今年の2月26日に60歳の誕生日を迎えたサザンオールスターズの桑田佳祐。その還暦祝いのメッセージとして、各界の著名人に話をうかがう特別企画。1回目の立川志の輔に続いて、今回ご登場願ったのは、放送作家にして、映画『おくりびと』の脚本家や「くまモン」の生みの親、そして『考えないヒント』『いのちのかぞえかた』をはじめとする数々の著作でも知られる小山薫堂。
桑田佳祐よりも9歳年下の小山薫堂にとって、その世代の多くの若者がそうであったように、大学生時代からサザンオールスターズ、そして桑田佳祐はあまりにも特別な存在だった。その後、テレビの世界を足がかりに数々の分野で活躍してきた小山は、時代が変化していく中で桑田佳祐の活動をどのような思いで見つめてきたのか? そこには、音楽の世界とはまったく別のフィールドで、しかし同じく大衆に向けて表現を続けてきたクリエイターにしか見えないものがあるのではないか? そんな思いからオファーをさせていただいた今回の取材は、桑田佳祐と小山の(今のところ)人生1回きりの意外な接点の話から始まった。
おそらくは照れからくるんでしょうけど、(桑田さんは)本当はもっとカッコよくできるのに、笑いに振っていって、そのカッコよさをごまかす。そこがカッコいいんですよね。
―小山さんはサザンオールスターズの大ファンであることを公言されていますが、これまでお仕事で桑田さんに関わったことはないですよね?
小山:それが1回だけあるんですよ(笑)。まだ僕は大学の4年生だったんですが、既に放送作家の仕事をしていて。日テレの特番で『メリー・クリスマス・ショー』(1986年と1987年に放送された音楽番組で、桑田佳祐が主導した)という番組があったのをご存知ですか?
―おお、あの伝説の!
小山:あの番組に構成作家の一人として参加していたんですよ。多分、桑田さんは覚えていらっしゃらないと思いますけど、まだアミューズが代官山に小さなオフィスを構えていた頃、そこの会議室でお会いしたのが初めてでしたね。今のテレビ界では考えられないほど時間もお金も贅沢にかけた番組で、いろいろと大変だったことを覚えています(笑)。
―大学生で桑田佳祐と仕事の現場でお会いするって、すごいことですね。
小山:ちょうどその頃、東京の大学生たちが主人公の『ふぞろいの林檎たち』(最初のシリーズは1983年放送、次のシリーズが1985年放送)で大々的にサザンの音楽が使われていて。
―小山さんはまさに、そこで描かれていた世代とドンピシャだったわけですね。
小山:そうなんですよ。だから夢中になって見てて。で、『ふぞろいの林檎たち』をやっていた大山勝美さんという演出家が、自分が通っていた大学で講師をされていたんですよ。その授業も真っ先に履修しました。
―大学では放送学科(日大藝術学部)を専攻されていたんですよね。
小山:そうです。まさに『ふぞろいの林檎たち』に影響されて、当時民生機として出たばかりのベータムービー(ソニー製のビデオカメラ)で大学時代の仲間との生活をビデオに撮って、それを編集する時には当然のようにサザンの曲をつけてましたね(笑)。
―当時のビデオカメラとかビデオデッキとかって、めちゃくちゃ高くなかったですか?
小山:ウチの親父がソニーマニアで、ソニーの新商品だったら買ってもらえたんですよ。ウォークマンも誰よりも早く買ってもらって。
―いいご家庭ですね(笑)。
小山:でも、ビデオデッキ1台だと編集はできないので、当時付き合っていた女の子をうまく言いくるめて、同じビデオデッキをもう1台買わせて(笑)。その子の両親がいない間をぬって、ウチにあるビデオデッキをその子の家に持っていって、そこで2台並べてビデオの編集をしてましたね。
―そして、そこではずっとサザンの音楽が流れていた。
小山:本当に、青春時代にはずっとサザンがBGMのように流れていた感じでしたね。
―その後、小山さんはテレビの放送作家の仕事をはじめとして、様々な分野で活躍されていくわけですが。これまで仕事をしてきた上で、サザンの音楽、桑田さんの音楽から受けた影響のようなものがあるとしたら、それはどんなものなのでしょうか?
小山:影響かどうかはわかりませんけど、桑田さんの作品の作り方をずっと見ながら、いつも「カッコいいなぁ」と思ってきましたね。自分はどちらかというとベタなものをやってきたんですけど、桑田さんの表現にはいつもちょっとズラシがあって。おそらくは照れからくるんでしょうけど、やんちゃ坊主的なところがあるじゃないですか。本当はもっとカッコよくできるのに、笑いに振っていって、そのカッコよさをごまかす。そこがカッコいいんですよね。常に人々と同じ目線に立って、同じものを見つめている感じ。普通、あれほど売れているミュージシャンだと、雲の上のような存在になっていって、どんどん近寄りがたくなっていくじゃないですか。でも、桑田さんはそういうところを感じさせないんですよね。
―わかります。
小山:一言で言うと、胡座をかいていないんですよね。過去にすがったようなところがまったくないし、「俺のメッセージを聞いてくれ」みたいなところもまったくない。もちろん、カリスマはカリスマであるんだけど、僕らの上に君臨しているカリスマじゃなくて、横からヒュッと飛んでくるカリスマというか。
還暦から老人の世界に踏み出すみたいなところがあるじゃないですか。桑田さんなら、そのイメージを完全に覆してくれるんじゃないかなって期待してしまいますね。
―小山さんは桑田さんの9歳年下ですが、ちょっと上の世代に、あれだけ巨大な才能がいるというのはどういう感覚だったんでしょう?
小山:そこはもう、大学生の頃に憧れていた気持ちのままずっと変わらないですね。9歳年上とかも意識したことがなくて。だから、今回桑田さんが還暦を迎えると聞いた時も、むしろ「えっ! まだそんなに若かったの?」って感じ。
―あぁ(笑)。
小山:僕にとって桑田さんはあまりにも偉大な存在で、永遠に手が届かない、20歳くらい年上のイメージなんですよ(笑)。だから、還暦になられると聞いて改めて思うのは、「じゃあ、あの時はあんなに若かったんだ」という驚きですね。
―小山さんにとってはまだ9年後なわけですが、今考える自身の60歳のイメージというのはどういうものですか?
小山:普通の人間にとって、60歳までは蓄えのことも考えながら生きていかなきゃいけないのかなって思うんですよ。
―それは経済面のことですか?
小山:経済面もそうだし、それ以外の人との付き合いにおいてもそう。でも、60歳からは、もう蓄えのことは気にしないで、自分の人生を最終的にどう楽しみながら幕を閉じていくかっていう段階に入っていくと思うんです。だから、自分の目標としては、60歳以降になってこれまでで一番脂がのってくるような人生にしたいなって。だから、それまでにいろいろ準備しなきゃって、もう焦ってますね(笑)。ただ、桑田さんくらいの人になると、そんなことまったく考えてなさそうですね。
―というと?
小山:アニバーサリーみたいなものに関心がなさそう。
―このインタビューはまさにアニバーサリー企画なんですけど(笑)、もちろんご本人の発案ではありません。
小山:(笑)。
―でも、桑田さんが60歳になると聞いて改めて思うのは、これまで我々が考えていた60歳という概念とは、あまりにもかけ離れているなってことで。
小山:だから、人生の先輩として、還暦のイメージを変えていってほしいですね。なんとなくこれまでだと、還暦から老人の世界に踏み出すみたいなところがあるじゃないですか。桑田さんなら、そのイメージを完全に覆してくれるんじゃないかなって期待してしまいますね。昨年もサザンのライブに行ったんですけど、あの歳で、あれだけパワフルなステージを、あれだけ長い時間やれること。何よりもまず、その体力に驚かされましたね。そして、やる曲、やる曲、どの曲もみんなが知っている曲という。これだけ多くの「誰もが知っている曲」を作ってきたということに、もちろんわかってはいるんですけど、ライブを見る度に圧倒されてしまいますね。
アーティストって自分のことが大好きな方が多いじゃないですか。でも、桑田さんはきっと自分よりも他人のことの方が好きなんじゃないかな。
―活動のフィールドは違えど、小山さんも大衆というものを常に念頭に置いてものを作ってきた方だと思うんですけど。
小山:いや、僕は、多くの人をどうやって喜ばせるかってことを考えるのが苦手なんですよ。特定の人に向けてものを作っているという意識が強くて、その中から、結果として多くの人にも共感を覚えてもらえるものができることがあるという感じです。だから、桑田さんのように、常に大衆に向かって表現をしている方の、そのエネルギーの質量は想像を絶するものがありますね。
―その「特定の人に向けてものを作っている意識」というのは、どこから生まれたんですか?
小山:きっと、ずっとテレビの世界で仕事をしてきたからだと思います。テレビって、やっぱり視聴率が大切で。個人の意見とかは関係なく、視聴率が高ければ高いほど褒めてもらえる世界なわけです。そういう場所で仕事をやっているうちに、「なんのために自分は仕事をやっているんだろう?」って虚しくなってしまった時期があって。音楽やお芝居の世界だと、自分がやったことに対して直に反響が得られますけど、テレビの世界ではどんなに手応えのある番組を作っても、返ってくるのは数字だけなんですよね。
―『カノッサの屈辱』など、小山さんが初期にやられていた深夜番組になると、なおさら数字では実感が得難いですよね。
小山:今だったらまだSNSがあるから、視聴者の声みたいなものをリアルタイムで知ることもできますけど、僕がテレビを中心にやっていた当時は本当に視聴率しか反響を知る術がなかった。そういう世界にずっといたせいで、もっとリアルにフィードバックを得られるものを作りたいと思うようになっていったんですよね。誰か1人を共感させることができるものだけが、場合によっては100万人を共感させることできると思うんですよ。だから、誰かのためにものを作るという姿勢は大切にしてますね。
―音楽の世界でも、だんだんと目に見えない大衆じゃなくて、自分たちのファンに向けて表現をしていくミュージシャンが増えているように思います。でも、そんな中にあって、桑田さんのすごいところは、常に目に見えない大衆に向き合おうとしているところだと思うんですよ。
小山:あぁ。ただ、これは僕の想像ですけど、今、いろんな世界でキーマンとなっている人の中に、桑田さんのファンがすごく多いと思うんですよね。そして、結果的にそのキーマンたちが、桑田さんやサザンの曲を日本中に広げていく上でも大きな役割を果たしている。大衆に向かって表現をしていて、その大衆から愛されているのは前提として、桑田さんとほぼ同じ時代をずっと歩いてきた人たち、あるいは自分も含めてちょっと下の世代でずっと桑田さんに憧れてきた人たち、そういう人たちに愛され続けているというのもすごく大きい気がしますね。で、そうであり続けている理由の一つには、音楽はもちろんですが、桑田さんの持つ人間的な磁力というものがあるような気がします。
―その磁力の及んでいるのは、桑田さんと直接の交流を持っている方だけでなく、小山さんのように人生において一度しかすれ違ったことのないような人、あるいは一度もすれ違ったことのない人にとっても、ということですね。
小山:そうです。僕も会ったことがないに等しいんですけど、すごくいい人に違いないと思ってますから(笑)。自己の利益を追求していない方のような気がするし、自分に酔っているようなところがまったくない方のような気がします。アーティストって自分のことが大好きな方が多いじゃないですか。でも、桑田さんはきっと自分よりも他人のことの方が好きなんじゃないかな。自分自身も、そうでありたいといつも思っています。
- プロフィール
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- 小山薫堂 (こやま くんどう)
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1964年、熊本県天草市生まれ。放送作家。脚本家。N35inc / (株)オレンジ・アンド・パートナーズ代表。東北芸術工科大学デザイン工学部企画構想学科長。日本大学藝術学部放送学科在籍中に放送作家としての活動を開始。「11PM」にてデビュー。その後「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「東京ワンダーホテル」「ニューデザインパラダイス」など斬新な番組を数多く企画。「料理の鉄人」(1995年)「トリセツ」(2003年)は国際エミー賞に入賞した。2008年公開された「おくりびと」で初めての映画脚本に携わり、第60回読売文学賞戯曲・シナリオ部門賞、第32回日本アカデミー賞最優秀脚本賞、第81回米アカデミー賞外国語部門賞獲得。現在テレビでは、「ZIP!」(日本テレビ)や「小山薫堂 東京会議」(BSフジ)などに携わり、テレビや映画以外でも、ライフスタイル誌のエッセイ連載、小説、絵本翻訳、作詞など、幅広い執筆活動を展開。
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