桑田佳祐の還暦を祝うべく、各界の著名人に「桑田佳祐」について語っていただく特別企画。その第8弾として登場するのは、直接は仕事で関わる機会こそなかったものの、音楽業界の内側で、デビュー前からずっとサザンの姿を見続けてきたという、音楽プロデューサー / 文筆家の佐藤剛。
甲斐バンドのマネージャーを務めたのち、ファイブ・ディー代表として、THE BOOM、中村一義、ハナレグミなどのプロデュースを行い、現在は著述業も精力的に行っている佐藤は、同時代のトップランナーである桑田佳祐をどのように捉えているのだろうか。日本のポップス史を俯瞰しながら、桑田=サザンの独自性について、大いに語ってもらった。
桑田さんの歌い方は歌唱法の発明だったし、ソングライティングの発明でもあったんです。
―佐藤さんは、いつ頃、どんなふうにサザンオールスターズを知ったのでしょう?
佐藤:僕は桑田さんの4つ年上になるのですが、おそらく普通の人よりもかなり早くからのサザンファンだと思います。というのも、デビューシングル『勝手にシンドバッド』(1978年)のテスト盤ができたときに聴かせてもらって、「面白い! この人たちが出てきたことできっと世の中が変わるぞ!」と一気に興味を持ったんです。それですぐ、甲斐バンドの日比谷野外音楽堂のコンサートで、オープニングアクトに出てもらいました。
―最初期から、音楽業界の内側でサザンを見ていたわけですね。
佐藤:ええ、まあしかしファンとはいっても、違う事務所の新人だったから特に何かをしたっていうわけではないんです。とにかく面白い人が出てきたっていうふうに思っていて。それで翌年“いとしのエリー”を聴いたときに、「ああ、これはもう大丈夫だ。シンガーとしてもソングライターとしても必ず残る」と思いました。
―というと?
佐藤:あの歌い方は歌唱法の発明だったし、ソングライティングの発明でもあったんですね。英語風の発音で日本語を歌う人は当時からいたけど、意味を持った日本語のようであり、英語だけでなくいろんな国の言語が混じり合っているようで、しかもそれが発声される肉体の声として、ちゃんと人の心に、意味ではなく思いが届くものになっている。それを発明したのが、桑田さんなんです。
桑田さんは日本語を崩したのではなく、新しい日本語の表現を提示してみせた。そこに僕はビックリしたんです。しかも“勝手にシンドバッド”みたいに破天荒な曲の一方では、“いとしのエリー”のようなスタンダードになりうる歌も作れるという。その圧倒的な天才ぶりは、ホントお見事っていう感じでした。
―最初から才能が際立っていたんですね。
佐藤:そう。僕もずっと長いことバンドをプロデュースしていたからわかるんですけど、桑田さんって常に挑戦している人なんですよ。その挑戦を、陰ながら応援しつつ、感心して見ていたんですけど、1994年でしたか、お母さまが亡くなった頃に、それまでとは違うタッチのものがいろいろ出てくるようになっていった。その極めつけが、『孤独の太陽』(1994年)という桑田さんのソロアルバムです。そこでまたかなりビックリして、また違う興味で気になるようになったところがあります。
―何がそれまでと違ったのでしょう?
佐藤:サザンというのは、ビクターを支える看板バンドになっていったわけですよね。だから、自分のためだけじゃなくて、どこかみんなのために頑張っていたところがあったと思うんです。だけど、『孤独の太陽』のときに、初めて自分と誰かのためだけっていう、グッと狭いところでやったように思えた。
その頃からじゃないかな、桑田さんが自分のルーツみたいなところに戻ってきて、“ヨイトマケの唄”を歌ったり、歌謡曲の匂いをさせるようになったのは。当時のインタビューでも、自分の本質からどうしても滲み出てしまうものとして、歌謡曲があったとおっしゃっていたと思います。
―ロックではなく、歌謡曲だったんですね。
佐藤:そうです。若い頃に桑田さんが憧れていたエリック・クラプトン、日本だったら細野晴臣さんとかはっぴいえんど、そういうものを全部通り過ぎて、さらにその前からあった歌謡曲的なものに近づいていった。そこで完全に一皮むけて表現者として不動のものになった……という言い方は偉そうで申し訳ないんですけど(笑)、僕はそのことに、何よりも驚いたんですよね。
日本の音楽シーンは、いつも9の年に変わっていったんです。
―実際、1996年の『Act Against AIDS』(立ち上げ当初から、桑田が積極的に関わっているエイズ啓発運動イベント)で、『夷撫悶汰レイト・ショー』(イブ・モンタン=フランスで活躍したシャンソン歌手に、桑田が扮してスタンダードジャズを演奏)と称するライブをやるなど、自らのルーツを掘り下げるような試みを、定期的にやるようになりました。
佐藤:そうですね。そこから今に至るまで、ちゃんと一直線に繋がっていると思うんですよね。それまで桑田さんの音楽のルーツは、The Beatlesとかクラプトンって言われていたんだけど、実はまだ桑田さんが物心ついていないとき、知らず知らずのうちに聴いていたポップスや歌謡曲が、実は栄養となり血や肉となっていたことに、桑田さん自身が気づいたのかもしれません。
―デビューから考えると、約20年後のことですね。
佐藤:その辺りから、もう一度自分のルーツを見極めて、これから自分が何を作るべきなのか、今できることをちゃんとやろうと思ったんじゃないですかね。そうすることで、日本の音楽の発展に関して、自分ができることをやり始めた。それが遠くから見ていてわかったので、さらに興味を持ち始めたんです。この人は、やっぱりすごいなと。
―現在、佐藤さんがやられている歌謡曲研究とも、ちょっとシンクロする話ですよね。
佐藤:そうですね。僕の場合は、僕たちは何を聴いて、どうして今ここにいるのかということを知りたくて。音楽の現場にいると、世間で言われていることと事実が、微妙に違うことがわかるので、それを解明してみようと。そこから音楽プロデュースの仕事を半分以下に減らして、ノンフィクション作家を目指して原稿を書き始めました。
それでまず真っ先に、“上を向いて歩こう”という曲が、なぜアメリカで63年に1位になったのか、その時代に世界では同時に何が起こっていたのかというのを調べて、『上を向いて歩こう 奇跡の歌をめぐるノンフィクション』(2011年 / 岩波書店、小学館文庫)という本を書いたんです。そして今は、どういうふうに洋楽やThe Beatlesが日本に入ってきて、どう定着して、The Beatlesのフォロワーがどのように増えていって、それが日本の音楽をどう変えたのかっていうことを書いているところです。
―非常に興味深いです。
佐藤:それは結局、50年代の終わりから70年頃までに、日本の音楽シーンで何が起こっていたのかを解明する作業なんです。そこでひとつ発見したことがあって。日本の音楽シーンって、10年ごとに転機が訪れているんですよ。
59年に『第一回レコード大賞』があって、ジャズピアニストの中村八大が作曲とプロデュースを手がけた“黒い花びら”(水原弘のデビュー曲)が大賞を獲って、歌謡曲の世界が一気に変わっていった。永六輔が作詞しましたが、当時は「あんなものは歌詞じゃない」と言われた。そして69年には、次の時代のソングライターが一斉にメインストリームで活躍し始めました。はっぴいえんどとアンドレ・カンドレ=井上陽水が出てくる。つまり70年代にニューミュージックを作る人が、69年から70年くらいに一斉に出ているんです。彼らはそれまでのポップスのスタイルを否定して、日本語の使い方も変えていった。そして、79年にはYMOが注目を集めて、サザンが“いとしのエリー”を出すわけです。
佐藤:“勝手にシンドバッド”でデビューしたときは、世間的にはキワモノのように思われていたけど、次の年に“いとしのエリー”が出て、この人たちは正統派ポップスの王道を行けることがわかった。そういう意味で、過去のポップスを否定してきた70年代前半とは全然違うんです。さらに、89年はバンドブームがやってきて、そこでまたガラッと音楽シーンが変わる。だから日本の音楽シーンは、いつも9の年に変わっていったんです。
『偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~』、これもすごかった。僕が考えている日本のスタンダードソングが、きれいに並んでいましたから。
―なるほど。それを言ったら、宇多田ヒカルがファーストアルバムをリリースしたのも、99年でした。
佐藤:そう、宇多田ヒカルや椎名林檎が出てきたのは、98年ですよね。で、翌年にアルバムを出して、音楽の歴史に名を残す存在になる。9の年という話で重要なのは、桑田さんが、日本の音楽史がガラッと変わった59年の音楽をリアルタイムで聴いていることなんです。当時3、4歳だと思いますが。
―69年の変革のみならず、59年の変革も体感していると。そしてそれが、実は桑田さんの血肉に変わっているわけですね。
佐藤:66年にThe Beatlesが来日した頃、つまりThe Beatlesがポップスのアイドルからロックアーティストに変わったときくらいから、おそらく桑田さんは意識的にレコードを聴くようになって、影響を受けたわけじゃないですか。でも、実はその前の、幼稚園から小学校の頃に聴いていたものが背骨になっているという。
―桑田さんの4歳上である佐藤さんも、その頃から徐々に、音楽プロデューサーから歌謡曲研究へとシフトしていったわけですよね。
佐藤:期せずして、そうなりましたね(笑)。だから、桑田さんにはすごく影響を受けていますよね。
僕は僕として、日本の良い音楽はちゃんと残していきたいし……良い音楽っていうのは、必ずしも売れたものではないんですよ。というか、そこまで売れていないのに生き残っているもののほうが、はるかに生命力があるというのは歴史が証明しています。21世紀に入ってからカバーされている歌の大半は、リリース当時は大ヒットしていなかったものも多いので。カバーした人によって、発見されているんです。
そういう意味でも、日本の歌謡曲って、まだまだ発見される余地があると思うんですけど、08年の『Act Against AIDS』で桑田さんがやった『ひとり紅白歌合戦』の選曲なんて、僕が良いと思っている楽曲とほぼ全部、一致していたんです。そして今年になって放送された『偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~』、これもすごかった。僕が考えている日本のスタンダードソングが、きれいに並んでいましたから。一般的に良いとされている曲ばかりでなく、渥美清の“男はつらいよ”や、高倉健の“唐獅子牡丹”まで一緒なんで驚きました(笑)。まさにそれらが僕たちを支えている歌で、ルーツなんです。
―なるほど。
佐藤:だからやっぱり、この人は、自分と同じ時代を過ごしてきた人なんだなっていうのは、すごく感じますよね。現役の音楽家として、休むことなく活動し続けながら、今これをやっているという。それは僕にとって、非常に尊敬に値することなんです。
―お二人とも、日本の音楽の大切な歴史を、伝えようとしていらっしゃるわけですね。
佐藤:そうですね。僕が裏方の人間にしかわからない、音楽史の事実などをコツコツと記録しようと思ったときに、桑田さんが表に立って、人に見える形で、自分の身体と才能を使ってそれをアピールしてくれている。だから言ってみれば、僕にとって桑田さんは、羅針盤みたいなものなんです。すごく励みになっているんですよね。
“ヨシ子さん”という曲は、50年分の音楽が入っている。楽器もメロディーも言葉も、中近東から出発して、日本を経由しながら北米に行って、南米で終わる5分間の曲。
―そんな佐藤さんは、桑田さんが今年リリースした“ヨシ子さん”という曲を、どんなふうに聴かれたのでしょう?
佐藤:これは別の場所にも書いたことですが、あの歌は、僕の子どもの頃の体験が、そのまま歌になっているようなところがあって。つまり、『ローハイド』(1959年から1965年にかけて米CBSで制作・放送された西部劇ドラマで、日本でも放送された)や、同じ時期の“チャンチキおけさ”(1957年に発売された三波春夫のシングル)が、“ヨシ子さん”の中にある。要は、フランキー・レイン(『ローハイド』の主題歌を担当)と三波春夫がひとつになっているんですよ(笑)。
佐藤:あと“ヨシ子さん”には、シタールの音が入っていますが、シタールを使ったヒット曲といえば、66年、The Rolling Stonesの“Paint It Black”(邦題“黒くぬれ!”)なんですよね。で、その次に出した“Have You Seen Your Mother, Baby, Standing In The Shadow”(邦題“マザー・イン・ザ・シャドウ”)のAメロが、“ヨシ子さん”のCメロに通ずるところがある。
―そうなんですね。
佐藤:ひょっとしたら桑田さん自身も気づいてないかもしれないけど、なんでこれが出てきたんだろうって考えると、“Paint It Black”の次にサイケデリックの曲だったから、強烈な印象だった。きっとその時代に聴いていたと思います。あと、一番わかりやすいのは、“コンドルは飛んでいく”ですよね。“ヨシ子さん”という曲は、そうやって50年分の音楽が、いろんなところに入っているわけです。楽器もメロディーも言葉も、中近東から出発して、日本を経由しながら北米に行って、南米で終わる5分間の曲になっていて、こんなに面白い音楽はないですよね。
―今度リリースされる新曲“君への手紙”については、どうでしょう? “勝手にシンドバッド”と“いとしのエリー”ではないですが、こちらは“ヨシ子さん”に比べて、かなりスタンダード寄りの曲になったように思うのですが。
佐藤:様々な経験を経て、屈託なく本当のことを普通に日常の言葉で言えることのすごさがある曲ですよね。桑田さんって、言葉の意味の人じゃなくて、言葉が持っている訴えかける力の人だと思うんです。
たとえば、この<夢追って調子こいて>という歌詞。「調子こく」って、完全に日常会話の言葉じゃないですか。そうやって、今年60歳の人が、日常言葉で心情を歌っていることのすごさというかね。今はもう、そういうところにきている。
だからこの“君への手紙”は、“ヨシ子さん”のちょうど裏返しみたいなもので、ほとんど気持ちだけでスッと書いた、一筆書きのような曲というか……そういう良さってありますよね。桑田さんの飾らない感じが、そのまま曲に出たというか。そういうふうに感じましたね。
―なるほど。
佐藤:あと、それは桑田さんが今やっていることにも繋がっていると思うんですけど、桑田さんは、多分自分に飽きていないんですよ。自分に飽きると、人は違う方向を見たりしがちだけど、桑田さんはずっと自分の中にあるものだけを見ている。
以前は、若さもあるし、表現したいこともあるし、成功もしたいし仲間もいたから、いろんなものがいっぺんに出ていたけど、今はそういうものに整理がついて、自分の中にある音楽だけを真摯に見ているような気がするんです。
―色々な物事に惑わされない?
佐藤:そう思います。普通の人は、必要以上に自分を大きく見せようとしたり、いわゆる洋楽コンプレックスがあったりするんだけど、桑田さんの場合は、洋楽も邦楽も……物心つく前の自分の中にあった歌謡曲もすべて、全部フラットに扱えるんですよね。そこにヒエラルキーをつけたりせず、全部自分の血となり肉となっているという。
―確かに、そんな気はします。でもなぜ桑田さんは、そういったスタンスを獲得できたのでしょう?
佐藤:時代や環境が生んだものなんでしょうかね……そう、僕が印象に残っているのは、桑田さんが子どもの頃、お父さんと一緒にお風呂に入ると、お父さんがいろんな曲を歌うんだけど、それがどんどん替え歌になっていくというエピソードで。
そうやって、替え歌の楽しさを覚えたときに、子どもの桑田さんはソングライティングを覚えたわけですよね。こういうメロディーに、こういう言葉をのっけたら面白いねっていう。それを小さい頃から、お父さんに習っていたわけです。
そしてお姉さんには、「こういう音楽がかっこいいんだ」っていうのを、物心つかないうちから、The Beatlesで叩き込まれた。そこまで徹底的に音楽に育てられる環境って、普通ないんですよ(笑)。あと、そうした環境の中には歌謡曲も、ジャズもダンスミュージックも全部あるんだけど、クラシックだけがない。そこが僕からしたら、拍手ものなんですよ。
―というと?
佐藤:クラシックが入ると、どうしてもクラシックのほうが高級で立派なものだっていうコンプレックスを持ってしまう人が多いと思います。だけど桑田さんの場合、そこがあんまりないから、すべての音楽に対して平等でいられる。どこの国の言葉であろうが、どんなリズムであろうが、音楽に対してとにかく正直なんですよ。それはクラシックに対してもです。
だから桑田さんは、今年デビューした誰それの歌がいいとか、今の時代の音楽に対しても心が開けるわけです。世間的に評価されると、みんな偉くなったふりをしたがるし、あるいはさせられちゃう。だけど、桑田さんの場合は、それがまったくない。むしろ、「俺は大したもんじゃない」って言いながら、それでも大したものだっていうところを見せていく。そうやって常に、100に対して120くらいを目指してやっているところが、本当にすごいと思うんです。
―では最後、今年還暦を迎えられた桑田さんに、何かひと言メッセージを。
佐藤:いやいや、僕にとっては羅針盤みたいな人なので、このまま行ってくださいって、それだけですよね(笑)。遠くから桑田さんの存在を感じられれば、それで僕は十分だから。僕は裏でアーティストを支えている側の人間だけど、桑田さんと同じようなことを感じたり体験したりしているんだなって、すごく共鳴しているし……だから、心強いんですよね。
ある時代のある音楽について楽しく話せる人はいっぱいいますけど、ありとあらゆるものについて感じ合える人は、そういないですから。しかも、それを音楽シーンのど真ん中でやっているっていう。もう、国宝だと思います(笑)。
- イベント情報
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- 『〈文春トークライブ 第12回〉浜田真理子「昭和」をうたう。』
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2016年12月20日(火)
会場:東京都 四ツ谷 紀尾井ホール
出演:
浜田真理子
佐藤剛(MC)
料金:5,400円
- プロフィール
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- 佐藤剛 (さとう ごう)
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1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。シンコーミュージックを経て、プロデューサーとして独立。THE BOOM、宮沢和史、ヒートウェイヴ、中村一義、スーパーバタードッグ、ハナレグミ、由紀さおり、数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。日本の歌謡曲と音楽史を研究。著書にノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『「黄昏のビギン」の物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(共著・徳間書店)など。
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