ソウルミュージックと白人ポップスを融合させた「ポップン・ソウル」を追求し、デビューから20年もの間シーンの最前線で活躍し続けているNONA REEVES。今年10月、彼らの15枚目のアルバム『MISSION』がリリースされました。西寺郷太さん、奥田健介さんという二人のソングライターの才能が拮抗した楽曲、小松シゲルさんのグルーヴ感溢れるドラムと融合した高密度なサウンドプロダクションを堪能できる本作。NONA REEVESが紛れもなく「バンド」であることを証明した重要なアルバムと言えるでしょう。
そのバンドのフロントマンであり、他アーティストのプロデュースや楽曲提供、さらには「1980年代ポップス研究家」としても執筆活動も積極的に行なっているのが西寺郷太さん。もともとは彼のソロプロジェクトとしてスタートしたNONA REEVESは、一体どのような試行錯誤を経て現在の姿になっていったのでしょうか。彼のプライベートスタジオである「ゴータウン・スタジオ」に潜入しました。
マイケルやプリンスに胸を躍らせた、西寺の早熟な幼少時代
京都出身の西寺さんは、とにかく音楽が好きな子どもでした。保育園の頃からピンク・レディーや都はるみなど、歌番組で流れた曲を覚えては友達の前で歌ってみせていたそう。初めて自分から「欲しい」と親に言って買ってもらったレコードは、田原俊彦『グッドラックLOVE』(1981年)、近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』(1981年)、そしてイモ欽トリオ『ハイスクールララバイ』(1981年)の3枚でした。
西寺:トシちゃん(田原俊彦)は、「The Jacksons的なサウンドやダンスを換骨奪胎して日本に輸入する」っていう当時のジャニーズが目指していたことが最も具現化されたアイドルだったんですよ。
“ギンギラギンにさりげなく”は作詞が伊達歩こと伊集院静さんで、作曲が筒美京平さんだったし、イモ欽トリオの“ハイスクールララバイ”の作詞は松本隆さん、作曲は細野晴臣さん。そうやって考えてみると、僕が好きなテイストはもうこの頃から一貫してるんです(笑)。
西寺:その次の年にマイケル・ジャクソンが『Thriller』(1982年)をリリースしてから、 Wham!やCulture Club、プリンスっていう洋楽の波が日本にもどんどんやってきて。それをもう、浴びるように聴く毎日でした。
日本の男性アイドルポップ、いわゆるジャニーズミュージックと、1980年代の洋楽。当時から本格的なブラックミュージックより、「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる白人的な感性で黒人音楽への憧れを再構築したアーティストが特に好きでしたね。英国出身の若い音楽家が大活躍していた時期です。なかでも特に心酔したのはWham!のジョージ・マイケルだったんですよ。
バンドを組むより先に、作曲にのめり込んでいった西寺少年
マイケル・ジャクソンやプリンスのような洋楽は、1973年生まれの西寺さんよりも上の世代が聴いていた音楽で、当時は気の合う音楽仲間がいなかったそう。すでにその早熟ぶりが窺えますが、10歳にしてラジカセとウォークマンを使って「曲を作る楽しさ」を覚えてしまった西寺さんは、頭のなかで鳴っている音楽を具現化するための方法を模索し始めます。
西寺:中高生の頃は完全に洋楽志向でした。80年代は、60年代の「モータウン再評価」の時代でもありました(「モータウン」はマイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーが所属した黒人ポップ・レーベル)。その流れから派生して、ジョージ・マイケルはもちろんフィル・コリンズやビリー・ジョエル、Daryl Hall & John Oatesのような、洗練されたコード進行を使っていたり、アレンジを作り込んでいてグルーヴィーな楽曲が大好きだったんです。頭ではいろんなオリジナル曲が鳴るんですが、中学生の頃は楽器奏者としてのスキルは全くなかったのでバンドも組めなくて、頭でっかちの洋楽かぶれみたいになっていました。
西寺:プレイヤーとしては、高校生になって入った吹奏楽部で3年間みっちりドラムを習ったのは大きかったと思います。放課後はずっとメトロノームに合わせてビートを叩く練習をしていて。先生やコーチがいたのは、あの頃だけですね。地味な基礎練はつまらなかったけど、そこでリズム感は相当鍛えられました。
あと、ブラスバンドってパートごと、フレーズごとに細かく練習をするんですけど、それを経験できたのも大きい。おかげで音楽を聴いているときも、それぞれの楽器が別々にどう動いているのかを注意して聴くようになったので、アレンジ力も相当ついたんじゃないかな。特にこの頃、課題曲として知ってハマったのは(ジョージ・)ガーシュインの“ラプソティー・イン・ブルー”(1924年)。レナード・バーンスタインの“ウエスト・サイド・ストーリー”を顧問でピアニストの西田秀雄先生と、僕を含めた生徒3人の少人数で演奏したこともありました。マイケルやクインシー(・ジョーンズ)の源流にミュージカル音楽は当然ありますし、自分が今、ミュージカル音楽を作る立場になって10代の頃の吹奏楽部での経験がかなり役立ってます。
20年苦楽を共にしてきた仲間との出会い
そんな西寺さんが、のちにNONA REEVESのコアメンバーとなる奥田健介さん(Gt,Key)、小松シゲルさん(Dr)と出会うのは、早稲田大学に入学してからでした。数ある音楽系サークルのなかから「トラベリングライト」(現在は廃部)を選んだ西寺さんと小松さん。そこには、のちにCymbalsのドラマーとなる矢野博康さんや、KIRINJIのベーシストとなる千ヶ崎学さんもいました。
西寺:矢野さんが新歓コンサートでアシッドジャズ的なバンドをやっていて。たぶん、IncognitoやBrand New Heaviesのコピーだったと思うんですけど。ゴーストノートでグルーヴ感出してるドラムに痺れてしまいまして。矢野さんのドラムがカッコよすぎるという理由で、同級生の小松を誘ってそのサークルに入ったんですよね。で、1つ下の後輩だった奥田は、僕と小松が新歓コンサートでSly & The Family Stoneのコピーバンドをやっているのを見て、「トラベリングライト」に入ってきて。
西寺:ただ、学生時代は奥田、小松、千ヶ崎は別のバンドで。ノーナは最初、僕のソロユニットという形でスタートしたんです。僕がやろうとしていたような「80年代的な陽気なポップス感覚」って、一番ダサいとされてた時代だったんですよ。そういう意味では、奥田はちゃんと「90年代を生きて」ましたね(笑)。
僕がまったく知らなかったフリッパーズ・ギターも奥田は好きでしたし、The Stone RosesやPrimal Scream、マシュー・スウィートや、マーティン・デニー、The Beach Boysの『Friends』とかもちゃんと聴いてて。サークルでも「耳が異様にいい、クールなギタリスト」っていう立ち位置だったから、まさか20年後に、レキシのサポートの武道館で稲穂の被り物でノリノリなんて思いもしなかったけど(笑)。
J-POP全盛期にデビューしたNONA REEVESがイメージを確立するまで
当初、5人編成だったNONA REEVESは、1996年12月に1stアルバム『SIDECAR』をリリース。翌年の2ndアルバム『QUICKLY』の発表と同時にメンバーが2人脱退し、現在の3人体制になります。
西寺:初めての印税で当時ヴィンテージのアコギ、Gibson「J-50」を買ったらものすごく気に入ってしまって。ワーナー(ミュージック・ジャパン)に移籍した最初のアルバム『ANIMATION』(1999年)が、アコギばっかり入ったフォーキーかつビートリーな曲が多かったのは、そのせいです(笑)。
西寺:当時、The Beatlesの『アンソロジー』シリーズが発表されて、いわゆるローファイ的な文化とアンプラグドブームがあって、『アンソロジー』の未完成のフィーリングのようなものが再評価されはじめていたタイミングで。StereolabやThe High Llamasのようなバンドも頭角を現してきて、そういう流れに思いっきり影響を受けてしまったんです。インディー時代の楽曲を聴いて見込んでくれていたワーナーからしたら、「お前ら、話が違うやん!」って感じですよね(笑)。
西寺:3枚目『DESTINY』(2000年)あたりで「ちゃんと売れなきゃマズイ」と思って(笑)。ちょうど子どもの頃から大好きだった筒美京平さんがノーナに目をつけてくださってプロデュースしてもらうチャンスがあったので、“LOVE TOGETHER”や“DJ! DJ! ~とどかぬ想い~ (feat. YOU THE ROCK★)”の2枚のシングルを作りました。MTV洋楽にハマる以前の原点回帰というか、僕のなかでは、京平さん的な歌謡ポップは完全にルーツなんです。その時期に書いた明るいラップチューン、“パーティは何処に?”も代表曲のひとつですね。
ノーナといえば、この頃のイメージが強い人は結構多いと思いますね。それまでの箱庭的なポップスから、Daft Punk、ファレル・ウィリアムス、ブルーノ・マーズのやっていることとも近い、もっとグルーヴィーな路線へシフトしていきました。
「僕らにしてみたら完全に逆風状態だったんです。何をやっても響かなかった」
2002年、日本コロムビアに移籍したNONA REEVESは、通算4枚目『NONA REEVES』と、翌年に5枚目『SWEET REACTION』をリリースします。当時はRIP SLYMEやKICK THE CAN CREWといった、ポップなヒップホップがチャートを席巻、その数年後にはCymbalsやスーパーカー、PEALOUTといった同世代のバンドが相次いで解散するなど、音楽シーンが大きく移り変わっていく時代でした。
西寺:残っているバンドも、たとえばくるりが『TEAM ROCK』(2001年)以降、打ち込みを導入して「次の手」を模索し始めていた頃で。僕らとしても、コロムビア時代もいいアルバムを出してきたつもりなんですよ。でも、いわゆるアラサー世代になって「ちょっと前のバンド」というイメージになりつつあったり、さらにWeezerやOasisに影響を受けたフェス仕様の1990年代リバイバルなギターロック・バンドが大流行したり。「おい! いつの間にか80年代通り越していったで!」みたいな(笑)。僕らにしてみたら完全に逆風状態だったんです。何をやっても響かなかった。
この時期は、いしわたり淳治くんを迎えて“透明ガール” (2005年)を作ったり、RHYMESTERの宇多丸さんをフィーチャーした“ラヴ・アライヴ”(2005年)をリリースしたりしましたね。2007年には発表したプリンスを意識した『DAYDREAM PARK』は自信作ですし、逆風状態といっても、創作のモチベーションはずっと上向きだったんですよね。
西寺のプライベートスタジオ「ゴータウン・スタジオ」のレコーディングルームにて
2009年、マイケル・ジャクソンが急死。その前後からマイケルに影響を受けたブルーノ・マーズやLady Gagaといったアーティストが台頭し、さらにDaft Punkが発表した『Random Access Memories』(2013年)の世界的ヒットをきっかけに、1980年代ポップスへの再評価も加速していきます。NONA REEVESも、この頃から再び脚光を浴びるようになっていきました。
西寺:マイケルが亡くなる少し前から、彼や80年代ポップスについての原稿執筆や、ラジオの特集番組への西寺郷太個人としての出演オファーがどんどん増えていました。宇多丸さんの『ウィークエンド・シャッフル』に出演し、TBSラジオの帯番組、小島慶子さんの『キラ☆キラ』レギュラーコーナーが決まり。そこでの啓蒙活動が、ある種NONA REEVESへの追い風になっていたのは間違いないですね。
僕らのファンって、デビューしてからずっと女性が多かったのですが、ここ最近は10代後半~20代前半の男性が増えていて、今は4割くらいが男性で、握手会をやると10代の男の子がとにかく多いんですよ。今のマネージャーは10代の頃に『キラ☆キラ』の僕のコラムを毎週聴いて音楽の趣味を広げたという男で。「郷太さんの元で働かせてください!」みたいな(笑)。あと、いろいろプロデュース仕事をしてスキルを身につけたんで最近のノーナの曲にはちょっとアニソンっぽいのもあって。アニソンって現代の歌謡曲ですよね。そういうところがウケているのかなと勝手に推測していますね。
20年選手のNONA REEVESがキャリアハイを更新できたワケ
今年10月、ワーナーミュージック・ジャパンに再移籍しての第一弾であり、デビュー20周年を記念する通算15枚目のアルバム『MISSION』を発表。本作は、NONA REEVESが改めて自らのルーツを見直し、洗礼されたソウルミュージックと白人ポップスの融合である、「ポップン・ソウル・ミュージック」を追求した意欲作です。
西寺さん、奥田さんがそれぞれアイデアを持ち寄り、それらを小松さんとともに混ぜ合わせたり組み直したりしながら作り上げられた楽曲は、NONA REEVESという「バンド」にしか生み出せないものと言えます。
NONA REEVES『MISSION』ジャケット(Amazonで見る)
西寺:とにかく、この20年で最も変わったのは三人の役割分担。最初は僕のソロプロジェクトとして始まったノーナですけど、奥田が曲を書くようになり、小松がサポートドラマーとして様々なフィールドで活躍し、ライブバンドとしての基礎体力を上げてくれたおかげで、この三人が揃って初めて成り立つ「バンド」に成長したと思うんです。
たとえば“ヴァンパイア・ブギーナイツ”は、僕と奥田のデモをかけ合わせているし、“O-V-E-R-H-E-A-T”もジグザグに混ぜ込んでいる。“NEW FUNK”はフランク・オーシャンみたいな曲にしたかったんですけど、奥田がポール・マッカートニーみたいな展開を加えてくれたおかげで、楽曲に深みが出ましたし。
西寺:そういうバンドマジックは、僕一人で曲を作っていたら生まれないですからね。他アーティストへの楽曲提供も含めると、それこそ何百曲と書いてきて、自分の手グセみたいなものも知り尽くしてしまうと、自分一人で作った曲をバンドで歌い続けるのって結構つらいんですよ(笑)。だから、バンドのなかにもう一人ソングライターがいてくれるというのは、とてもありがたいなって思います。
シンプルながら完全プロ仕様。西寺のアイデアを即座に具現化するプライベートスタジオとお気に入りの機材を紹介
都心にある一軒家、その2階をプライベートスタジオにしている西寺さん。シンプルながら必要なアウトボードがひと通り揃ったコントロールルームと、CDやレコードが壁いっぱいに陳列されたレコーディングルーム。その至るところにマイケル・ジャクソンのフィギュアやポスター、ライオネル・リッチーのサイン入りレコードなど「お宝」が飾られています。
「ゴータウン・スタジオ」と名づけられたこの場所で、様々な名曲が生まれ、レコーディング&ミックスが行われてきました。
西寺:簡単なデモ音源ならここでサクッと録れてしまうし、ときには他アーティストやアイドルにも来てもらって、本チャンのボーカル録りを行うこともありますね。ノーナを長く手がけてくれているエンジニア・兼重哲哉や、サウンド周りを統括してくれてる齊藤竜也さんから勧められた機材を導入しています。本格的に録音するターンになれば、兼重が自分の機材を全て持ち込むので、音のクオリティーは全く問題ないです。
お気に入り機材1:Arturia「KeyLab 49」
Arturiaのソフトシンセを愛用しているという西寺さん。この「ANALOG LAB」は、Arturiaのビンテージアナログシンセ群、「MODULAR V」や「MINI V」など5000もの音色をプリセットに搭載し、即戦力とそして使えるのが特徴。MIDIキーボードと、ビンテージアナログソフトシンセの機能を兼ね備えた「ハイブリッドシンセ」です。
Arturia「KeyLab 49」(現行ラインナップ)
西寺:僕はとにかく、思いついたアイデアをすぐに試したいんですよ。なので、機材もできる限り少ないほうが効率がいいし、何度も買い換えるのは面倒なので、一度操作を覚えたらずっとそれを使い倒したいんですね(笑)。手が座ったまますべてのツマミに届くのも大事。機材や部屋はあくまでも「いい曲を作るための道具」というか、僕はキーボーディストではないので本格的な鍵盤も必要なくて。
そんな自分にとって「KeyLab 49」はとても便利。49鍵というのもちょうどいいし、付属のソフトシンセ「ANALOG LAB」で、コンピュータのモニターを見ながら(大画面で)細かく音色のエディットもできるのも嬉しい。ドラムマシン「SparkLE」とセットで使うことも多いですね。
「KeyLab 49」の右にあるのが、ドラムマシン「SparkLE」(商品詳細を見る)
お気に入り機材2:AKG「N90Q」
西寺さんが敬愛するクインシー・ジョーンズ監修のもと、AKGが開発したヘッドフォンがこちら。新開発の大口径52mmドライバーを採用し、ワイドレンジな音場を実現。一人ひとりの耳に最適な音をセットアップするオートキャリブレーション機能や、独自のDSP技術による頭内サウンドステージ補正機能などを搭載しています。
西寺:ゴールドのケースが高級感を醸し出していますよね。市場価格は約18万円だそうです。「クインシーといえば郷太さん」ということで、AKGさんからモニターを頼まれたのでありがたく使っています(笑)。
アンプが内蔵されているので結構重いのですが、高級ヘッドフォンだけあって音像の立体感など他とはかなり違いますね。ミックスダウンのときは、様々なモニター環境でリファレンスしたいので、そのうちのひとつとしてとても重宝しています。
お気に入り機材3:KORG「KROSS」
ライブで使用することが多いというKROSS。超軽量・小型ボディーに電池駆動なのでモバイル向きである上、弾きたい音色をパッと選んで感覚的にエディットできるシンプルな操作性は、ファーストシンセとしても人気の高いモデルです。
KORG「KROSS」(現行ラインナップ)
西寺:最近、ノーナはカフェライブをやることが多く、狭い空間にも持ち運べるような、コンパクトな鍵盤楽器を探していたんです。今作でも参加してくれたプロデューサー / キーボーディストの冨田謙さんはKORG「KRONOS」を使っていて、それもいいなと思ったんですが、さすがに重いしデカ過ぎるかなと(笑)。
KROSSは、オールインワンシンセとしてはビギナーズモデルではあるけど、このサイズでこのサウンドなら申し分ないなと思いました。コストパフォーマンスは非常にいいですよね。ちなみに、ライブで演奏しているのは奥田です。なのでこれは、僕のお気に入りというよりバンドのお気に入りということになります(笑)。
お気に入り機材4:BAE「1073DMP」
自宅でも本格的なボーカルレコーディングをするため、エンジニアの兼重哲哉さんに勧められ購入したマイクプリ。BAEのマイクプリアンプ「Classic 1272 Mic Preamp/DI」の1チャンネルを、専用電源と共にコンパクトで堅牢なケースに内蔵したデスクトップモデルです。
西寺:このスタジオでデモ音源を作っているときに、コーラスなども仮で入れることが多いんですけど、最近はそれがそのまま本チャンで採用されることも多くて。そんなとき、スタジオで録り直さなくて済むよう、自宅の機材環境も整えておこうと思ったんです。持ち運びできるサイズなんで、気に入ったベースの村田シゲ(口口口)も同じのを買ってました。
デモ用のマイクはいつもAudio-Technica「AT4060」を使用していて、場合によってはこのプリアンプの他に、コンプレッサー「Purple Audio MC77」を経由してコンピュータに取り込んでいますね。プリンス好きなんでパープルで(笑)。自分でもびっくりするくらい良質な音で録れます。もうこのセットがないと、ボーカルを録る気にならないですね(笑)。
「『MISSION』は、最初から用意されていたような不思議な気持ちがするんです。これを作るために、僕らは様々な紆余曲折を経てここに来たんじゃないか、と」。そう話してくれた西寺さん。激動するシーンをサバイブし、多岐にわたる表現活動を続けながら44歳を目前にした今、「これからも長く活動していくための準備がようやく整った」と語る彼が、憧れのクインシー・ジョーンズやスティーヴィー・ワンダーのように、時代を超えて愛される存在になる日は近いのかもしれません。
- リリース情報
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- NONA REEVES
『MISSION』(CD) -
2017年10月25日(水)発売
価格:3,240円(税込)
WPCL-127811. ヴァンパイア・ブギーナイツ
2. Sweet Survivor
3. Danger Lover feat. いつか(Charisma.com)
4. NEW FUNK
5. NOVEMBER
6. 未知なるファンク feat. 曽我部恵一(サニーデイ・サービス)
7. 大逆転
8. 麗しのブロンディ
9. 記憶の破片 feat. 原田郁子(clammbon)
10. O-V-E-R-H-E-A-T
11. Glory Sunset
- NONA REEVES
- イベント情報
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- 『ノーナとHiPPY CHRiSTMAS 2017』
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2017年12月9日(土)
会場:大阪府 心斎橋Music Club JANUS2017年12月17日(日)
会場:東京都 渋谷CLUB QUATTRO
- 『NONA REEVES “MISSION 2018”』
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2018年2月18日(日)
会場:東京都 TSUTAYA O-WEST
- プロフィール
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- NONA REEVES (のーな りーゔす)
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1995年5月、西寺郷太が「ノーナ・リーヴス」名義での活動を開始。ほどなく早稲田大学で同じ音楽サークルに所属していた小松シゲル、奥田健介が加入。1997年11月、ワーナーミュージック・ジャパンからメジャー・デビュー。ソウル、ファンク、80'sポップスなどに影響を受けた独自の音楽スタイルで、確かな支持を集めてきた。現在ではメンバーそれぞれがバンド外でも活躍。西寺郷太は音楽プロデューサー、作詞作曲家、執筆、MCとして。奥田健介は作曲家、及びレキシやCoccoなどのギタリストとして。小松シゲルは佐野元春、YUKI、オリジナル・ラブなどのサポート・ドラマーとして活動。メジャー・デビュー20周年を迎えた2017年、古巣ワーナーミュージック・ジャパンに復帰。3月にベスト・アルバム『POP'N SOUL 20~The Very Best of NONA REEVES~』を発表。10月25日に、15枚目のオリジナル・アルバムにして最高傑作『MISSION』をリリースした。
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