三浦直之(ロロ)×後藤まりこによる『ロミオとジュリエットのこどもたち』、気鋭の演出家・杉原邦生率いるKUNIOによる『ハムレット』、地点による『コリオレイナス』など、シェイクスピア生誕450周年を記念して、現代を生きるアーティストの感覚で、その作品を甦らせてきた『あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014』。
約1年間続いてきた同フェスティバルも後半を迎え、ここで毛皮族・江本純子が演出する作品『じゃじゃ馬ならし』が登場する。シェイクスピアの中ではマイナーな部類に入る同作品は、シェイクスピアの「習作時代」と言われる若き20代の頃の作品だ。
そこには若さゆえか、かなり過激な描写が含まれており、「男尊女卑」の思想のもと、「DV=ドメスティックバイオレンス」のようなかたちで、「じゃじゃ馬」だった妻が貞淑な女へと変貌を遂げる。もし現代に発表すれば、炎上必至なこの作品に、イギリスの『ノーベル文学賞』作家バーナード・ショーは、「まともな感覚を持った男なら、女性の観客と一緒に聞くことに困惑しないはずはない」と不快感を示している。いったい、江本純子はこの問題作をどのような現代演劇作品に仕立てあげるのだろうか? 主人公のペトルーチオを演じる柄本時生とともに、シェイクスピアの意外な一面を語り尽くす。
たしかに女性の視点から見ると、かなりひどい話です(笑)。でも、この物語の本質を「嘘」や「茶番」として捉えたら、あくまでも極端な恋愛のかたちであり、人間関係の1つとして捉えられると思います。(江本)
―『じゃじゃ馬ならし』は、シェイクスピアが若い頃の作品で、主人公のペトルーチオが妻キャタリーナに対して、食事や水、睡眠を与えないという調教……今で言うところの「DV(ドメスティックバイオレンス)」を通して、自分好みの貞淑な女性に仕立てていくという、とんでもない内容のお話です(笑)。当然、センセーショナルにも受け取られる作品ですが、どうしてこの問題作を上演することになったのでしょうか?
江本:今回の『シェイクスピアフェス』のお話をいただいたときに、シェイクスピアの作品をざっと振り返ってみて、最初は同じように男女が騙し合う『夏の夜の夢』を上演する案もあったんです。でも、実際に原作を読んでみたら、『じゃじゃ馬ならし』のほうが面白かった。特に最後のシーンで、キャタリーナが唐突に演説する長台詞の意味がよくわからなくて、すごく気になりました。「女は男の言うことを聞きましょう」「貞淑でありましょう」という演説で、これもまた問題のある内容なのですが(笑)、私はその長台詞が「嘘っぽい」と感じたんです。どうも本気で言っているように思えなかったんですよね。
―原作では、特に何の説明もなく、あたかも調教によって改心したキャタリーナの本心として読むこともできますが、それを江本さんは「本気ではない」と解釈した。
江本:だって、いくら時代や文化が違うからと言ったって、さすがにあんなこと思う女性はいないですよ(笑)。「あ、これ嘘かもしれない」と感じたときに、キャタリーナは、ずっと「茶番」を演じていたのかもしれないと思いました。今回の上演では、この「茶番」の部分を描きたいと思ったんです。
―『じゃじゃ馬ならし』は、世界中のフェミニストから批判の声が上がっていることでも有名な作品です。女性として、引っかかる部分はありませんでしたか?
江本:たしかに女性の視点から見ると、かなりひどい話だと思います(笑)。けど、この物語の本質を「嘘」や「茶番」として捉えたら、そこまで問題視される作品ではないんじゃないかな。あくまでも極端な恋愛のかたちであり、人間関係の1つとして捉えることができると思います。
―いろんな解釈はありますが、他の個性的で嘘つきだらけの登場人物に比べて、この2人だけは意外にちゃんと恋愛しているという見方もできます。
江本:そうなんですよ。乱暴な描写もありますが、それ以外のところでは、ちゃんと相手のことを考えている。この作品に登場するカップルたちは、誰もが名前や身分を偽って人間関係を作っていますが、ここまで大げさなかたちではなくても、日常生活で夫婦や恋人に嘘をつかざるを得ない局面って絶対にあるじゃないですか。全部本当のことだけを喋ったら、むしろ関係が壊れちゃいますよね。
柄本:べつに大きな嘘ではなくても、みんなでご飯を食べに行って「誰とご飯行ってきたの?」と聞かれたときに、同席していた女の子の名前は口にしなかったりします。
江本:それが普通だよね(笑)。
コンセプチュアルで知的な演劇と、猥雑で欲望剥き出しな、おバカな演劇の2つに分けるとすれば、シェイクスピアは断然おバカ演劇!(江本)
―『じゃじゃ馬ならし』は、もともと劇中劇として書かれた作品なので、江本さんが「茶番」としての面白さを発見し、「嘘」の中から真実を探そうとする姿勢は、真っ当な演出なのではないかと思います。ところで、シェイクスピアって、ふだんなかなか読む機会が少ない古典作品ですが、お二人は以前から読んでいたのでしょうか?
江本:大学が英米文学科だったので、シェイクスピアの講義があったんです。でも、当時はあんまり面白いイメージがなくて、正直その後もほとんど読むことはありませんでした。『じゃじゃ馬ならし』も、今回の話をいただいてから読み始めたんです。
柄本:僕は小学校のときに、東京乾電池(父・柄本明が座長を務める劇団)で、『夏の夜の夢』のインドの王子役をやりました。幕が閉まっているときに舞台に出て行って、英語でセリフを喋る役。あとは、2年くらい前に『ハムレット』で、ギルデンスターンというハムレットの学友の役をやったことがあります。どちらもほとんど出番はなかったですけどね。
―シェイクスピア経験は、時生さんのほうが多いんですね。これまでシェイクスピアに携わってきて、どのような感想を抱いていますか?
柄本:シェイクスピアに限らず、戯曲を読むとつい考えこんでしまうんですよね。このシェイクスピアという人は、何でこんなことを書くんだろう? 一体何なんだろう? と。この『じゃじゃ馬ならし』だって、何でこんなことを書いたのか不思議ですよね。でも、僕はシェイクスピアじゃないから、正しい結論なんて当然出ない。考えようとしても無意味なんですけど……、その堂々巡りです(笑)。
―シェイクスピアというと、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』のような名作で知られる「巨匠」というイメージが先行し、その作品もどこか「高尚なもの」として扱われる印象があります。でも、そんな格調高さを期待していると、茶番劇として上演される今回の『じゃじゃ馬ならし』には裏切られそうですね。
柄本:でも僕は、もともとシェイクスピアに「高尚」というイメージはないですね。『じゃじゃ馬ならし』のような喜劇に限らず、『ハムレット』なんかの悲劇でも意外と下品、と言ったらアレですが……俗っぽい印象があるんですよ。
江本:わかりやすいよね。「人の欲望」を描いているというか、好き、嫌いなども明確に描かれていて。『じゃじゃ馬ならし』も「お金がほしい」という欲望を持ったペトルーチオが、豪商の娘であるキャタリーナを持参金目当てに手篭めにしちゃう話だし……。
柄本:下品というよりも、下世話なんですかね?
江本:たしかにシェイクスピアって、知的な世界じゃない感じはするんですよ(笑)。コンセプチュアルで知的な演劇と、猥雑で欲望剥き出しな、おバカな演劇の2つに分けるとすれば、シェイクスピアは断然おバカ演劇!
―おバカ演劇としてのシェイクスピア(笑)。
柄本:あと、どちらかというと、シェイクスピア作品には「劇ごっこ」というニュアンスが強いような気がします。特に、時代も地域も異なった日本人にとって、ヨーロッパ貴族の暮らしはリアリティーを持って想像することが難しい。だから「ごっこ」として捉えるほうが、シェイクスピア作品の本質ではないでしょうか。子どものときに、本気で「ごっこ遊び」をやっていましたけど、このごっこ遊びを大人がやったときに、どれだけ大人がバカになれるんだろう? 特に『じゃじゃ馬ならし』では、その滑稽さを見れるような気がします。
―『じゃじゃ馬ならし』のチラシには「過激な問題作」と書かれていますが、過激になった「ごっこ遊び」は、日常では味わえない経験です。
江本:その上で、シェイクスピア作品の持つ下世話さ、欲望剥き出しな、人間臭い部分をわかりやすく提示したいですね。登場人物がみんなアクの強いキャラクターなので、自ずと過激な行動をする人々の物語になっていきます。この作品自体が劇中劇として描かれたものなので、「ごっこ」に対してリアリティーを与えるというよりも、お客さんには役者がふざけ合いながら嘘をつき合っている様子を楽しんでもらいたい。あ、だからつまり『テラスハウス』なんですよ!
―えっ!?
江本:あの番組は「そんなわけねえだろ」とか「こんなこと言ってるよ」とか、ツッコミを入れながら見るのが楽しいわけじゃないですか。リアリティーのあるドラマという設定だけど、カメラがあって、おしゃれな服を着ている時点で茶番でもある。視聴者は言わば「アレどっちなの?」「そんなこと本当に思っているの?」みたいな、作られた世界の茶番を楽しんでいるわけです。そういった茶番を観る面白さを感じられる内容にしたいですね。
『ハムレット』で「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という有名なセリフがありますが、あれって結局、今でもそうじゃないですか? 現代でも感じられる気持ちだからこそ、新しい感じがするのかな。(柄本)
―シェイクスピアは下世話だという話がありましたけど、下世話だったからこそ、いろんな時代の人に愛されて、伝わってきたんじゃないかと思いました。
江本:大衆的ですよね。ずっとお金や恋愛や欲望の話ですから(笑)。
―高尚な話ばかりだったら、共感できる人も少ないでしょうし。この2014年に、450年前に書かれたシェイクスピアの古典作品を観ることは、どのような意味があると思いますか?
柄本:でも、シェイクスピアに限らず、古典の名作と呼ばれる作品に古さを感じることはあまりないんですよ。先日、サミュエル・ベケット(『ノーベル文学賞』を受賞した、不条理演劇を代表するフランスの劇作家、小説家、詩人)の『ゴドーを待ちながら』を兄と上演したんですが、「新しい」って思いました。
江本:『じゃじゃ馬ならし』も、構造的には朝ドラでも流せる内容だよね。
柄本:そう、それすごくわかります。
江本:ちゃんとしていて、マトモというか。人の気持ちを描いているし、人って何百年たってもそんなに変わらないんですよ。
柄本:約400年前に書かれた『ハムレット』の中に、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」っていう有名なセリフがありますが、あれって結局、今でもそうじゃないですか? 生きている人は皆、生死の問題を抱えている。現代でも感じられる気持ちだからこそ、新しい感じがするのかな。
江本:「新しい」というか、ずっと「生き続けている」っていうことなのかも。
柄本:ああ、「生き続けている」って、とてもわかりやすいですね。
―では、逆に古さを感じる部分は?
江本:ダジャレとか言葉遊びみたいなギャグはすごく古いと思いました。ただ、笑いは古びていくものだから仕方ない部分ではありますけど。
柄本:でも、こういうベタなギャグをしっかりやるとウケるんですよ。親父が『夏の夜の夢』をやったときも大爆笑でした。
江本:それは親父さんの腕じゃなくて?
柄本:それもあるかもしれないですけど(笑)、観客はメチャクチャ笑っていましたね。
江本:じゃあ、王道ギャグっていうことなのかな。古いんじゃなくて、大衆的っていうことですね。
劇場で芝居を観るということは、サービスや奉仕を受けているのではなく、観客は問われている存在でもあると思います。(柄本)
―『じゃじゃ馬ならし』という「茶番劇」から、お客さんに何を感じ取ってほしいと思いますか?
江本:とにかく愉快な劇にできればと思っています。フェミニズムの観点からはいろいろ問題の多い作品ですが、この物語で少なくとも主人公のペトルーチオと妻キャタリーナの二人はハッピーエンドになっている。ちゃんと恋愛をして、本気でぶつかり合うという関係性を「茶番」として味わってほしいです。
柄本:役者としては、一生懸命演じるだけなので、どのように感じて頂くかはお客さん次第だと思っています。お客さんに対して役者は、入場料をもらったぶんの「答え」を見せなきゃいけないという強迫観念がどうしてもあるんですよ。でもある意味、観に来るのは「お客さんの勝手」ですよね。それに対して、僕らは演じる以上の奉仕をすることはできないんです。
江本:いいねー。潔さを感じるよ(笑)。
柄本:でも、これ親父も同じこと言ってるんです……。
江本:申し訳ないけど、お父さんのほうが、より説得力が増すね(笑)。
柄本:(笑)。お客さんだってバカじゃないですし、話が展開していけば、懇切丁寧に説明しなくても理解できます。劇場で芝居を観るということは、サービスや奉仕を受けているのではなく、観客は問われている存在でもあると思います。
―過激な意見なようにも聞こえますが、作品と観客について真摯に考えた言葉なんですね。
江本:その考えはとてもよくわかります。お客さんがどんな時間を大切にしているのかなんて、じつはよくわかりません。劇場に入る前の時間を楽しんでいて、劇は「添え物」みたいなお客さんも必ずいますよね。それは間違ったことじゃないと思います。劇は絶対的な中心じゃないし、もっとラフな楽しみ方があってもいい。たとえば、お客さん全員が笑うのは理想的である反面、ある意味怖いことだと思います。それじゃまるで全体主義の世界。それぞれに笑いのリアクションがあるし、それぞれの楽しみ方があればいいんです。私たちが「茶番」を上演していることで、「それぞれの時間」が成立していればいいですね。
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