今からおよそ3年前、突如として音楽シーンからその姿を消した一人のアーティストが、ようやく1つの作品を携えて帰ってきた。元SOFT BALLETのメンバーとしても知られる男、藤井麻輝。2000年代に入ってからは女性ボーカリスト・芍薬とのユニット、睡蓮(SUILEN)を中心に活動し、いくつもの素晴らしい作品をリリースしていた彼のキャリアは、少なくともファンの視点から見れば、あきらかに充実しているものだったと思う。しかし、その藤井は、2011年3月の東日本大震災直後にいきなり行方をくらまし、それからしばらくは誰もコンタクトを取れない状況が続いていた。そして2014年。ようやくその姿を見せた藤井は、彼が音楽活動に復帰するきっかけとなったバンド、Lillies and Remainsの新作に携わりながら、同じく元SOFT BALLETの森岡賢と再びタッグを組み、minus(-)という名の新ユニットを結成したことを発表。そのあとに数本のライブを経た彼らは、『D』というミニアルバムを完成させ、ついにその全貌をここに表したのだ。
藤井と森岡が過去に鳴らしてきたエッジーなサウンドをご存じの人であれば、恐らく本作を聴いたとき、いくらかの驚きを感じるのではないかと思う。というのも、ここに収められたサウンドはとてもアンビエントで柔らかく、どこまでも穏やかなのだ。全編にとても優しいムードが通底している本作は、このminus(-)というユニットの性格が、これまでに藤井と森岡がそれぞれに体現してきたものとは一線を画すことを、静かに物語っている。そして、彼らがこうした作風に取り組んだ背景には、当然ながら藤井がこの3年間に過ごしてきた時間も関わっているようだ。では、行方をくらましていたこの3年間、彼はどこで過ごし、何を想っていたのだろう。そしてこれからの活動を彼はどう見据えているのだろうか。藤井麻輝に話を訊いてみた。
2011年に震災が起きて、いわゆる「音楽の力で復興を」みたいな話がどんどん増えてきて。そこで、僕は完全に音楽業界と決別しちゃったんです。
―今日はまず、藤井さんがこうして音楽活動を再開するまでの変遷をお伺いできればと思ってます。ある時期から音楽としばらく距離を置いていたそうですね。
藤井:音楽というより、音楽産業と距離を置いていた、と言った方がいいのかな。自分は無限に音楽を制作できるわけじゃない。だから、僕はその一つひとつにものすごい手間暇をかけて作品を作ってきたんですけど、そうやって骨身を削って作ったものは、定期的なスパンで世に出ていってしまうんですよね。そういう状況に僕はすごく抵抗を感じるようになっていたんです。それが2009年頃。
―藤井さんがそうした違和感を抱えるようになったのは、何かきっかけがあったのですか?
藤井:睡蓮で、2年間にミニアルバムを4枚、DVDを1枚リリースして、それらの作品はすごく評価してもらえたと思っているし、けっこう売れたんです。でも、その一方で、「果たしてあれらの作品は一つひとつ、ちゃんと愛していただけているんだろうか」っていう、変なジレンマに陥っちゃって。もちろん、すごくコアな付き合い方をしてくれる方もいたとは思うんですけど、どちらにしても「このペースでリリースを続けていくのはどうなんだろう」と。そういう自問自答があったんですね。
―その自問自答の果てに、藤井さんはどんな決断を下したんですか?
藤井:そもそも睡蓮って、2004年の活動開始から1枚目の作品を出すまでに相当な時間がかかっているので、まずはその頃のペースに戻そうと思ったんです。つまり、しばらくはリリースを休んで、制作期間を長く取ろうと。そう思っていたところで、2011年に震災が起きて。それからしばらくは、当然ながら音楽どころじゃなかった。ところが、日にちが経ってくると、いわゆる「音楽の力で復興を」みたいな話がどんどん増えてきて。そこで、僕は完全に音楽業界と決別しちゃったんです。
―これはあきらかに違うと。藤井さんは、その「音楽の力で復興を」みたいな動きのどんなところに違和感を覚えたんですか?
藤井:たしかに音楽って、力はものすごくあるんですよ。でも、その力は受け手によって、正方向にも負方向にも捉えられるものなんですよね。すべてがプラスに働くわけじゃないと。だから僕は、「音楽の力で復興を」みたいな動きをすごくナンセンスなものに感じちゃったんです。一方で、その時期の僕は「今の自分がするべきことって、音を作ってその対価を得ることじゃないよな」とも思っていて。基本的に猪突猛進タイプなので、そういう流れで、音楽業界から遠ざかってしまったんですね。
―自分が今やるべきことは音楽ではないと。では、そこで藤井さんは実際に何をやろうと思ったんですか?
藤井:最初は、原発に行こうと思っていました。作業員が足りないと言われていたし、素人の自分でも行けると聞いて。でも、それは家族からストップをかけられたんです。だったら、現実的に役に立つであろう仕事に携わろうって。
―そこで、建築の仕事に就くことを選ばれたと。もともと建築に興味があったんですか?
藤井:関心はありました。以前、自分のスタジオを作ったときも、僕はその工事に途中から参加していたくらいなので。つまり、もの作り全般が大好きなんですよ。それが建築だろうが、音楽だろうが、絵だろうが、すべて一緒だと思っています。だったら、自分が今やるべきなのは建築なんじゃないかなって、そのときは考えたんですよね。それこそ建築はストレートに生活を支える仕事でもあるし。
―なるほど。そこで藤井さんは、実際にどういう現場で働かれていたんですか?
藤井:それはもう、いろいろです。メジャーなところだと、東京駅とか、羽田空港とか、スカイツリーとか。さまざまな現場で延々と働いていたら、いつの間にか2年半が経っていました。最初は汚いコンクリートの屑しか転がっていないような現場が、最終的にはキレイになるのを目の当たりにすると、やっぱり楽しくなっていくんですよ。それに建物って、目の前にカタチが残って、みんながそれを意識せずとも愛し続けてくれるわけじゃないですか。
―たしかに。その点においては、音楽を作ったときの手ごたえとはまた違いますね。
結局、クリエイティブなものって全部一緒なんですよね。音楽を作ることも、雨が降るから屋根を付けるのと一緒で、何か満たされないものを埋めるものなんだなって。
―建築のお仕事に従事されながら、音楽のことを考えたりしたことはなかったんでしょうか?
藤井:全然なかったけど、2~3回「すごくいい音が鳴っているな」と思ったときがあって、その音を録っておいたことはあります。でも、それは音楽じゃないんですよ。普段はなかなか入手できないような「ガキーン!」みたいな工事音がその現場にあったから、それをただ録っていただけです。道端に500円玉が落ちていたら、無意識で拾いますよね? そんな感じでした。
―音楽家として染みついていた感覚が働いて、自然と音を拾っていたんですね。では、藤井さんはその建築関係のお仕事に、どのようにして区切りを入れたんですか?
藤井:そこは非常に説明しづらいところなんですけど……建築って、人の命を預かるものじゃないですか。僕は、その現場に100人いたら、100人がそれくらいの高い意識でやっているものだと思っていたんです。でも、中にはただ日当をもらうためにやってくる人も当然いて。しかも、自分はそういう人たちに指示するような立場にもなってしまったので。
―そちらの職場でもステップアップされていたんですね。
藤井:そうなんです。そこで僕は音楽にせよ、建築にせよ、細かいものを構築していく作業が好きだから、たとえ目に見えないところであろうと、キレイに積み上げたいんですよね。極端に言えば、それが建物の強度につながるかもしれないわけですから。それを他の人にも要求するけど、なかなか上手くいかず、いろいろと葛藤もあって。
―そこは個人の責任感というか、美意識も関わっていきますよね。
藤井:はい、まさにその美意識です。目には見えないところに美しさを求める感覚というか。それは、自分の音が愛されているのかどうか疑問を感じたときと同じで、結局、クリエイティブなものって全部一緒なんですよね。音楽を作ることも、雨が降るから屋根を付けるのと一緒で、何か満たされないものを埋めるものなんだなって。そうなってくると、もう建築じゃなくてもいいのかなと思ったんです。あとは単純な話、1日2勤の仕事に身体が持たなくなってきて。週に何日かは、1日16時間以上働いていたりしていたので。
―相当ヘビーな労働環境に身を置いていたんですね。
藤井:さすがに自分でも、あれは無茶だったなと思います。ヘタすると1日20時間以上なんてこともあったので、さすがにいろんなところにガタがきていました。
―それはさすがに無茶ですね……。その建築現場で2年半を過ごしたあと、藤井さんはどう動いたんですか?
藤井:ちょっとずつ現場に入る回数を減らしていきつつ、しばらく放浪していました。まあ、建築をやっていた時期も放浪と言えば放浪なんですけどね。建築からも離れて何もせずにいたのは、だいたい5か月間くらいかな。
―それもまた、決して短い期間ではないですね。
藤井:そうですね。でも、僕はその時間が無駄だったとはまったく思っていません。あそこまで何も考えずに過ごした時間って、僕の人生の中では初めてのことでしたからね。その経験は何かしらの糧になっているはずだし、間違いなくその片鱗が今回のアルバムの中にも入っていると思います。
―具体的にその5か月間はどのように過ごされていたんですか?
藤井:山を見ながら歩いて、ご飯を食べたら寝る。基本的にはそれだけの7か月間でした。僕、長野県で育ったんですけど、東京に初めて来たときの違和感は、山が見えないことだったんです。だから、というわけでもないんですけど、放浪を始めたとき、おのずと僕は山に向かっていて。やっぱり、山は自分の構成要素の1つなんでしょうね。そういうことが実感できたのも、すごく有意義だったと思います。
『minus(-) tour2014 [D]rive』10月27日の渋谷WWW公演 撮影:緒車寿一
いざ(音楽を)やってみようと思ったら、コンピュータが完全に壊れてて、まったく動かなかったんです。それで、「ああ、やっぱり今はまだ違うんだな」と思って。
―そうした時期を過ごしていた藤井さんは、何をきっかけとして音楽活動に戻ってこられたんでしょうか?
藤井:それにはステップが2つあって。放浪し始める直前、その頃の僕はニュースとかの情報もあまり収集しなくなって、世の中との関わりも希薄になってたんです。実際、誰とも連絡を取らない状況だったし、メールも一切見ていませんでした。でも、あるときにたまたまメールを開いてみたら、金光さん(雑誌『音楽と人』編集長)から、「今何しているんですか? 呑みましょう」というメールがきていて。なんかそれがすごく嬉しかったんです。でも、「今は会える状態じゃないんです」と返信して。
―すぐに会おうとはならなかったんですね。
藤井:そうですね。でも、それからしばらく経って、実際に金光さんと会うことになったんですけど、これが不思議なもので、やっぱり音楽系の人と話していると、じわじわとモチベーションが戻ってくるんですよね。で、そのときに一瞬「またやろうかな」と思って。
―それは「音楽をやる」という意味ですよね?
藤井:はい。ところが、いざやってみようと思ったら、コンピュータが完全に壊れてて、電源すら入らなかったんです。それで、「ああ、やっぱり今はまだ違うんだな」と思って。僕が音楽活動から離れた期間で最も変わったところって、恐らくそこなんですよ。つまり、わりと縁とか天啓とかを感じるようになったんです。これが以前の僕だったら、すぐに新しいコンピュータを買っていたはずだし。
―このタイミングでコンピュータが起動しなかったことには、何かしらの必然があると。とはいえ、せっかくそこで一度はモチベーションに火が付きかけたのに……。
藤井:消火されてしまいました(笑)。
死ぬ寸前くらいの状況になったときに、音楽に対する執着が自分の中に生まれたんですよね。「死ぬ前に自分が残してきた資産は誰かに託さないと」って。
―1度上がったモチベーションが消えてしまったあと、音楽活動に戻るまでの2つ目のステップはどのようにして訪れたのでしょうか?
藤井:放浪期間中の話に戻るんですけど、今年の2月に大雪があったじゃないですか。あのときに、マジで死ぬ寸前くらいの状況になって。
―そこまで危険な状況だったんですか!?
藤井:山の中にいたんですけど、とにかく雪がすごかったんです。しかも急に降ったから、逃げ場もなくなっちゃって。東京なら、ファーストフード店やファミレスに逃げ込んだりできるけど、そんなことができる場所もなかったので。それで、「ああ、これはやばいかも」と思ったとき、僕は他の誰でもなく、金光さんにメールしてたんです。そのときに、音楽に対する執着が自分の中に生まれていたんですよね。「死ぬ前に自分が残してきた資産は誰かに託さないと」って。
―残してきた音楽のことが、そこでよぎったんですね。
藤井:以前に「僕に何か起こったら、睡蓮の音源はお願いします」という話はしていたんですよ。だから、まさにそれを今託さねばと思って。それで金光さんに連絡して、そのあとに山で老夫婦がやっている居酒屋でお酒を呑みながら、いろんな話をしたんです。で、そのときに金光さんが「今、こういうバンドがいるんだよ」って、YouTubeでいろんなバンドを見せてくれて。
―それはどんなバンドの動画だったんですか?
藤井:いくつかあるんですけど、その中の1つがLillies and Remainsだったんです。あれは僕が再び音楽を始める大きなきっかけになりましたね。というのも、基本的に僕は自分の作った音以外には興味がなくて。本当に近しい人たちの作品は聴くけど、それ以外のもの、特にマスプロダクションで流通している音楽に関しては、ここ十数年くらいはほとんど聴いてこなかったんですよ。
―それは、藤井さんがどこかのタイミングで、世の中に流通している音楽のほとんどが楽しめなくなったということですか?
藤井:ある時期を境にして、耳に入ってくる音がどれもすごく安っぽくなったんですよね。多分それはPro Tools(楽曲を作るために録音や編集ができるソフト)の普及によるものだと思うんですけど、どんどん音がインスタントなものになっていく中で、僕は「こういうインスタントな音で育った世代が、今後さらにインスタントなものを作る。そういう悪循環に入っていくんだろうな」と思ってました。でも、そこで聴かせてもらったLillies and Remainsは、僕が絶望していたような音楽とはまったく違うものだったんです。10秒くらい聴いた時点で、ふと「これはやってみたい」と思えました。
今の僕が好きなのは、成るようにしか成らないものなんです。
―それをきっかけとして、藤井さんは実際にLillies and Remainsの作品をプロデュースしながら、ご自身の作品にも取り掛かります。でも、なぜそれがソロや睡蓮ではなく、このminus(-)というユニットになったんでしょう。
藤井:まず、ライブをやりたいなと思ったんです。最初は一人でやろうと思ったんですけど、考えてみればライブなんてかなり久しぶりだし、一人でステージに立つのはちょっと嫌だなと。そう思った瞬間、頭の中にふわふわと金髪の人(=森岡賢)が浮かんできて、彼とならライブができるんじゃないかなって。
―藤井さんが音楽活動を再開するにあたって、最初にとりかかろうと思ったのがライブだったというのは、ちょっと意外な気もしますね。
藤井:そうかもしれませんね。もともと僕、ライブって大嫌いだったし。でも、自分が短期間で何かを発信するなら、やっぱりライブ以外の方法はなかったんですよね。制作したものをリリースするとなれば、どうしても数か月間の時間は必要になりますから。まずはライブを決めて、そこを目標に動き始めようと。
―なるほど。でも、ライブを想定したのがきっかけだとはいえ、そこで誘ったのが森岡さんだったということには、どうしても運命的なものを感じてしまいます。
藤井:なんで森岡だったんでしょうね(笑)。彼とは18歳くらいからの付き合いなので、そのせいかもしれません。
―この二人が組んだことで、minus(-)の音楽性はおのずと二人のルーツに根差したサウンドになったようにも感じるのですが、いかがですか?
藤井:そうですね。でも、minus(-)で最初にイメージしていたのは、僕がノイズを出して、そこに森岡がピアノを入れて、キャーキャー叫んでいるような感じだったんですよ。もっと身も蓋もない、本当にプリミティブなものをやろうとしていたんです。
『minus(-) tour2014 [D]rive』10月27日の渋谷WWW公演 撮影:緒車寿一
―こうして完成した作品を聴いた印象だと、まったくそういう音にはならなかったようですね(笑)。プリミティブというより、とても「静」を感じさせるサウンドですよね。展開の起伏もぐっと抑えられていて。
藤井:あの放浪期間が無駄じゃなかったと思えるポイントって、もしかするとそこにも表れているのかもしれないです。たとえば、ここに無理やりサビをつけたり、大仰なオーケストレーションを加えることも可能なんですよ。でも、今回はそういかないようにしたんです。それはもう、すごく自然に。今の僕が好きなのは、成るようにしか成らないものなんです。それに、今ってドラマチックな音楽の方が多いから、むしろこういう音の方が強いような気もしていて。
―とはいえ、共同制作者の森岡さんからすれば、藤井さんのその考え方を理解するのはなかなか大変だったんじゃないですか。
藤井:たしかに森岡は暗中模索していたと思います。僕は「何も考えず、出した音をデータで送ってくれ。カタチになってなくても、欠片だけでもいい」としか言わなかったし、彼はそれが実際にどういう曲に組み上がっていくのかを知らないまま、とにかくそういうパーツを出している状況でしたからね。森岡が今回の楽曲をすべて聴いたのも、アルバムのマスタリングが終わったあとのことなんです。
―森岡さんですら、作品が完成するまではその全貌を知らなかったんですか。それもすごい話ですね。
藤井:でもそうしないと、彼はどんどん悩んで作為的な方向に進んで、曲をドラマチックにしようとしてしまいますから。だから、森岡にとっては、きっとよくわからないままの数か月間だったと思います。ただ、今回のアルバムを聴いてもらったことで、森岡も「なるほど」と思ってくれたはずだから、恐らく次からはもっと気が楽になるんじゃないかな。
リスナーには聴いた感想を自由に抱いてもらえればいいし、その曲が1か月後に忘れ去られるものだったとしても、それまでだと思うだけなので。
―こうして、久々に作品を完成させた現在の心境はいかがですか? また音楽制作の場に戻ってきて、こうして今ご自身が作った音楽のことを話されているわけですが。
藤井:これはすごく不思議な感覚ですね。自分がまたこういう状況にいるとは、あまり考えてなかったことですからね。しかも、それを意外とスムーズに受け入れている自分にも、けっこう驚いていて。
―どちらにせよ、藤井さんはこれまでとは違った音楽との付き合い方を、minus(-)で見出したようですね。
藤井:たしかにその1つを発見できた感じはありますね。今はすごくリラックスしています。だから、今回のアルバムはアンビエントな感じがするのかも。これっていわゆるアンビエントな作品ではないし、ビートも入っているんですけどね。
―いわゆるダンスミュージックなのかと言われると、そうでもないんですよね。
藤井:うん。でも、これって聴き手によってはすごく踊れる音楽でもあると思うんですよ。その一方で、他の人にとってはすごく安らげる音かもしれない。また別の人にとっては、ものすごく哀しい音楽に聴こえるのかもしれない。そういうフラットな作品になったのは、minus(-)での僕に、睡蓮での僕みたいな執念がないからなんでしょうね。
―「執念」ですか。
藤井:今回のアルバムに“B612(Ver.0)”という曲(きのこ帝国の佐藤によるソロプロジェクト、クガツハズカムがボーカル参加)があるんですけど、この「Ver.0」がすべてを物語っているような気もしていて。つまり、minus(-)としての自分は、音源が100%完成の状態ではなくても、リリースできる状態にある、ということ。睡蓮としての作品であれば、恐らくこの曲を出すまでにあと2年はかけていると思うので。
―それは、“B612”がまだ完全な状態ではないということですか?
藤井:いや、「Ver.0」としてはこれで完成しているんです。でも、これとはまた違った完成形があることもすでに見えていて。これが睡蓮での僕となると、もっと高い地点に到達して、20年後に聴いてもいいと思ってもらえるようなものになるまでは絶対に出せないんです。それがminus(-)では、リスナーには聴いた感想を自由に抱いてもらえればいいし、その曲が1か月後に忘れ去られるものだったとしても、それまでだと思うだけなので。
―音楽を発表する目的が、minus(-)と睡蓮ではまったく違うんですね。
藤井:そうですね。自分の作品に普遍性を求めていないのは、もしかすると今回が初めてかもしれない。それよりも僕がminus(-)で試したいのは、こうやって「今」を積み重ねていくことなんです。ただ、“B612(Ver.0)”だけは、ちょっとだけ執念が生まれちゃったんですけどね(笑)。この曲に関しては、ある意味、睡蓮に近い世界観なのかもしれない。
パイプ椅子に座って煙草を吸っているよりは、スピーカーの前に座っている方が、「ここが自分のいる場所だったんだな」とは感じられますね。
―では、この『D』というアルバムを踏まえて、藤井さんの音楽活動は今後どうなっていくんでしょう。
藤井:こうして音楽を今年の3月から再開してからは、大きな展望が2つあります。それをやり遂げるまでは、とりあえず息をしていたいですね(笑)。
―2つの展望ですか。それはぜひ教えていただきたいです。
藤井:1つは、睡蓮を次のタームに進めたいということ。それはもう、自分のライフワークとして地味に進めていくしかないですね。もう1つについては、まだ詳しくお話できないんですけど、そっちはもっとアグレッシブなことをやっていこうと思ってます。ただ、これだけは断言しておきますけど、SOFT BALLETの再結成ではありません。
―たしかに、そこは期待しているファンもいるかと思うので、はっきりさせておいた方がよさそうですね。
藤井:はい。そして、その2つの真ん中で遊べる場として、minus(-)があればいいなと今は思ってます。
―また忙しくなってきましたね。
藤井:そうなんですよ。そういう意味では今、建築で1日2勤だった頃の状況に戻っているんですよね(笑)。
―(笑)。充実感としてはどうですか?
藤井:そこはどちらも一緒なんだけど、パイプ椅子に座って煙草を吸っているよりは、スピーカーの前に座っている方が、「ここが自分のいる場所だったんだな」と感じられますね。
―恐らく藤井さんを知る誰もが、ずっとそう思っているはずです。
藤井:でも、僕は額に汗して働くなんてこと、それまでにほとんどやってこなかった人間ですから。こうして燃え尽きる寸前にいろんな経験ができたのは、すごく嬉しいんですよ。
―燃え尽きる寸前って(笑)。藤井さんには、ここからもっと作品を出してもらわないと。
藤井:今は、どのタイミングで録ったものでも、それを遺作として残せるものにしたくて。自分の作品にしろ、プロデュースした作品にしろ、すべてそう。
―藤井さんが自分の死を強く意識したときに音楽のことがよぎったのも、つまりはそういうことなんでしょうね。
藤井:こうしてまた戻ってきたってことは、やっぱり僕は音楽が好きなんだなと思います。
―好きだから戻ってきた。非常にシンプルな着地点ですね。
藤井:これも年の功ですかね(笑)。
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