「アピチャッポンが嫌いな人なんていません!」と断言してしまいたくなるくらい、タイの映画監督・アーティストのアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品は魅力的だ。人や動物の境界線の曖昧さ。深い森や洞窟への不思議な旅。そして、始まりと終わりがループする時間感覚。それは、死者が戻ってくる「お盆」、あるいは「もののけ」「輪廻転生」といった概念に親しみのあるアジアの人であれば共有可能な感覚に満ちている。それは、今年1~2月に開催された特集上映『アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ 2016』に、若者をはじめとする多くの人が殺到したことからも察せられる。
だが、いざその魅力を言葉にしてみようとするとうまくいかないのもアピチャッポン作品の特長である。わかるようでわからない、でもわかる、そんな彼の新作『光りの墓』を、キュレーターの長谷川祐子と、写真家のホンマタカシの二人に徹底的に読み解いてもらおう、というのがこのインタビューの趣旨である。一人の女性と、原因不明の病気「眠り病」にかかった男性兵士のラブストーリーであり、遠い過去との対話でもある『光りの墓』を通して、アピチャッポンの不思議な世界へと足を踏み入れよう。
アピチャッポンの映画には、撮り手の主体性や主観を超えたものが映っていて、見る喜びがあるんです。(ホンマ)
―アピチャッポンの作品が好きな人って大勢いますが、その理由を言葉にするのは難しいと感じていて。わからないけど好き、でも難しい。そんなアピチャッポンの謎に新作『光りの墓』を通じて迫っていきたいな、と。映画を見て、ホンマさんはいかがでしたか?
ホンマ:最初はビジュアルやストーリーが面白いと思ったんですけど、最近は音のイメージに惹かれますね。冒頭は、真っ暗ななかに、虫の音、工事の音が混ざっていて、ラスト近くではヘナヘナなハウスミュージックが野外エアロビの風景に重なっていく。サウンドデザインがとにかくかっこよかった。
長谷川:彼の映画の時間というのは、基本的に建築的なんです。最初シカゴで建築の勉強をしていたこともあって、「構造」が特徴的なアーティストだと思います。
―と言うと?
長谷川:『光りの墓』では、古代の王様の戦いがあり、彼らが葬られた墓があって、現在はその敷地に病院が建っているという設定です。そこに謎の眠り病に罹患した兵士たちが入院していて、生きているのか死んでいるのか簡単に分けられない、曖昧な状態に置かれている。そもそも病院自体が生死の境界を扱うところですけど、その横には工事現場があってガーガーと大きな騒音を発している。夢のようなロマンティックな場所の横に、身も蓋もない現実が対比的に置かれているそれぞれの空間構成が建築的です。ジョー(アピチャッポンの愛称。タイでは本名のほかに愛称を持つのが一般的)は、エモーショナルなメモリーを大事にする人でもありますけれど、一方でとても構造的と言えます。
―アピチャッポンが構造的というのは意外な指摘です。
長谷川:もちろんフレキシブルな柔軟性を持っている人ですよ。見た目はほんわかとして、若いお坊さんみたいですが(笑)。でもそれは、自分のなかに強固な構造を持っているからこそのフレキシビリティー、柔らかさなんですね。
ホンマ:構造的ですよね。先日公開された『世紀の光』とか、いくつかの作品が、前半と後半できれいに分割されているんですね。いくつかの話、空間がパラレルに進行していく映画は多いけれど、見事にまっぷたつに分かれるっていうのは他にあんまりない。あと、アピチャッポンの映画は、ラストがすごくいい。明確に終わりを示さない、スタート地点にぐるっと戻ってくるようなオープンエンディング。ほとんどの映画って、ラストに巧くまとめようとするからシラけるんだけど、アピチャッポンは本当に絶妙というか。『ブリスフリー・ユアーズ』の、ただ少女が上を見上げるだけのラストなんて感動的です。さっき西洋人の主体性の話を長谷川さんがおっしゃっていましたけど、アピチャッポンの映画には、撮り手の主体性や主観を超えたものが映っている。そこに見る喜びがあるんですよね。
―「見る喜び」っていい言葉ですね。
ホンマ:監督の意図をむりやり押し付けないんですよ。『光りの墓』でも、ニワトリかヒヨコがぴよぴよぴよって出てきますよね(笑)。ああいうところに改めてびっくりします。普通の映画だと、自然な風を装っていても「動物を入れたな。そして撮ったな」っていうような作為を感じる。でもあそこのシーンは、単に鳥が放置されている感じがした。それってなかなかできないことですよ。
長谷川:オープンエンディングは大事ですよね。以前ジョーがハリウッドムービーと自分の映画の違いについて語ったのが印象的でした。ハリウッドは観客の欲望を固定して想定して、そこに連れていくもの。だからおきまりの予定調和のゴールばかり。でも自分の場合は、監督の欲望が向かう方向に観客の手を携えて連れて行って、その先のフィールドで手を離す、あとは自分で行ってもらうようなものなんだ、と言っていました。
―『ブンミおじさんの森』(2011年)も『光りの墓』も、森やあの世に誘われるような感覚がありますね。
長谷川:あとはアジアの人の時間感覚がありますよね。西洋は、ここで始まってここで終わる、という1本のラインで歴史や時間をつなげようとします。でもアジアの時間は「輪廻転生」や「お盆」のように「円環」の考え方に基づいている。ここがゴールだと思っても、そこからまた別のループに入っていくような道行きです。だからジョーが大事にしている「記憶」というテーマも、模型のように固定化された過去のものではなく、記憶の「肌触り」のほうを重要視していて、それを思い出すことで、今この瞬間にリアリティーが蘇ってくるということを映画のなかでやっているんです。
2001年の当時から、一般の人や俳優たち自身の記憶をもとにしてその場でシナリオを作る手法を用いていて「なんて斬新なんだろう!」って。(長谷川)
ホンマ:そういえば『トロピカル・マラディ』(2004年)のエンドクレジットに長谷川さんの名前がありますよね。
長谷川:ジョーから構想をきいて『山月記』を紹介しました。
―もとになっているのは中島敦の『山月記』ですよね。虎になってしまう男の変身譚。
長谷川:だから、お礼に虎の置物をもらいましたよ。ちょっとしっぽが欠けちゃったけど今も飾ってあります(笑)。
ホンマ:長谷川さんがアピチャッポンに初めて会ったのっていつ頃なんですか?
長谷川:2000年に『イスタンブール・ビエンナーレ』(実施は2001年)のキュレーションをすることになって、いろんな国にリサーチに行っていました。それでタイの知り合いから、とても面白い映画監督がいると紹介されたのが最初です。当時から、一般の人や俳優たち自身の記憶をもとにしてその場でシナリオを作る手法を用いていて「なんて斬新なんだろう!」と思って、『イスタンブール・ビエンナーレ』に作品を出品してもらったんですよね。
ホンマ:その時点で、アピチャッポンはまだ美術館での展示はやってないですよね?
長谷川:全然ですね。ジョーの世界観をとても新鮮だと思ったので、そのあと、グッゲンハイム財団が主催する『ヒューゴ・ボス賞』にも一生懸命推薦したんですけど、他の審査員たちは当時「それ誰?」って感じで誰も耳を傾けてくれませんでした。
ホンマ:じゃあ、映画監督だった彼をアート方面に呼んだのは長谷川さんなんだ。
―ホンマさんは、アピチャッポンと面識はあるんですか?
ホンマ:ありますね。それこそ、『ブリスフリー・ユアーズ』のクレジットには僕の名前もあったんですよ。でもそのときはまだ会ったことなかったから「なんでだろう?」って不思議で。その後、雑誌の仕事で会って、連絡先を交換したんですね。その後すぐにチェンマイに行く用事があったので連絡したら「じゃあ今から会おう」と返事があって、それで家に遊びに行きました。その体験も面白かったなあ。ボーイフレンドと一緒にごはんを作ってくれたけど、西洋的な手厚い歓迎でもなく、かといって、ほったからしにするわけでもない。自然体で家のなかに放置してくれた。家のつくりも面白くて、まわりに森があって、コの字型の家の真んなかに池があって、どこから外でどこから内側なのかわからないし、居間と寝室の区別が曖昧で。本当に彼の映画を見ているみたいでしたね。
―生活圏のなかで映画を作っていますから、暮らしと作品が地続きなのかもしれないですね。
僕らは、あらゆるものを無駄にするような社会をずっと見てきている。だから、捨てられるはずのものを作品にできるやり方に強く共感するんです。(ホンマ)
長谷川:キャリアのかなり早い時期にジョーは北海道のアーティスト・イン・レジデンスで滞在制作をしているんですが、そのときも建築的な素質に驚かされたのを覚えています。マルチスクリーンでインスタレーションを作るのは初めてだと言っていたんですが、かなり大胆に7つくらいのスクリーンを使っていた。しかもアマチュアの人が撮ったものとか、若い映画監督の映画を組み合わせてインスタレーションにしていました。
―自分以外の映像を使っていたんですか?
長谷川:今の彼からすると珍しいでしょう? 内容も素晴らしいものでした。まず、若い女性がビルの窓から静止して外をずっと眺めている映像がある。その後ろでは、強姦されそうになっている女性の映像が投影されているんですが、声だけが聞こえている。その映像は鑑賞者が移動しないと見えないようになっているんです。静的なシーンに、激しいサウンドが重なることで、次のストーリーへと上手に導いていく。しかもまったく違う風景を見せることで、私たちの意識をぐるっと転換させる。この人にはただならぬアーティストの才能があるので、映画監督にしておくには惜しい、と確信しました。
ホンマ:ここ10年ぐらい、アピチャッポンに限らずペドロ・コスタとかも普通に美術館で展示をやっていますよね。2010年の『あいちトリエンナーレ』でツァイ・ミンリャンが展示をしていたけれどやっぱりすごかった。映画監督がアートの枠で展示をやったら、普通のビデオアーティストは敵わない感がありますよね。
長谷川:映像のクオリティーや集中力が全然違いますからね。ビデオアーティストのなんちゃってな10分間と、ものすごく訓練されたフィルムディレクターが作る10分間というのは、ぜんぜん密度が違う。もちろんそれぞれのアーティストが独特な時間と空間の構築の感覚を持っているから一概に比較はできないけれど、ジョーはちょっと特別だと思います。ある種の映像美によってスペクタクルや政治の問題を強烈に印象づけるのではなく、SF的な感覚で別世界に連れていき、そしてまた現実に戻ってくるような往還性が彼の作品にはある。見る側の意識の緩急、シグナル、ノイズ的な部分で時間と空間をうまく構築していく手腕は見事です。コンセプチュアルな精度、インティマシー(親密さ)の精度を保ちながら、こちらに対して静かで強いメッセージを訴えかけてくる。
―同じ作り手として、ホンマさんからはアピチャッポン作品のどういった部分が気になりますか?
ホンマ:アートとしての美学以外のところかな。2009年の『横浜国際映像祭』で大きなインスタレーションを展示していたけれど、映画を撮るときに集めたロケハンやリサーチの映像で、また別の作品を作るのが新しいなと思いました。そういうのって普通はばっさり捨てるじゃないですか。例えば日本でCMとか撮っても、さんざんロケハンをしても使わない部分が膨大にある。でもアピチャッポンは、それが全部作品になるというか。その民主的な感じがいいと思うんです。
長谷川:無駄にしない。
ホンマ:わかりやすい「もったいない」って意味じゃないですよ。僕らは、あらゆるものを無駄にするような社会をずっと見てきているじゃないですか。だから、捨てられるはずのものを作品にできるやり方は、強く共感する部分です。プレス資料でアピチャッポンが「僕は現場で怒鳴るような人は嫌いなんです」って書いてましたよね。日本の撮影現場ではみんな怒鳴りまくっていますからね(笑)。アピチャッポンは、リラックスして作っているのが画面から伝わってくるんですよね。そこが本当にいい。
言葉にできないわからなさがもたらす快さってあるでしょう。「アピチャッポンの映像はタイマッサージ」ですよ。(長谷川)
長谷川:アラブ首長国連邦のシャルジャで展覧会を企画したとき、コミッションで一緒に若い移民労働者を主役にした作品を作ってくれました。その主人公のワーカーは、ジョーがたまたま仲よくなった男の子だったそうです。そのときも2週間くらい滞在して即、自然体で1本の映画を作りました。その若いワーカーは同僚と一緒にオープニングに来てくれたんだけど、みんなジョーの周りにわーっと集まって、それだけでもジョーがいかに丁寧にコミュニケーションしているかというのがよくわかる。初めて会う人の心も、自然とほぐしてしまうような魅力が彼にはあるんですよ。
ホンマ:ありますねー。
長谷川:シャルジャのワーカーたちは、自分たちを描いたその映像を、前衛的な映画や、インスタレーションとして見ているわけではなくて、日常の延長として自然に見ている様子でした。自分の魂が身体から離れて街をさまよい歩くという、夢のような内容を、素直に共有して見ることができる。そして盛んに議論するんですね。そこには、ハードルが高いと思われがちな、現代アートのビエンナーレに来ている感じなんて微塵もないわけです。
―そういう共有の感覚も、アピチャッポンが自然と作り出しているものなんですね。じゃあ、もちろん現場で怒鳴ったりすることもない?
長谷川:まったくないですね。「元気~? ごはん食べた~?」みたいな感じですよ(笑)。ジョーはとても観察力の優れた人だから、私や周囲の人が求めているものをさっと見抜いて、本当に心地よい場所を作ってくれました。
―アピチャッポンが愛される理由が徐々にわかってきました。つまり、建築的な構造の強さと、心地よい空気を作る柔軟さ。では、日本に限らず世界で支持される理由はなんでしょう?
ホンマ:僕らは好きだから好きだけど(笑)。ハリウッド映画ばっかり見ているような人にとっては「これ何?」って感じかもしれないですよね。
長谷川:欧米圏の状況も変わってきて、これまで個人主体中心に考えてきた人が「関係性」の重要さに気づいたということだと思います。もちろん西洋人も感性は大事にしていますが、外部からやって来た未知のカルチャーを、自分たちの言語・文脈に翻訳して理解しようという価値観がとてつもなく強固なんですよ。それで、アピチャッポンが世界的に認められるまで10年もかかってしまった。
ホンマ:このインタビュー自体も、言語化しよう、言葉にしようとやたら頑張ってるよね(笑)。でも僕らはアピチャッポンの世界観が無意識レベルでわかるじゃない。輪廻転生とか、死生観とかさ。
長谷川:言語化できないわからなさがもたらす快さってあるでしょう。永遠にわからないし解読できないけど、手触りはある。しかもそれが、邪悪な意思ではなく、正しい意思から出されている。それは快いものですよ。例えばジョーの映画内の光の描写って、昼の光でも夜の光でも、とても美しいですよね。私たちの心に刺激を与えてくる光と音というのが、彼の映画のベースになっている。一つひとつの台詞やアクションに意味を読み取る必要はなくて、そこに込められたメッセージに、気づいても気づかなくてもなんだか気持ちいい。それがイメージの触感なんですね。ジョーがしばしば「触感」というのはそういうことだと思います。
―映像に触れる喜び、ですね。
長谷川:そういう言い方だって、もはや難しいかもしれない。そうですねえ……。うん、「アピチャッポンの映像はタイマッサージ」くらいでいい(笑)。どうしてジョーの作品が快いかと言えば、人が喋ったり、寝たり食べたりしている日常の風景以外の何も映らないからですよ。ハリウッド映画のように、やたら建物が壊れたり、人が空中回転したりしないじゃないですか。だから私たちは安心してずっとジョーと一緒にそこにいられて、快い。心というのはそういうもの。新しい言語を使う人の言っていることは、そんなに簡単に解読はできないけど、私たちはそれに寄り添って、言葉を交わすことができる。それが新しい言語ですよ。
- 作品情報
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- 『光りの墓』
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2016年3月26日(土)からシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:
ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー
バンロップ・ロームノーイ
ジャリンパッタラー・ルアンラム
配給:ムヴィオラ
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- 『光りの墓』×CINRA.NET 特別割引クーポン
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スマートフォンにて、下記URL先のクーポン画面を劇場窓口にてご掲示の方は、当日一般料金より200円引きします。
問い合わせ先:シアター・イメージフォーラム(03-5766-1119)
- プロフィール
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- 長谷川祐子 (はせがわ ゆうこ)
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京都大学法学部卒業、東京芸術大学大学院修了。水戸芸術館現代芸術ギャラリー、ニューヨーク・ホイットニー美術館研修、世田谷美術館、金沢21世紀美術館で活動。『マシュー・バーニー展』(2005年)などを手掛ける。2006年、多摩美術大学美術学部芸術学科教授、および同芸術人類学研究所所員に就任。同年より東京都現代美術館チーフキュレーターを務める。『イスタンブール・ビエンナーレ』(2001年)、『シャルジャ・ビエンナーレ』(2013年)などの海外展を企画。東京都現代美術館では『うさぎスマッシュ展 世界に触れる方法』(2013年)、『ガブリエル・オロスコ展』(2015年)などを企画。近著に『「なぜ?」から始める現代アート』(NHK出版新書)、『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』(集英社)など。
- ホンマタカシ
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写真家。1962年東京都生まれ。1999年 『東京郊外』(光琳社出版)で第24回木村伊兵衛写真賞受賞。著書に『たのしい写真 よい子のための写真教室』(平凡社)など。2016年4月イギリスの出版社「MACK」より、カメラオブスキュラシリーズの作品集『THE NARCISSISTIC CITY』を刊行予定。
- アピチャッポン・ウィーラセタクン
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映画作家・美術作家。1970年、バンコク生まれ。タイ東北部のコーンケンで育つ。両親はともに医者で、少年時代は病院が遊び場だった。幼少時からアートや映画に興味を持ち、映画館に通いだす。地元のコーンケン大学で建築を学んだ後、24歳の時にシカゴ美術館附属シカゴ美術学校(School of the Art Institute of Chicago)に留学、映画の修士課程を終了。1999年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で短編映画『第三世界』が上映され、国際的な注目を集める。同年、映画制作会社“キック・ザ・マシーン”を設立。2000年に完成させた初長編『真昼の不思議な物体』以来、すべての映画が高く評価される。2015年には新作『光りの墓』がカンヌ国際映画祭ある視点部門で上映され、大きな称賛を得た。
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