テレビアニメ『魔法使いの嫁』のエンディングテーマ“環-cycle-”にてメジャーデビューを果たす、糸奇はな。動画サイトへの投稿をきっかけに創作活動をスタートさせ、イラスト、漫画、刺繍、版画など、多岐にわたる表現方法で自らの世界を構築してきた彼女にとって、メジャーという大舞台への挑戦、さらに「アニメ作品」という大きなプロジェクトへの参加は、きっとひとつの転機になることだろう。
CINRA.NETでは今年の3月以来、2度目の単独インタビューを行った。前回に引き続き、筆者がインタビュアーを担当させてもらったのだが、筆者のなかでは、「糸奇はなに話を訊く」ということはかなり特別な体験である――という実感が、日に日に強まっている。なぜなら、彼女ほど、「人に何かを伝える」ということに対して、剥き出しに、そして真摯に向き合っている人は、そういないからだ。それは表現活動においても、インタビューにおいても然り。ときに世界に垂直に突き刺すように、ときには世界に対立しながら、彼女は借り物の言葉ではなく、自分自身のなかから生まれる言葉だけを、丁寧に紡ぐ。どうか、その言葉に、その音楽に、あなたも触れてほしいと願う。
何か欠けているものがあって、それをどうしていくか? というところに「物語」はあると思うんです。
―今回、エンディングテーマを担当されたアニメ『魔法使いの嫁』の物語に対して、糸奇さん自身、シンパシーを感じる部分はありましたか?
糸奇:ありました。『魔法使いの嫁』は、普通の人と違うことに苦しむ主人公のチセと、そんなチセを受け入れる異形の魔法使いのエリアスの物語なんです。そのエリアスも、最初は大きな包容力を見せるんですけど、実は彼自身、他の魔法使いには「人間にも化け物にもなれない半端もの」として扱われていたりしていて……どこか欠落している二人の話なんですよね。すごく繊細な物語だなと思って、そこにシンパシーを感じました。
アニメ『魔法使いの嫁』メインビジュアル / ©2017ヤマザキコレ/マッグガーデン・魔法使いの嫁製作委員会
―糸奇さんは、欠落があるものに惹かれますか?
糸奇:そうですね。人間でも何でも、この世に完璧なものは存在しないですよね。何か欠けているものがあって、それをどうしていくか? というところに「物語」はあると思うんです。
何かが「できない」という出発点があって、その「できない」ができるようになればいいのか? とか、それが「できない」ままでは許されない環境から逃げればいいのか? とか、あるいは「じゃあ、それは俺がやるよ」って言ってくれる仲間ができる場合もあるだろうし……いろんな選択肢が生まれるので。
―確かに、「欠落」には「物語」がありますね。
糸奇:私も、自分自身の欠落や欠陥は嘆かわしいものだと思いますけど……それが第三者の目に触れたりすることではじまる物語を考えると、その「欠落」は何かのきっかけになるものなんだと思います。
―実際の放送で、ご自身の歌がテレビから流れる様子はご覧になりましたか?
糸奇:はい。「あぁ、自分の声なんだなぁ」って感慨深い気持ちになりましたし、エンドロールのクレジットで自分の名前が出てきたとき、自分がアニメを構成する一部になれたようで、嬉しかったです。アニメが一枚の絵だとしたら、そのなかの絵の具のひとつになれたような……そんな感覚になりました。
―これまで、糸奇さんはご自身の世界を様々な方法で表現してきましたが、あくまでも「ひとりの力で全ての世界を創造する」という側面が強かったと思うんです。今回のように作詞も作曲も他者が行っている楽曲で、しかも、アニメという巨大な作品の一部になることには、全く抵抗はなかったですか?
糸奇:むしろ嬉しいことでした。今までは、「詞も曲も、全部自分で作らないと価値がない」と思っていたところがあったので、「歌だけでもいい」と、自分の歌を必要としていただけたことは、すごく嬉しかったです。
―前回のインタビューのとき、糸奇さんは「必要とされたい」とおっしゃっていましたよね。先ほどの糸奇さんの言葉を借りると、他の何かが「欠落」した状態でも、歌が必要とされることで、その世界に存在できることが嬉しかった?
糸奇:そうですね。もともと、歌にも自信がなかったんですよ。大学では声楽を専攻していましたけど、どれだけ練習を頑張っても、トップの子とは素質も体格も演技力も違って、敵わない。「じゃあ、どうしようか?」と考えたのが、詩のことや音楽理論を人よりも頑張ろうと考えたきっかけなんです。
今は期待していたいし、期待されたいなって思います。
―糸奇さんの音楽活動のはじまりにも、ある種の「欠落」があったと。
糸奇:歌の技術が一番になれなかったとしても、それ以外の部分にパラメーターを振ることで、先生にも「面白いところを自分で学ぶ子だね」って見てもらえたりしたところがあって。DTMでの創作も、詞やイラストも頑張ることで、歌も聴いてもらえるようになりたかったっていうのがあったんですよね。それもあって、「歌い手」として求められたことが嬉しかったです。
―改めてなんですけど、糸奇さんは、ご自身の世界観を強く持ちながらも、何かの一部であることを強く望んでいる。それはなぜなんだと思いますか?
糸奇:やっぱり……寂しいんじゃないですかね?(笑)
―うん(笑)。でもその寂しさの奥には、いろんな想いが張り巡らされている気がします。
糸奇:そのあたりは、自分で考えてもぐるぐる回ってしまうんですけど……。自分だけの完璧な箱庭を作って、それを誰にも見せずに愛でることで幸せになれる人もいると思うし、それでもいいとも思うんです。でも、いろんな意識が芽生える前の子どもだった頃、どんなに拙い絵を描いても、「見て見て!」って言って人に見せていたじゃないですか。あの「見て見て!」の気持ちは、みんなが持っていたはずだけど、いつの間にか失っていくんですよね。
糸奇:その絵を誰も見てくれなかったり、「下手くそ」って言われたり……そういう経験を積んでいくなかで「見て見て!」って言えなくなってしまう。そういう人はたくさんいると思うんです。でも、今は期待していたいし、期待されたいなって思います。そのうえで勝手に裏切られて、勝手に傷つくような精神は、私にはあまりないんです。
―糸奇さんは、ご自身の創作を世に出すことによって、傷ついたことはないですか?
糸奇:これは、私が自分に言い聞かせている座右の銘みたいなもので、きつい言い方かもしれないんですけど、「傷ついてしまう人が悪い」と思うんです。人を傷つける言葉を投げつける人って、3分後にはそれを言ったことすら忘れていると思うんですよ。人は言いたいことを言っているだけなので、そんなことで傷つくぐらいなら、その言葉をただ冷静に受け止め、誰かに期待されたとき、それに応えるために頑張りたいと思います。いろいろなものを作って、「私はここにいるぞ」って言いたいです。
やっぱり私は、ひとりよがりな創作には価値はないし、意味はないと思います。
―その「私」というのは、「糸奇はな」自身のことですか?
糸奇:いえ、ここで言う「私」は、決して自分自身のことではないです。あくまでも、自分の作った「作品」が生きているんだぞって言いたいんだと思います。「糸奇はな」という名前を知らなくても、誰かが、私の作った曲だけでも知っていてくれているのであれば、すごく嬉しいなと思う。作品が、「私」という存在を代弁してくれているので。
―糸奇さんは、表現者として、とても強いですよね。
糸奇:これは「強さ」と言うのかな……。
―僕は「強さ」だと思います。表現には、その表現者自身を守るため生み出されるものも多々あると思うんです。でも、糸奇さんの表現は、「その存在を『発信』するために存在する」という性格が色濃い。それを一貫してできる人は、強いなと思います。
糸奇:……人によっては、自分のやりたいことを曲げることを「かっこ悪い」と思う方もいると思うんですけど、やっぱり私は、ひとりよがりな創作には価値はないし、意味はないと思います。
私自身にとって、どれだけきれいな、大切な箱庭があったとしても、好きな人に「それはないわ」って言われたら、どうしたら「ない」と言われずに済むんだろうって考えて、その箱庭をちょっと改良すると思うんです。ひとりぼっちで愛でているより、多くの人に愛でてもらえるようになるのなら、私は、自分の箱庭に手を入れます。
―そういった経験は、糸奇さんには普段からありますか?
糸奇:あります。最初に書いた歌詞を「これはきつすぎる」と思って書き変えることがたまにあるんですけど、それでも、消した言葉は、消した分だけ音色やイラストで表現できないかと考えるようにするんです。「自分を曲げる」という言い方はあまりしたくないですけど……でも、「曲げる」のであれば、私は、とても真剣に曲げていると思います。
―前回のインタビューで(糸奇はなが語る、貪欲で多彩な表現活動の背景にある2つの苦悩)、糸奇さんは「誰かにいてほしいと思ったとき、その誰かがいないことが、自分にとっては重要だ」とおっしゃっていたじゃないですか。今のお話は、その「不在」を大切に思う感性と通じる部分もあると思いますか?
糸奇:ちょっと通じるところはあるかもしれないです。「不在」を抱えるということは、「if(もしも)」の世界がすごく広がるということだと思うんです。
私にとっての「不在」っていうのは、ハンガーだけがあったり、空っぽのひきだしだけがあったり……そういう状態で「いる」ということ。
―「if(もしも)」の世界が広がる、というのはどういうことですか?
糸奇:「不在」があることによって、「あの人がいたら、この景色はどう見えるだろう?」とか、「きれいに見えるのだとしたら、どんなふうにきれいなのだろう?」とか……そうやって枝分かれしていきながら、どこまでもポジティブに考えることができるし、逆に、どこまでもネガティブにもなれる。
―糸奇さんにとって「不在」という言葉は、その先にある無限の想像を示す言葉でもあるんですね。でも確かに、人は、本当に「ない」ものについては考えることも、想像することもできないですからね。「不在」という言葉は、「存在」の証明でもある。
糸奇:そうですね。私にとっての「不在」っていうのは、何も部屋にない状態というよりは、ハンガーだけがあったり、空っぽのひきだしだけがあったり……そういう状態で「いる」ということなんだと思います。
―……やっぱり、話せば話すほど、糸奇さんは強くて、そして大人だなぁと思います。
糸奇:いやぁ、そんな大人ではないです……。この間も、スマホと財布しか入らなさそうな全く実用性のないウサギのバッグを見て、「可愛いー! ほしいー!」って騒いでましたから(笑)。
―大丈夫です。ウサギのバッグを持っている大人も、きっといます(笑)。
糸奇:ふふふ(笑)。
バイロンさんの詩からは景色が見えて、何かが聴こえてくるような気がした。
―シングルのカップリング曲“EYE”は、“環-cycle-”とは打って変わって、作詞作曲は糸奇さんご自身でされていますけど、いつ頃生まれた曲なんですか?
糸奇:今年の2月ごろ、『ROLE PLAY』が出たちょっとあとくらいにできた曲です。今まで私は、「何も見たくない」とか「目を閉じる」とか、そういう言葉を頻繁に歌ってきたけど、逆のことを歌ってみようと思って、この曲を作りました。
―実際、“EYE”では<僕は見たい>とか、<目も くらむ ような 一瞬に であってみたい>とか、前向きで力強い言葉が歌われていますね。
糸奇:それこそ、ずっと「何も見たくない」と歌ってきたのは、何かを見ることに飽きてしまったり、見たいものは夢のなかだけにあるもので、自分の力では形にできないんだっていう逃避的な意味合いが強かったんです。でも、そう考えると、「見たくない」ということは、本当は「見たい景色がある」っていうことでもあるじゃないですか。
―先ほどの「不在」と、そこから生まれる「if(もしも)」の話につながりますね。
糸奇:そう。そこから、じゃあ、私が見たいのはどんな景色で、私はどこに行ったら「目を開けていたい」と思えるんだろう? と考えたんです。前回もお話ししましたけど、私はジョージ・ゴードン・バイロンさんの詩がすごく好きで。
彼の詩は悲しみや怒りの表現もそうだけど、彼にとっての憧れや、すごく美しいものを描く表現が素晴らしくて。改めて、音も歌もないけれど、彼の詩からは景色が見えて、何かが聴こえてくるような気がしたんです。それで、自分もそういう世界を作ってみたいなぁって思ったんです。
―怒りや悲しみだけでなく、憧れや世界の美しさも描く……そこにある両義性を描くことによって見えてくる景色や、聴こえてくる音があるということですね。
糸奇:現実や現状が悲惨なほど、妄想や空想って「憧れ」が凝縮された、きれいなものになっていくと思うんです。そういう対比もちゃんと伝えたいなと思って。“EYE”の歌詞のなかで、<ぼくは まだ この世界を ぼくを 見捨てない>と書きましたけど、この言葉が一番伝えたいことなんです。
でも、この言葉の背景には、この曲の主人公は<まだ見捨てない>と言ってしまうくらい、自分にも世界にも絶望してもいる。ずっと0だった人が100になるより、ずっと-100だった人が100になるほうがギャップがあって面白いように、何かが反転する可能性を指し示せたらなっていう思いもありました。
私は、信じることで幸せになれたら、それで勝ちだと思うんです。
―ご自身にとって、この“EYE”という曲が、メジャーからリリースされる1stシングルに入っていることは、重要なことだと思いますか?
糸奇:そうですね。この曲で描いているのは紙一重な希望だし、「一歩踏み出す」っていう意味合いもある曲なので。あと、5年前に初めてネットにアップしたオリジナル曲“夢日記”という曲があるんですけど、その曲のイントロにあるピアノのフレーズを“EYE”のイントロに、違う楽器でそれとなく入れていて。間奏でも同じようなことをしているんです。
―5年前の“夢日記”と、2017年の“EYE”をつなぎ合わせようと思ったのは、どうしてだったんですか?
糸奇:“夢日記”は、自分が初めてネットにアップした曲なので、すごく思い入れがあって。5年前からずっと応援してくださっている方のなかには、「メジャーデビューして、たくさんの人に聴いてもらえるのは嬉しいけど、作風が変わっちゃわないかな」とか、「離れていくようで寂しい」とか、そういうふうにおっしゃっている声もちらちらとあるんです。
でも、5年前の“夢日記”と同じ旋律を入れることで、そういう方たちにも、どれだけ私の活動や作るものに多様性が生まれて、変わっていったとしても、「最初に抱いていた気持ちは今も変わってないよ」っていうことを伝えたいなって思って。
―では、これまでも、きっとこの先も、糸奇さんのなかで「変わらない気持ち」ってどんなものだと思いますか?
糸奇:そうですね……“夢日記”は、歌詞の1行目が<落ちる瞼の奥で>ではじまって、最後は<僕は目を閉じていよう>で終わるんです。“EYE”も、<僕は 見たい>と歌いながら、最終的には<きみを ゆめみてる 目を閉じたまま>で終わっていく。
やっぱり、“夢日記”の頃から変わらないのは、「不在」という感覚だと思います。「そこにないものを夢見る力」というか。私は、信じることで幸せになれたら、それで勝ちだと思うんです。そこにないものを夢見たり、そこにないものを信じる力が、どれだけ自分を救うのか……それをずっとずっと、私は表現したいんだろうなって思います。
糸奇はな『環-cycle-』ジャケット(Amazonで見る)
- リリース情報
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- 糸奇はな
『環-cycle-』(CD) -
2017年11月1日(水)発売
価格:1,296円(税込)
VTCL-352641. 環-cycle-
2. EYE
3. 環-cycle-(Instrumental)
4. EYE(Instrumental)
- 糸奇はな
- プロフィール
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- 糸奇はな (いとき はな)
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英仏の歌曲を吸収したボーカルパフォーマンスと、儚い内面性を表現する歌詞世界、クラシカルな要素が強くありながらも打ち込みを駆使した現代的かつエッジーなサウンドメイクで独自の幻想的な音楽を提示する新世代ハイブリッドアーティスト / シンガーソングライター。小学生の頃に観た『オペラ座の怪人』に衝撃を受け、憧れ、声楽を学び始めた後、オリジナル曲の制作を開始。2016年8月10日には初のフィジカル作品となる『体内時計』手づくり版を110枚限定リリースし即完売。この作品は1枚1枚手刷りした版画でCDを包みナンバリングを入れるという凝りに凝った作品。これが音楽関係者の間で話題となり、11月にはタワーレコード限定の全国流通版として『体内時計』レプリカ版がリリースされ話題となった。歌唱、作詞、作曲、アレンジ、打ち込み、楽器演奏、といった音楽にまつわる全てのことをひとりでこなし、それだけでなくイラスト、動画、漫画、版画、刺繍、ゲーム作りからモールス信号まで、様々なやり方で独自の世界を表現するマルチアーティスト。
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