“舟唄”“雨の慕情”“愛の終着駅”……ヒット曲を数多く持つ演歌界の大御所が、この数年、新たな音楽ジャンルへの挑戦を続けている。2012年にリリースしたジャズアルバム『夜のアルバム』は世界75か国で配信され、ニューヨークのジャズクラブ「Birdland」でのライブも実現させた。マーティ・フリードマン作曲“MU-JO”ではロックにも挑んだ。今回リリースされる『哀歌-aiuta-』はブルースアルバム。寺岡呼人プロデュースの本作は、ブルースの名曲カバーに加え、THE BAWDIES、横山剣、中村中からの楽曲提供を受け、歌手・八代亜紀の心をブルースに注いだ。
人に寄り添い、共に悩み、その声を届ける。八代は、「私は表現者ではなく代弁者」と語る。八代亜紀の音楽には、哀しみの中にある人への眼差しが通底する。だからこそジャンルを越境しようとも、決してジャンルに飲み込まれない温かみを帯びる。終始微笑みながら丁寧に答える姿は、包み込むような優しさに満ちていた。
勘違いがあったからこそ、今があるの。私、勘違いだらけなのね(笑)。
―調べていて驚きましたが、八代さんが15歳のときに初めて人前で歌声を披露した地元・熊本県八代市にある「キャバレー ニュー白馬」は現存しているのですね。
八代:そうなの。これだけの規模のキャバレーが地方に残っているのはとても珍しいものですから、文化財として残そうという運動をしたいくらいです。ここが八代亜紀の原点ですからね。
「キャバレー ニュー白馬」で撮影した最新PV
―当時、18歳だと偽ってキャバレーのオーディションを受けて、お父様に内緒で働き始められたそうですね。
八代:私としては、父が苦労して立ち上げた会社を助けるつもりでした。歌手になるためのステップとして、最初は地元のバス会社でバスガイドを始めたんですが、あまり合わなくて。早く稼がなきゃという気持ちもあり、キャバレーで歌い始めたんです。でもね、父の友人が飲みに来て、3日目でバレちゃいました(笑)。
―その一件で父親から勘当され、上京を決意された。
八代:父を助けたかったことを、分かってくれなかったのね。不良になったって勘違いしたの。でもね、その勘違いがあったからこそ、今があるの。今ではその勘違いに感謝しているんです。
―上京した東京・新宿では美人喫茶で歌い始め、その次は銀座のクラブで歌われていました。でも、自分が想像されていたアメリカの「クラブ」と、日本の「クラブ」は、どうにも違っていた。
八代:ここでも勘違い。私、勘違いだらけなのね(笑)。12歳のとき、父がジュリー・ロンドン(1926年生まれ、アメリカの女優兼ジャズシンガー)のアルバムを買ってきて、そこに「クラブで歌う一流のシンガー」と書いてあったんです。そうか、クラブで歌うシンガーが一流なんだ、クラブシンガーになっていっぱい稼ぐぞ、と思ったのね。勘違いで働き始めたクラブではあったんだけど、そこで初めて自分のハスキーな声が好きになったんです。歌い始めると、ホステスさんからお客さんまで全員立ち上がって、フロアでダンスが始まったの。「あっ、自分の声はいい声だ」って初めて思えたのね。
―それまでは根深いコンプレックスだったんですね。
八代:だって学校の音楽の時間に、先生が「そんな声出しちゃいけないよ」なんて言うんですもの。美人喫茶で歌っているときに、レコード会社から声がかかったんですが、「200万円用意しなさい」なんて言われたのね。私、お金を出してまでレコード会社に媚びるつもり気はなかったから、「結構です!」ってけんもほろろに断ったら、「生意気な歌手だ」なんて言われましてね。
―当時は、そうやって歌手志望の若者にお金を払わせてレコードをリリースするビジネスがあったそうですね。
八代:流行ってたのよ、田畑売ってレコードを出すようなビジネスが。バスガイドのお給料が7,000円の時代ですから、200万円用意しろ、なんてとんでもない話です。ましてやお父さんに「お金出して」なんて言えるはずもない。その後、銀座の高級クラブの専属歌手として歌うようになったんですが、ここでは給料がとてもよくて、引き続きレコードを出しませんかとスカウトが来ても「結構です!」なんて断ってたの。
―「私、ある程度お金あるから」って(笑)。
八代:生意気よね。でもね、それくらい自分を持っていた、ということでもあるのね。もちろん生意気な口を利くわけではなくて、笑顔で「ごめんなさ~い」って返すの。ほら、若い女の子の特技って笑顔でしょう。みんな、覚えたほうがいいわ(笑)。
地方のキャバレーで、おじさんが「これで拭きな」っておしぼりをくれたの。私、そこで優しさを教わったんです。
―オファーを断り続けていた八代さんが、1971年、いよいよデビューされるわけですね。
八代:私としては、デビューする気持ちはなかったんです。クラブにいるホステスのお姉さんたちが「アキちゃん、あなたの歌を毎日聴けてものすごく嬉しい」って言ってくれるだけで良かったの。その頃働いている女性には、とっても悲しい事情を持った女性が多くてね。「ブランド物を買いたいからホステスをやっている」なんて子は1人もいなかった。表ではとてもキレイなんだけど、裏にまわれば、給料を取り立てに来るお父さんや彼氏がいてね。そんな女性たちに「アキちゃん、私たちみたいな女性があちこちにいるの。だからさ、レコードを出して、そういう人たちにもあなたの歌を届けて」って言われたんです。
―その言葉に後押しされてデビューを決断された。
八代:いいえ(笑)。まだまだ生意気な10代でしたから、「しょうがないな」なんて思いながら、出勤前にレコード会社に寄ったのね。そこにはレコード会社の重役さんが勢揃いしていて、「ちょっと歌ってみてほしい」と言われ、その場で歌ったの。そうしたら、即座に専属契約してほしいと言われたんです。
―デビューされたものの、当初はまったく売れませんでした。これまで銀座のお店で一目置かれていた自分からすれば、順調に歩むはずの階段を最初から転げてしまう形になったわけですね。
八代:当然、たくさん売れると思ってましたよね(笑)。やっぱり熊本の人間ですから「肥後もっこす」(頑固一徹な性格を指す熊本の方言)で、これまで応援してくれた人に「よくやった!」って言わせなきゃ、って責任感が湧いたのね。だから、トランクの中にレコードをたくさん詰めて、地方のキャバレー周りを毎日のように繰り返しました。夜行列車に乗って、知らない街で降りて、地図を頼りにキャバレーを探し出し、歌を唄ってレコードを売る。そうしたら、見事に完売するの。でも、重いトランクを引くものだから、手が豆だらけになってしまってね。
―当時、握手するのがとても嫌だったそうですね。
八代:そりゃあ、そうよ。女の子だから、豆だらけの手なんて差し出したくない。あるとき地方のキャバレーで、「握手してくれ」って手を差し出してくるおじさんがいたのね。私、握手したくなかったの。でもね、グッと握って、席に戻って行ったおじさんが「これで拭きな」っておしぼりをくれたの。私、そこで優しさを教わったんです。
自分で「大スター」って言う人は「小スター」よね(笑)。私はたくさんの大スターから愛をもらってきました。
―売れなかった時期を打破したのが1972年、『全日本歌謡選手権』で10週勝ち抜きチャンピオンに輝いたことでした。
八代:逃げてたまるか、という気持ちで挑んでいましたね。でも、若者なりにけじめはつけなければいけない、という思いもありました。『全日本歌謡選手権』は、10週勝ち抜いて初めてグランプリです。80点以上取らないと勝ち抜けできず、その点に達しなければ合格者がゼロになることもある。こうなるともう、他人との戦いではないんです。私は一応プロ歌手でしたが、アマチュアと同じ土俵に立ちますから、ここで落ちたら救いがありません。最後まで勝ち抜けなかったら「八代亜紀」を捨てる覚悟でした。
―見事勝ち抜き、レコードも売れ始めます。
八代:“なみだ恋”がヒットした頃(1973年)は、徐々にアイドルの時代になってきていました。みんながルンルンとミニスカートを履いている時代に、八代亜紀はドレスを着て「夜の~」と歌ってました(笑)。当然、「あの娘、自分だけ売れてのぼせてない?」なんて言われるわけ。でも私、「それって、褒められてない?」って思うことにしたのね。私はのぼせてなんかいない、幸せだったから笑ってただけなの。でも、それが気に食わなかったのね。「こうなったら、いつまでも売れていよう」と心に決めました。
―以前のインタビューで、若い人にプレッシャーを与えるような存在であってはいけない、と語られていました。このときに自分が受けた仕打ちを反面教師にされてきたのでしょうか。
八代:もちろんです。震えている後輩がいたら、背中をさすってあげる、これが私の生き様なんです。ありがたいことに今、若い歌手のみなさんは、「番組の共演者リストに、八代さんの名前があると安心します」なんて言ってくれるの。
―ご自身が石原裕次郎さんや高倉健さんなど、「大」のつくスターと共に仕事をされてきたことも大きいのでしょうね。大スターの共通項とは何でしょう。
八代:大スターは威張らないの。人が歩いているところに、決して足を出さない。
―「小スター」は?
八代:自分で「大スター」って言う人は「小スター」よね(笑)。そういう人は、足をポンって出すのね。そして、それにつまずいてコケた人を見て喜んでるの。絶対にこういう人になってはいけません。健さん、裕次郎さん、吉永(小百合)さん、王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さん……私はたくさんの大スターから愛をもらってきました。
初めて女子刑務所への慰問に行ったとき、私は歌えませんでした。こちらも涙がこみあげてきて、なかなか歌えない。
―大きな転換点としてはやはり阿久悠さんが作られた“舟唄”ですね。歌詞を渡され、最初の2行を見ただけで「売れる」と思われたそうですね。
八代:<お酒はぬるめの 燗がいい / 肴はあぶった イカでいい>この2行を読んですぐに情景が浮かびました。レコード会社の方が阿久先生にお願いしに行ったとき、「阿久先生の世界観で女心を描いて欲しい」と言ったそうなんです。阿久先生は女心を何十曲と書かれたのですが、レコード会社の社長が「これじゃないです」「こういう曲はすでにあります」って何度も断っちゃった。そしたら、阿久先生が気分を害されて(笑)、「これはどうだ!」と出されたのが“舟唄”だったんです。寒い港町に旅行に行った男の歌、彼女を残して旅をする男が、知らない酒場で飲んでいる……。
―その情景は、ご自身が育ってきた光景とは全く違いますね。
八代:でもね、メロディーと詞が、自然に導いてくれたのね。そのまま歌えば良かったの。
―八代さんは、ご自分のことを「表現者ではなく代弁者だ」とよくおっしゃっています。とても印象的です。
八代:そう、私の歌は「代弁」なんです。「私と境遇が似ている。よし、頑張ろう」と思ってもらいたいし、「自分が幸せだってことを忘れていた。この幸せを大事にしなきゃ」とも思ってもらいたいんです。
―幼少の頃、お父さまがホームレスの方を家に連れてきたそうですね。社会的に弱い立場に置かれている人たちに対する眼差しは、お父さまから学んだのですか。
八代:小学校の頃、知らないおじさんが1か月家にいましたが、父はごく自然に連れてきたんです。私は、「親戚かな?」と思って、毛布をおじさんにかけてあげたりしていたの。あとでお父さんに聞いたら「寒い中外にいたから連れて来たんだ」なんて言う。それは、決してボランティア精神ではないの。うちではそれが当たり前だった。いなくなった後で「あの人はどうしたの?」って父に尋ねたら、「住みやすいところに戻ったんだよ」って言ってましたね。
―八代さんが女子刑務所への慰問を長年続けてこられたことも、幼少期のそういった体験と無関係ではないのでしょうか。
八代:そうですね。でも、初めて女子刑務所に行ったとき、私は歌えませんでした。サンダルを履き、番号で呼ばれる彼女たちが、私を一目見て嗚咽している。こちらも涙がこみあげてきて、なかなか歌えない。初回は散々でしたけど、感情移入しているだけではいけない、それよりも支えることを徹底しないと、と思い直しました。
―長く慰問を続けていて気付かされることはありますか。
八代:慰問を始めた当初は、8割方の女性が、何がしか男性に騙されて捕まった人でした。生活苦とか、旦那さんからの暴力に耐えられなくて、とかね。残りの2割は本当に悪い人(笑)。でも、慰問を重ねていくにつれ、最近ではそれが半々になってきたのね。
―自発的な犯罪が増えてしまったということでしょうか。
八代:残念ながらそういうことなのね。でも、誰もが背中合わせなのかもしれない、とも思う。そういう状況の中で事件を起こしてしまった女性の支えになりたかったの。だって、私は歌を通して、切実な生活苦や、男性関係のわだかまりを歌い上げてきたのですから。
―みなさん、八代さんの歌に自分を投影されるわけですね。
八代:私が刑務所で歌うと、みなさん号泣されます。だから、私、必ず言うんです。「頑張って卒業してね。八代亜紀は全国各地でコンサートをしているから、卒業したら必ず訪ねてらっしゃい」って。
―実際に訪ねて来られる方もいらっしゃるそうですね。
八代:そうですね。1度、おばあちゃんが孫をおんぶしてやってこられました。そしたら、そのお孫さんのお母さんが言うの、「無事に卒業しました」と。「頑張るんだよ」と声をかけましたね。
アメリカの開放的な雰囲気は素敵。日本のおじさんたちにも、もうちょっと街中で「うぇ~い」って音楽を奏でて欲しいわ。
―以前、マーティ・フリードマンさんにインタビューした際、ギターソロで八代さんの“舟唄”などの演歌をプレイする理由について聞きました。マーティは「演歌の間奏には、必ず歪んでいるギターがある。メタルと演歌は、その歪み方が似ているんだ」と言っていました。
八代:マーティが演奏する“舟唄”は、ロックや演歌というより、ブルースなのよね。切なさが、その魂が、伝わってくるんです。ブルースは奴隷制度の中から生まれた音楽です。日本でも、貧しさの中から子守唄や浪曲が生まれましたが、これもまた切ないブルースなんです。
―今回リリースされるブルースアルバム『哀歌-aiuta-』では、THE BAWDIESや横山剣さんなどから楽曲提供を受けていますが、ジャンルを横断し、初めての人と音楽を共に作り上げるとき、新たな発見を覚えることが多いですか、それとも共通項に気づくことが多いですか。
八代:共通項ですね。ブルースとは、あまりにも酷い扱いを受けてきた人間の魂だから、今回のアルバムではそこを掘り下げてみたかったんです。自分の家ではジャズが鳴り、父は浪曲を歌ってました。そのジャズや浪曲が、私の中でブルースと呼応したんですね。今回は、自分のルーツを掘り下げる作品にもなりました。
―2013年、ニューヨークの老舗ジャズクラブ「Birdland」でもライブを開催されました。アルバムを作る上で、アメリカという土壌から感知した部分も大きかったのではないでしょうか。
八代:自由よね、アメリカって。街を歩いているだけで、ジャジーだったり、ブルージーな歌が聴こえてくる。でも、一昔前までは日本でも街中に音楽が溢れていたのよ。ほら、おじさんたちが、酒の力を借りて歌いながら歩いていたでしょう(笑)。アメリカにはまだまだ人種差別が残っていますし、良くない面もたくさんあります。でも、あの開放的な雰囲気は素敵。日本のおじさんたちにも、もうちょっと街中で「うぇ~い」って音楽を奏でて欲しいわ。
―音楽がみんなの共通のものになるくらい広まっていくために、これまで歌番組が大きな役割を果たしてきました。最近は、めっきり歌番組が少なくなりましたね。
八代:やっぱり、時代よね。でもね、BSでは増えてきたのよ。BSだと世界各地でも映るわけで、だから私、韓国でも台湾でも、街で見つかったら追っかけられちゃうくらいなんだから。
―むしろ、日本人より日本の音楽番組を見ているのかもしれませんね。
八代:本当にそうなの、とてもよく見てくれています。この間、モンゴルに行ってきたんですが、モンゴルの大草原にパラボラアンテナがあるんです。ゲル(モンゴル遊牧民の移動式住居)は布だから、パラボラアンテナは上につけられなくて、外に置いているのね。
―モンゴルのゲルの中でも八代さんが見られると。
八代:そう、しかも、ゲルの中だけじゃないのね。モンゴルで7時間の移動をしたんですが、ドライバーさんが「Aki Yashiro」で検索してくれて、私の曲をスピーカーから流してくれたんですよ。私、驚きました。モンゴルで自分の曲を聴けちゃうんですから。
―ジャズアルバム『夜のアルバム』(2012年)も世界各国で配信されました。キャリアを積み重ねてられてもなお、新たなジャンルを開拓するための好奇心を持ち続けていらっしゃいますね。
八代:私はね、「もう十分だから」って一応は言うんですけど、若いスタッフたちが色々と仕掛けてくるんです(笑)。
―「八代さんならきっと受けてくださるだろう」と。
八代:そうなの。こっちは大変なんですから(笑)。でも結局、新しい宿題を前にすると、脳がグラッと動くんです。
―新しい音楽に向かうことで脳が活性化される感覚は、キャンバスに向かう画家・八代亜紀とはまた異なるものですか?
八代:絵を描くことと歌うことは全く違うんです。絵は幼い気持ちに戻るんですね。毎回ワクワクして、おトイレに何回も行きたくなっちゃうくらいなの(笑)。
―歌が「代弁者」だとすれば、絵は何ですか?
八代:絵は自分の心です。心が出るんですよね。だから「八代亜紀」というより「アキちゃん」が出るんです。心を見透かされるみたいに。
ここでダメなら違うことを探そうって決断するのも大事です。
―八代さんは、熊本県立八代清流高等学校の校歌の作詞・作曲を手掛けられました。とても特別な経験だったのではないでしょうか。
八代:そうですね。校歌って難しい言葉がいっぱい並んでいますでしょう。だから私には作れませんって、1度はお断りしたんですね。そうしたら校長先生が、「そうじゃないんです。八代さんのステージで話されている言葉が若者には必要なんです」とおっしゃってくださった。その言葉を聞いて、それならやりましょうとお引き受けしたら、とてもスムーズに言葉が出てきましたね。
―若者たちに向けて、「これだけは持っていなさい」と伝えたいことはありますか。
八代:自分でやろうと思ったことを、実際に社会の中で実現させようとすると、とっても苦しく、形になるまでは大変だと思います。その中でも頑張れるなら、そこには何かがあると思う。でもね、やってもやってもダメで、周りから罵倒されて、辛い思いをしてまで我慢する必要はないと思うのね。そしたら、本当に合うものを、またイチから探し直せばいいの。
―ただただ、がむしゃらにやる必要もないと。
八代:がむしゃらにやって、それで人間的な楽しさを忘れるようだったら、ダメだと思うの。がむしゃらにやって、ダメなら友達と会い、話をする、飲みに行く。それでも面白くないならば、危険信号よ。
―八代さんが『全日本歌謡選手権』で「ここでダメだったら……」と覚悟を決めたように、自分でタイミングを作ることも大事なのですね。
八代:そう。ここでダメなら違うことを探そうって決断するのも大事です。
―来年はデビュー45周年に……。
八代:いいえ、来年は44周年になるの。これからは年を「取る」のよ。
―なるほど。ではそのうち、今年デビューという日がやってくるんですね(笑)。
八代:そう! そう思わないと。
―野暮な質問でございました。
八代:そうです、人生は野暮ではいけません(笑)。
―では、デビュー20周年くらいのときにでも、またお話を聞かせてください。
八代:喜んで。今日はどうもありがとう。
- リリース情報
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- 八代亜紀
『哀歌-aiuta-』(CD) -
2015年10月28日(水)発売
価格:3,240円(税込)
COCP-392741. St.Louis Blues
2. The Thrill Is Gone
3. 別れのブルース
4. フランチェスカの鐘
5. Give You What You Want
6. ネオンテトラ
7. 命のブルース
8. The House of the Rising Sun
9. 夢は夜ひらく
10. Bensonhurst Blues
11. あなたのブルース
12. Sweet Home Kumamoto
- 八代亜紀
- イベント情報
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- 『AKI YASHIRO "aiuta" Special Night』
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2015年11月17日(火)
[1]OPEN 17:00 / START 18:30
[2]OPEN 20:15 / START 21:30
会場:東京都 表参道 Blue Note Tokyo
料金:8,500円
- プロフィール
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- 八代亜紀 (やしろ あき)
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熊本県八代市出身。1971年デビュー。1973年に出世作“なみだ恋”を発売。その後、“愛の終着駅”“もう一度逢いたい”“舟唄”等、数々のヒットを飛ばし、1980年には“雨の慕情”で日本レコード大賞・大賞を受賞する。また、画家としてフランスの由緒ある『ル・サロン展』に5年連続入選を果たし、永久会員となる。近年では、メタルフェス出演、『京都音楽博覧会』への出演、学園祭にて学生ビッグバンドとのコラボレーションなども果たす。2015年10月28日、寺岡呼人プロデュースのブルースアルバム『哀歌-aiuta-』をリリース。
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