢なんじゃないでしょうか。
―ところで萬さんは、由緒ある「七世万蔵」の名を継いでわずか7年でその名をご子息に譲り、「萬」と名乗られるようになったわけですが、それはどうしてですか?
野村:「子は親を追い越していかないといけない。そうでないと対等に舞台を作れるようにはならない」と、よく父に言われていました。親の名前を継ぐということは、背負う重さの質が違う。まず「似てる、似てない」に始まって父と比較されるでしょ(笑)。私は長らく「野村万之丞」を名乗っていましたが、正式な家の名前である「万蔵」を継いだのは67歳になってからでした。だから息子には早く家督を継がせたかった。「家」には有形無形、さまざまな財産がある。それを背負い、次世代に伝えていくのが、「家」を持つ者の責任だと思っています。いつまでも自分が抱え込んでいるべきものではない。ただ、万蔵を継いだ長男(八世万蔵)が間もなく亡くなってしまったときは、もう一度万蔵を名乗ることも考えました。が、時計の針は逆回しにすることはできない。だから次男に万蔵を継いでもらいました。
―その九世野村万蔵さんがお笑い芸人の南原清隆さんとコラボレーションした「現代狂言」も話題になっています。こうした活動をどうご覧になっていますか。
野村:評価したいですね。万蔵も南原くんも真面目に狂言に取り組んでいるのはよく知っているので。ただ狂言は、どんなことがあっても「美意識」だけは失ってはならない。台詞をこねくりまわして、達者にやろうとすればするほど下品に見えてしまう。汚い演技になったらそれはもう狂言とはいえない。でも、こういうことばかり言っているとなんだか気分が暗くなっちゃうので、万蔵には「若い奴らにはあんまり言わないでくれ」って言っているんですけどね(笑)。
―昨今では、和の伝統芸能と洋楽・洋舞など異ジャンルがコラボレーションして創作を行う公演も盛んになっているようですが、それについてはどうですか?
野村:若い人が普及に心を致し、「広さ」を求めてエンターテイメント性を追求していくのはいいと思うし、大切なことです。しかし芸能というのはそれだけでは駄目です。広さと同時に「高さ」「深さ」も追求していかなかったら、薄っぺらいものになってしまうでしょう? それを可能にするのが、経験と年齢なんじゃないでしょうか。
―エンターテイメントには興味はありますか?
野村:AKB48とか?(笑) 多くの人々を癒す、いい活動だと思いますよ。でもねえ、なんだか人間が使い捨てにされている感じもするんです。早いでしょ? (メンバー入れ代わりの)回転が。
―たしかに、エンターテイメントの世界は新陳代謝が早いですよね。
野村:秋元(康)くんと話しをしたときに、「僕は『瞬間芸能』ですから」なんて言っていたけど(笑)。伝統芸能の世界は、エンターテイメントの世界と比較すると進み方がゆっくりなんでしょうね。でもまあ、私は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」の姿勢でいようと思います。「鳴かせてみよう」でも「殺してしまえ」でもなく、ね。
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野村萬が考える、芸の「高さ」と「深さ」とは?
父の舞台を黙って一緒に呼吸させてもらった経験が、今の自分の表現につながっています。表現ってものは、決して教わるものではないと思うんですよ。
―萬さんが出演する、今年の『東京発・伝統WA感動』のプログラム『至高の芸、そして継承者~狂言』についても教えてください。通常、狂言は能と一緒に演じられますが、この10月の公演では狂言のみを3曲通して上演されますね。1番目の『三番叟(さんばそう)』を弟の万作さん・萬斎さん父子が、2番目には大蔵流の山本東次郎さんと甥の泰太郎さん・則重さんによる『木六駄(きろくだ)』、そして3番目『舟渡聟』で、萬さんと息子の九世万蔵さん、甥の万禄さんが出演。いずれも各流派の家元(しかも人間国宝一家)による、世代をまたいでの共演となります。
野村:『三番叟』は祝言の舞で、幕開けの1曲にいかにもふさわしい。これは弟・万作が、舞台の始まりを背負う意味で選んだと思います。私の出演する『舟渡聟』は同じ物語を演ずるのでも、和泉流と大蔵流とではまったく違う内容になります。和泉流ではシテ(主役)の婿役に対してワキ(相手役)の船頭や女役がドラマのカギを握る重要人物として描かれているのが特徴で、この曲は父(六世野村万蔵)がとても大事にしていた曲でもある。ですから、私も大事に受け継いで行かねばなりません。
―六世野村万蔵さんから、今回の萬さんの役どころ(船頭)に関して指導されたことで印象に残っていることなどはありますか?
野村:船頭役について父から何か言葉で教えられたことはありません。父が生きていた頃は、年老いた船頭に父、若い婿に万作、姑である女を私が演じていました。船頭と婿の掛け合いを、私はじっと笛座(能舞台の一番右側奥)に座って観ていた。その時間に父の演技から盗んだものは多いですね。私が船頭役をやるようになったのは父が亡くなってから。なんと言うか、父の舞台を黙って一緒に呼吸させてもらった経験が、今の自分の表現につながっていますね。表現ってものは、決して教わるものではないと思うんですよ。
どれだけ真剣に舞台と向かい合ってきたか。それが技術として表れるのが「高さ」であり、精神性や表現力として表れるのが「深さ」なのではないかと思います。
―芸能としての「高さ」「深さ」についてのお話をもう少し伺いたいのですが。
野村:一言で言うと「舞台における存在感」になるのでしょうね。若いときは若さが華。しかしその華は歳を取れば当然のようにしぼんでいく。一方で人間としての味わい、存在感というものは、重ねた年齢の中でどれだけ研鑽を積んできたかで現れてくるものです。ですから、どれだけ真剣に舞台と向かい合ってきたか。それが技術として表れるのが「高さ」であり、精神性や表現力として表れるのが「深さ」なのではないかと思いますよ。
―ハードルが高いというイメージで、能・狂言の舞台に触れない人たちに少しでも関心を持ってもらうための活動を「広さ」と考えるなら、その中でも伝統の真髄をしっかり保ち続けて行くためには「高さ」と「深さ」が必要である、と。
野村:そうです。その両輪が必要です。いかなる物事にも「表と裏」「陽と陰」があるのだと思います。舞台の上でもまったく同じことです。私は「槌(つち)の会」という能・狂言の会を主宰していましたが、どうして「槌」なのかという理由も、この表と裏、陽と陰という組み合わせに由来します。私は、趣味で焼き物(陶芸)をしているのですが、同じ土をこねて作られるものでも「磁器」は冷たさや気高さを感じさせ、一方で「陶器」は温かみや親しみやすさを感じさせます。同じことが能舞台にも言えるんです。能はまさに磁器。そして人々を和ませ笑わせる狂言は陶器です。
―2つのバランスが高いポイントで交われば、最高の舞台になるわけですね。
野村:さらに言うと、能は舞と謡で繰り広げられる抽象的な世界で、狂言は台詞を駆使する演劇的、写実的な世界です。その振り幅が共存、共鳴し合うのが能舞台とも言えます。
舞台の家に生まれ、人様の前で表現を行う定めを与えられたのならば、最後までその定めと向かい合い、いただいた心と身体に磨きをかけて行くのが自分の使命であると考えています。
―今年で84歳を迎えられたそうですが、1年中舞台に出られ続けていらっしゃいますし、まったく年齢を感じさせない現役ぶりですよね。大変失礼な質問で恐縮なのですが、能・狂言の世界というのは、生涯、最後の最後まで現役を貫くのが王道なのでしょうか? というのは、過去に能舞台で演じている最中に倒れた役者さんも数々いて、その為に「後見」という控えの人が常にスタンバイしているというのを聞いたことがありまして……。
野村:演じている最中に倒れる人がいたのは、主に江戸時代までの話だと思いますよ(笑)。能・狂言は大名に観せるものだったから、幕、緞帳(どんちょう)が無い。誰かが舞台で倒れても、大名の前で舞台を中断するわけにはいかなかった。だから「後見」(役者の後ろに控えて舞台を見守る存在)という役割ができたわけです。現代の能・狂言にも後見はいますけれど、体調不良など具体的な理由で舞台に出られなくなる以外には、年齢での引退、というのはないですね。ただ「もうこの役は演じられない」というのはありますけれども。たとえば今回の婿などは爺さんがやるべき役ではありません(笑)。
―こうしてお話を伺っていても、声の張り、姿勢、佇まいの美しさには、凛としたものがあります。舞台に向かうにあたり、体調管理などはどのようにされているのですか?
野村:声はアルコールで鍛えています(笑)。フランスには「美しいフランス語は劇場に行って聴け」という言葉があるそうです。舞台人として、舞や所作はもちろん大切にしていますが、私は身体が動かなくなっても最後に声は残る、と思っています。だって人間は「産声」と共に誕生するんですから。舞台の家に生まれ、人様の前で表現を行う定めを与えられたのであるならば、最後の最後までその定めと向かい合い、いただいた心と身体に磨きをかけて行くのが自分の使命である、そう考えています。
- イベント情報
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- 東京発・伝統WA感動『至高の芸、そして継承者~狂言』
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2014年10月28日(火)OPEN 18:00 / START 18:30
会場:東京都 半蔵門 国立劇場 大劇場
和泉流『三番叟』(神楽式)
出演:
野村万作
野村萬斎
ほか狂言 大蔵流『木六駄』
出演:
山本東次郎
山本泰太郎
山本則重
ほか狂言 和泉流『舟渡聟』
出演:
野村萬
野村万蔵
ほか料金:1等席6,000円 2等席4,000円 学生2,000円
主催:東京都、アーツカウンシル東京・東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、東京発・伝統WA感動実行委員会
- プロフィール
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- 野村萬(のむら まん)
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能楽師狂言和泉流、六世野村万蔵の長男として1930年に生まれる。1950年に四世野村万之丞を襲名。狂言のみならず現代演劇や前衛演劇に出演するほか、『おしん』や『翔ぶが如く』などテレビドラマにも出演。一方で小学校やホールでの公演も重ね、狂言の一般的普及に大きく貢献した。1993年に七世野村万蔵を襲名。1997年に重要無形文化財の各個認定(いわゆる人間国宝)。2000年に初世野村萬を名乗る。現在も多くの舞台で活躍し、後進の育成にも力を注いでいる。
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